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顔のない執行人

その言葉を聞いた瞬間、クラフチェンコの中で何かが切れた。恐怖が一周して、燃えるような怒りへと変わる。


「公正だと?」


彼は、絞り出すような声で言った。


「三百年間、我々はモスクワの穀倉だった。飢饉の時でさえ、最後のパンまで奪われた。その歴史的負債を、貴様らは忘れたとでも言うのか!」


それは、ウクライナの魂の叫びだった。だが、ヴィクトルは表情一つ変えない。


「議長。歴史は、明日のパンにはなりません。そして、あなたの元に報告が上がっているはずです。あと半年で、ウクライナの食料備蓄は底をつくと」


クラフチェンコは息を呑んだ。

国家の最高機密。それすらも、この男は把握している。

ヴィクトルは、そこで一度言葉を切り、決定的な一撃を放った。


「そして、一つだけ明確にしておきましょう。あなた方の領土にある核兵器についてです」


ヴィクトルの声は、温度を失った。


「我々ロシアは、その核兵器を、決して引き取りません」


その言葉は、静かだが、執務室の空気を絶対零度まで凍てつかせた。

クラフチェンコは、自らの耳を疑った。

引き取らない? では、どうしろと?


「それはもはや、我々の兵器ではない。独立した主権国家ウクライナの兵器です。その管理、維持、そして最終的な廃棄に至るまでの天文学的なコストと、国際的な責任は、全てあなた方自身が負うことになる」


ヴィクトルは、絶望に顔を歪めるクラフチェンコを、まるで観察するように見つめながら続けた。


「ですが、ご安心を。それは同時に、あなた方にとって最大の交渉カードともなり得る」


彼は、まるで親切な助言を与えるかのように、その悪魔的な策略を語り始めた。


「先に申し上げた通り、NPT(核拡散防止条約)体制を遵守し、非核化への道を歩むと宣言すれば、西側諸国…特にアメリカ合衆国は、それを諸手を挙げて歓迎するでしょう。彼らは新たな核保有国の誕生を、この世の終わりであるかのように恐れていますからな」


ヴィクトルはわずかに口の端を上げた。


「その『非核化』というカードを使い、あなた方が直接、ワシントンから莫大な経済支援や安全保障という名の『利権』を引き出していただく。我々はその交渉を、静観させていただきます」


それは、ウクライナの独立を認める代わりに、その首に『核』という名の時限爆弾を巻き付け、その解除キーをアメリカに預けるという構図だった。

ロシアは一切のリスクを負わず、ウクライナと西側を直接交渉させ、その間に自国の立て直しを図る。

そしてウクライナは、独立と同時に、大国の思惑が渦巻く危険なゲームの盤上へ、丸裸で放り出されるのだ。


「それが、我々からあなた方の新たな旅立ちに贈る、最大限の『誠意』です」


ヴィクトルは静かに立ち上がり、深く一礼した。


「選ぶのは、あなたです、議長」


ヴィクトルは静かに告げた。その声は、もはや何の感情も映し出さない、ただの事実の伝達だった。

レオニード・クラフチェンコは、怒りと侮蔑の言葉を喉まで出かからせ、罵倒しようとした。

だが、その瞬間、彼は気づく。


机の上に置かれた、分厚いファイルの束。その最後のページは、まだめくられていない。

待て、この目録は、まだ続いている……。


何かが、彼の本能に警鐘を鳴らしていた。

彼は、まるで死刑宣告の続きを読むかのように、決死の覚悟で最後の一枚をめくった。

そして、今度こそ、彼は目の前の男の、底なしの悪意を目の当たりにした。


そこに記されていたのは、簡潔な一行だった。


『外貨準備高の分配に紐づき、ソビエト連邦対外債務の分配比率は、ロシア、バルト三国、白ロシア、ウクライナ、カフカース・中央アジア諸国に対し5:0.5:0.5:3.5:0.5を提案する』


クラフチェンコの頭の中で、何かが音を立てて砕け散った。

血の気が、さっと顔から引いていく。


「馬鹿な……」


かすれた声が、漏れた。


「この額は…飲めるはずがない。こんなものを飲み込めば、ウクライナは、我々の国は破綻する……!」


それは、経済規模に沿った分配などでは、断じてなかった。

ソビエト連邦の工業生産の多くを担ってきたウクライナに対し、その責任と不釣り合いなほどの負債を押し付け、一方でロシア自身の負担を極限まで軽くする。

自分たちのロシアSSRを守るためだけの、あまりにも露骨で、不平等なバランスだった。


「この数字の根拠はなんだ!」


クラフチェンコは、再度机を叩いて立ち上がった。


「ロシアが5で、我々が3.5だと!? ベラルーシの7倍ではないか! 我々の経済規模は、そこまで大きくはないぞ!」


だが、ヴィクトルは、その激昂を待っていたかのように、静かに答えた。その声は、大学の講義のように平坦だった。


「根拠、ですか? ありますよ、議長。極めて論理的な根拠が」


彼は、まるで教師が生徒に教え諭すように言った。


「ウクライナは、冷戦期において、NATOと対峙するソビエト連邦の『盾』でした。貴国の領土には、我が国で最も強大な南西方面軍が駐留し、最新鋭の兵器工場や設計局が集中して建設された。それは、連邦全体から見れば、最も巨大な『戦略的投資』です。そして、その投資のための資金は、対外的な借款によって賄われてきました」


ヴィクトルは、そこで一度言葉を切った。その目は、クラフチェンコの心の奥底まで見透かすように、冷たく光っていた。


「あなた方がこれから受け取るのは、工場や軍だけではありません。その『盾』としての栄光と、そして、そのために費やされた莫大な負債もまた、受け取っていただくのです。投資の果実と、その責任を、同時に。これが我々のロジックです。何か、不合理な点でも?」


クラフチェンコは、言葉を失った。

不合理だ。詭弁だ。だが、その悪魔の論理は、奇妙なほどに完結していた。

彼は、もはや交渉のテーブルについているのではないのだと、悟った。

これは、降伏勧告だ。

ロシアという名の巨大な暴力が、理屈という名の薄い皮をかぶって、ウクライナの喉元に突きつけられているのだ。


レオニード・クラフチェンコは、最後の力を振り絞り、反撃を試みた。


「……我々が独立国家として、西側諸国に対し支援の要請を行う」


クラフチェンコは、奇妙に引きつった、乾いた声で話し始めた。それはもはや怒声ではなく、崖っぷちに立つ男の、虚勢だった。


「主権国家としてNATOへ、彼らが喉から手が出るほど欲しがる戦略的縱深を提示する。そうなれば、貴様が描くこの馬鹿げた地図など、我々が西側と共に破り捨ててやる!」


だが、ヴィクトルは動じなかった。彼はただ静かに、キエフの街に降り始めた冷たい雨を眺めている窓の外に目を向けて、歩み寄った。その横顔は、クラフチェンコの脅しなどまるで聞こえていないかのようだった。


「どうぞ、ご自由に」


ヴィクトルは、振り返らぬまま、静かに言った。その声は、クラフチェンコの最後の希望を、まるでガラス細工のように粉々に砕いた。


「ですが議長、奇妙に思われませんか? なぜ私が、あなたにこんなものを提示しているのかを」


彼はゆっくりと振り返った。その瞳には、憐れみも、嘲笑もなかった。ただ、底なしの闇が広がっていた。


「本来であれば、これはロシア共和国最高会議議長、ボリス・エリツォンの仕事です」


そうだ、とクラフチェンコは気づいた。

全身を、悪寒が駆け巡る。

なぜ、この男が?

なぜ、クレムリンの主であるエリツォン本人ではなく、党の公式な役職はあくまでゴスプランの一官僚に過ぎないこの男が、一国の運命を左右するほどの重大な提案を、たった一人で行っているのか。


ヴィクトルは、クラフチェンコの思考を読んだかのように、静かに続けた。


「エリツォン議長は、英雄です。クーデターから国を救い、新たなロシアの父となるべきお方。その輝かしい経歴に、このような……血と泥にまみれた離婚協定の交渉役などという、汚点を残すべきではない」


それは、完璧な論理だった。

エリツォンは『善』の役を演じ続ける。民衆の前で理想を語り、希望の象徴として君臨する。

そして、国家解体という最も汚れた仕事は、顔のない官僚である自分が全て引き受ける。

もしこの交渉が後世で批判されることがあっても、エリツオンはこう言うだろう。

「私は知らなかった。一官僚が勝手に行ったことだ」と。


「つまり議長。あなたが今交渉しているのは、ロシアという国家ではありません」


ヴィクトルは、自らを指差した。


「私という、一個人に過ぎない。この提案は、ロシア共和国の公式見解ではない。あくまで、私個人の作成した『草案』に過ぎません。気に入らなければ、もちろん破り捨てていただいて構いませんよ」


クラフチェンコは、その言葉の裏にある、真の恐怖を理解した。

目の前の男は、国家という体裁すら捨て、一個人の資格でこの場にいる。だからこそ、彼は国際法も、過去の経緯も、あらゆる常識も無視した、剥き出しの要求を突きつけることができるのだ。

彼は、エリツオンという英雄の影に潜む、名もなき死刑執行人だった。


「そして、その『非公式な草案』ですが」


ヴィクトルは、鞄から一枚の書類を取り出した。アーサー・ハリントン米国大使の署名が入った、会談の確認書だった。


「先日、アメリカ側にも参考資料としてお渡ししておきました。彼らも、この『草案』を元に、今後のウクライナへの対応を検討し始めることでしょう」


レオニード・クラフチェンコは、その場で崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えた。

最後の逃げ道が、完全に塞がれた。

西側に助けを求めようにも、その西側は、既にロシアが描いたこの”地図”を前提として話を進めてしまう。


彼は、完全に孤立したのだ。

目の前の、名もなき官僚が作り上げた、巨大な檻の中に、閉じ込められた。

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