草原の調停者
「なぜだ……」
クラフチェンコは、もはや誰に言うでもなく、ただ虚空に言葉をこぼした。
最後の反撃の札が、目の前の男にはまるで通じていない。その事実が、彼の精神を根底から揺さぶっていた。
「なぜだ……。ウクライナへの展開余地は、彼らが喉から手が出るほど望んでいるもののはずだ。ロシアという巨人を、永遠に牽制できる、最高の立地を……」
ヴィクトルは、そんなクラフチェンコを静かに眺めていた。
その顔つきは、まるで世界が奇妙にねじくれてしまったのを目の当たりにし、思わず目を背けたくなるのを堪えているかのようだった。
彼は、これから語るであろう世界の冷酷な真実に、彼自身が辟易しているかのようにも見えた。
「理由は、いくつかございます。議長」
ヴィクトルは、静かに、そして淡々と告げ始めた。それは、もはや交渉ではなく、一方的な宣告だった。
「第一に、NATOは平和を愛しております。皮肉ですがね。冷戦が終わったと彼らが感じてからすぐに、新たな火種を自ら抱え込めるほど、彼らの国内政治状況もよろしくはない」
その言葉は、事実だった。
ベルリンの壁が崩れ、マルタの会談で米ソ首脳が手を取り合った。世界中が、長い核戦争の恐怖の終わりを信じたのだ。
東欧諸国が少しずつ西側へ擦り寄ることは認められても、今この瞬間に、ウクライナという巨大で不安定な国家を軍事同盟に組み入れるという決断は、どの国の指導者も下せない。国民がそれを許さないだろう。
「次に、残念ながら議長。あなたのSSRは、彼らにとっては大きすぎる」
それは、クラフチェンコにとって意外な観点だった。国家の規模は、力そのものではなかったのか。
「統制を外された南西方面軍だけが問題なのではありません。経済が破綻した5000万の人々を食わせるために、NATOが軍を駐留させ、治安を維持し、復興を支援する。それがどれほど莫大なコストになるか。彼らは、その計算を瞬時に終えるでしょう。何より、ここから確実に荒れ果てることが分かっている国に、善意だけで金をばらまくのは、彼らが夢見る『冷戦後のバラ色の未来図』を阻害するのです。誰も、底なしの泥沼には足を踏み入れたくない」
そして、とヴィクトルは続けた。その声は、最後のとどめを刺す刃のように、冷たく響いた。
「最後に、ロシアへの牽制は、バルト三国で十分だと。彼らはそう結論付けています」
ヴィクトルは、指で机の上に小さな三角形を描いた。
「サイズと立地。フィンランド湾を抑え、レニングラードとスモレンスク、そしてその先のモスクワを睨む、好立地なあの三国で事足りる、と。あなた方が提示しようとしている『戦略的縱深』は、彼らにとっては過剰であり、コストに見合わない投資なのです。そういうことです、議長」
クラフチェンコは、もはや何も言えなかった。
ヴィクトルが語ったのは、イデオロギーでも、脅迫でもない。ただ、西側諸国の指導者たちが、自国の国益を計算した末に、必ず至るであろう結論。
冷徹で、動かしがたい地政学的な現実だった。
ウクライナは、西側にとって『喉から手が出るほど欲しい資産』ではなかった。
ただの『大きすぎて手に負えない、厄介な問題』でしかなかったのだ。
その真実が、彼の最後のプライドを、粉々に打ち砕いた。
ウクライナの党支部を辞して、ヴィクトルは列車の中にいた。
車窓から流れる陰鬱な景色の中に、ふと、かすかな光が見えた。厚い雨雲の切れ間から差し込む、細い光の筋。
だがその光は、まるでカミソリのように鋭く田園を横切り、ただ一点を照らし出す一条のサーチライトとなっていた。
まるで己のなし遂げた所業を、天が指差し告発しているかのようで、彼は眉をひそめ、乱暴にカーテンを閉めた。
暗くなった個室で、彼は額に手を当てた。
クラフチェンコの、最後には怒りを通り越して絶望に染まった顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
兄の顔がよぎる。人民のため、と誓ったはずの心が、国家の解体という巨大な罪の意識に軋んでいた。
だがモスクワに戻ると感傷に浸る時間はなかった。
外貨準備高は、日に日に危険な水準まで削られつつある。
一方で、彼が描いた設計図通り、各共和国の独立、あるいは“制御された解体”の準備は、着々と整いつつあった。
全ては、ロシアという心臓部を生き永らえさせるための、壮大な外科手術だった。
数日後、彼はゴスプラン本部のオフィスに入り、膨大な資料の山に目を通していた。
その時、レニングラードから呼び寄せた腹心の部下、フョードル・チェルノフが、足音を殺して近づいてきた。
彼はヴィクトルの耳元に、そっと囁いた。
「ヴィクトル・パーヴロヴィチ。カザフスタン党支部が、あなた個人との緊急の面会を求めています」
ヴィクトルは、資料から顔を上げなかった。だが、その指は止まっている。
(……来たか)
キエフでの一件が、早くも他の共和国指導者たちの耳に届いたのだ。
ウクライナという巨大な共和国が、モスクワから来た無名の官僚に手も足も出ずにねじ伏せられた。そのニュースは、恐怖と共に、ある種のシグナルとして伝わったはずだ。
もはやゴルバノフでも、エリツォンでもない。交渉すべき相手は、このヴィクトル・ペトロフだと。
「誰だ? ナザルベフ本人か?」
「はい。ヌルザノフ・アビシェヴィチ同志、ご本人からです」
ヴィクトルは、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、列車の中での苦悩など微塵も感じさせない、冷徹な実務家のものに戻っていた。
レオニード・クラフチェンコは、激発させる隙のあった民族主義者だった。脅し、突き放し、絶望させれば、こちらの土俵に乗せることができた。
だが、ヌルザノフ・ナザルベフは違う。ウラル山脈の向こうに広がる、アジアの広大な草原を支配する、老獪で現実的な指導者だ。
感傷も、脅しも、あの男には通じない。
(あの男は、ただの党書記ではない。商人の目を持っている)
そして、彼の手にはウクライナとは比較にならないほどの、強力な交渉カードがあった。
世界最大級の核実験場と、そこに残された戦術核兵器。豊富な石油とウラン資源。そして何よりも……
「バイコヌール……」
ヴィクトルは、思わず呟いていた。
ソビエトの宇宙開発の全てを担う、バイコヌール宇宙基地。あの広大な施設がなければ、ロシアは宇宙への扉を失う。
それは、軍事的にも、国家的威信の上でも、絶対に手放すことのできない戦略的資産だった。
クラフチェンコへの提案は、脅迫と恫喝による一方的な押し付けだった。
だが、ナザルベフは違う。彼は、バイコヌールという切り札を胸に、対等な取引を求めてくるだろう。
「チェルノフ」
「はっ」
「面会を受け入れろ。場所はモスクワ郊外の政府系保養施設を指定しろ。我々の庭で話をする」
ヴィクトルの瞳に、新たな闘志の光が宿った。
キエフでの戦いは、終わった。だが、本当の交渉は、これから始まる。
モスクワ郊外へ向かう黒塗りのヴォルガの後部座席で、ヴィクトルは窓の外を流れる白樺の林を眺めながら、思考を巡らせていた。
バイコヌールは、北部というロシアの悪立地の中で唯一と言っていいほどの好条件を持った土地だった。
西側、海洋連合たるアメリカ・イギリスと敵対し、南方に海への出口を持たないソビエト連邦にとって、赤道に近く、晴天率の高い南方の好立地に射場をもうけるなど、夢のまた夢だった。
当時、セルゲイ・コロリョフという一人の偉人、あるいは宇宙に魂を憑りつかれた男が、その全身全霊をかけて推し進めたソビエトの宇宙開発は、バイコヌールそのものが聖地であり、誇りだった。
仮に、バイコヌールを失った場合、小さな打ち上げ施設が北方のプレセツク、あるいは南方のカプースチン・ヤールにあるだけだ。
偵察衛星や一部の通信衛星は打ち上げられても、その規模と能力ではとてもではないが足りない。そして、なにより……。
(軌道傾斜角の問題だ)
ヴィクトルは目を閉じた。彼はゴスプランの官僚だ。数字と、物理法則の冷徹な支配を誰よりも理解している。
プレセツクのような高緯度の基地から静止衛星を打ち上げるには、地球の自転の力を借りられず、軌道を変えるために莫大な燃料を消費する。それはペイロード(搭載物)の大幅な削減を意味した。
つまり、ロシアは単独では、未来の宇宙開発競争から脱落する。宇宙における目と耳を、大幅に失うことになるのだ。
その価値を、ナザルベフが理解していないはずがない。
カザフスタンは広大なアジアの交通の要衝。
時に草原の民としての激しい熱情を見せる一方で、古くからシルクロードの民として培われた、誠実な交易商人としての歴史を持つ彼らは、ソビエト連邦の歴史の中でも特異な存在として語られる。
彼らは、力には力で応じるが、公正な取引には、誠意をもって応える。
(クラフチェンコは、歴史と感情で殴りかかってきた。だが、ナザルベフは違う。彼は、そろばんと契約書で交渉に来るだろう)
ウクライナへの提案は、いわば破産宣告だった。資産と負債のリストを突きつけ、有無を言わさず飲ませるための脅迫。
だが、カザフスタン相手にそれは通用しない。彼らは、バイコヌールというロシアの心臓を、その手に握っているのだ。
これは、国家の解体ではない。二つの主権国家による、最初の、そして最も重要な国際交渉となる。
車が速度を落とし、木々に囲まれた政府系の保養施設のゲートをくぐる。
ヴィクトルは、静かに目を開けた。
脅しは通じない。泣き落としなど論外だ。
提示すべきは、彼らが「商人」として納得できるだけの、魅力的な取引条件。
ヴィクトルは、これから始まるもう一つの戦いに向け、頭の中で新たなチェス盤を組み立てていた。
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