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分岐点

時が過ぎ、祖国の歪みは、まるでゆっくりと進む病のように、不可逆的に社会の深部を蝕んでいった。

1984年、アンドロポフが死に、老いたチェルネンコが後を継いだ。クレムリンの指導者たちが次々と斃れていく様は、まるで国家そのものの寿命が尽きかけているかのようだった。


その間、ヴィクトルはスヴェルドロフスクのゴスプラン官僚として、ただ黙々と自らの仕事をこなし続けた。

彼は数字と格闘し、生産計画を立て、非効率な工場の再編案を練り上げた。その実直で、決して諦めない粘り強い姿勢は、現場の工場長たちからも、党の同僚たちからも、少しずつ評価を掴んでいった。


無論、腐敗はあった。彼の正論が、見えない壁に阻まれることも一度や二度ではなかった。

だが、彼がエリツォンの庇護下にあることは、誰もが知っていた。州の絶対的権力者であるエリツォンが「俺の男だ」と公言して憚らない若手を、あからさまに排除しようとする者はいなかった。

それは、眠れる熊の足を踏むようなものだったからだ。


そして、運命の年が訪れる。


1985年、ゴルバノフが書記長に就任し、改革ペレストロイカの槌音が、まだ微かにではあるが、国中に響き始めていた。

その数ヶ月後、ついにエリツォンの中央政界への栄転が決まる。スヴェルドロフスクの党本部は、新たな時代の到来に沸き立っていた。


そんなある日、ヴィクトルは党の古参幹部から、奇妙な話を耳にした。


「ペトロフ君、君にぴったりの仕事があるかもしれんぞ」


その男は、普段ヴィクトルを快く思っていない一人だった。値踏みするような目で、彼は続けた。


「レニングラードで、なにやら新しい経済の仕組みを試すらしい。市場原理とかなんとか、西側の真似事のようなものだ。誰もやりたがらん、いかがわしい計画だがね」


その口調は、明らかに「いい厄介払い」だと言わんばかりだった。

改革の主流から外れた、日陰者のための仕事。エリツォンという後ろ盾を失うお前にふさわしいじゃないか、という嘲笑が透けて見えた。


だが、その言葉を聞いた瞬間、ヴィクトルの心臓は、まるで冷たい水に飛び込んだかのように、激しく鼓動した。


レニングラード。市場実験。


計画経済の限界を、その骨の髄まで知り尽くしている彼にとって、その言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように思えた。

誰もが避ける道。だが、あるいはそこにこそ、この国を救うための鍵が隠されているのではないか。


彼は表情を変えず、静かに礼を言った。

しかし、彼の頭脳は既に、新たな方程式を解くために、猛烈な速さで回転を始めていた。

モスクワへ向かうエリツォンとは別の道を、彼は自ら選ぼうとしていた。


その夜、ヴィクトルは再び兄のユーリと、質素な食卓を囲んでいた。ウォッカのグラスが、ランプの光を鈍く反射している。

エリツォンがモスクワへ旅立てば、自分もまた、この見慣れたスヴェルドロフスクを去ることになるだろう。だが、向かう先は栄光の中央政界ではない。


彼は、茹でたジャガイモを口に運び、しばらく沈黙していた。

やがて、意を決したように顔を上げ、兄の目をまっすぐに見つめた。


「兄さん」


彼の声は、いつになく真剣だった。


「もし、もしだけど。私が、皆に嫌われる道を選んだとしても……」


ヴィクトルは一度言葉を切り、ゆっくりと続けた。


「その結果、皆が今より少しでも幸せになれるなら、私は正しいことをしたと、思ってくれないか」


それは、抽象的で、奇妙な問いかけだった。だが、その言葉には彼の覚悟の全てが込められていた。

栄光が約束されたエリツォンの道から外れ、異端として扱われるレニングラードの市場実験に身を投じる。それは、党の主流から見れば「裏切り」であり、「日陰者」としての道を自ら歩き出すという決意表明だった。


ユーリは、難しい経済理論など分からない。市場原理が何かも知らない。

だが、目の前の弟が、何かとてつもなく大きく、そして危険なものに、たった一人で挑もうとしていることだけは痛いほどに察した。その瞳には、かつてないほどの覚悟の光が宿っていた。


兄に学はなかったが、家族の魂の機微には聡い男だった。


彼は黙ってウォッカのグラスを干すと、テーブル越しに弟の肩に、ごつごつとした大きな手を置いた。


そして、ただ一言、力強く頷いた。


言葉はなかった。だが、その頷きは、どんな雄弁よりも深く、ヴィクトルの心に届いた。

お前がどんな道を選ぼうと、俺はお前の味方だ。理由は要らない。お前は、俺のたった一人の弟なのだから。


ヴィクトルの目頭が、わずかに熱くなった。彼はそれを隠すように、自らのグラスを一気に呷った。

喉を焼くウォッカの熱さが、彼の決意をさらに硬く、確かなものへと変えていくようだった。



1986年、スヴェルドロフスク。

雪解けの泥が道を覆う春、ヴィクトルは使い古されたコートの襟を立て、スヴェルドロフスク駅のプラットフォームに立っていた。

エリツォンが首都へと飛び立って数ヶ月、庇護者を失った彼を見る党の同僚たちの視線は、明らかに冷ややかになっていた。レニングラードへの異動は、もはや栄転ではなく、事実上の左遷として受け取られていた。


ホームの向こうで、兄のユーリが黙ってこちらを見ている。言葉は少ない。

ただ、その眼差しには心配と、そして弟の決断を信じる力強さが宿っていた。

汽笛が長く、悲しげに鳴り響く。ヴィクトルは小さく手を振った。兄もまた、無骨な手を一度だけ、ゆっくりと上げた。


重い車輪が軋み、列車は動き出す。

遠ざかっていく兄の姿が、煤けた駅舎の影に溶けていくまで、彼は窓から身を乗り出して見送っていた。


行き先はレニングラード。革命が始まった街。そして今、新たな革命の実験が始まろうとしている街。

海千山千の古都で、何が彼を待っているのか、まったく分からなかった。


列車は、ソビエトの広大な大地を、まるで定められた運命に抗うかのように、遅延を繰り返しながら西へと進んだ。

単調な揺れと、車窓を流れる見慣れた景色の中で、ヴィクトルは浅い眠りに落ちた。


そして、奇妙な夢を見た。


見知らぬ男が、豪華だが冷たい執務室で、ひどく苦しんでいる。

その顔は影になって見えないが、苦悶に満ちた呼吸だけが生々しく聞こえる。

男は何かに苛まれていた。下さなければならなかった決断に。そして、かつての恩人に、自らの手で引導を渡したという記憶に。


だが、男は苦しみながらも、ゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。その瞬間、ヴィクトルは男の視点と重なった。

窓の外に広がるのは、見慣れない都市の姿だった。いや、これはモスクワだ。

しかし、彼が写真で知る灰色のモスクワではない。空はどこまでも青く、ガラス張りの高層ビルが陽光を反射し、街路を行き交う人々は、誰もが希望に満ちた顔で未来を語り合っている。

それは、想像もつかないほど豊かで、自由な首都の姿だった。


――誰の苦しみと引き換えに、この未来は築かれたのか。


その問いが頭をよぎった瞬間、夢は霧のように消え去った。


ハッと我に返ると、車内の喧騒が耳に戻ってきた。

列車の速度が落ち、窓の外にはレニングラードの街並みが広がっている。


「まもなく、フィンランド駅……」


車内放送が、旅の終わりを告げた。

列車は、最後の長い制動音を響かせながら、ゆっくりとプラットフォームへと滑り込んだ。


ヴィクトルはコートの前を合わせ、一つ深く息を吸った。

夢の残滓を振り払い、彼は未知なる運命が待つ街へと、その第一歩を踏み出した。

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