撒き餌
「さて、と」
ヴィクトルは再びゆっくりと紅茶をすすると、面白そうに小首をかしげた。その仕草は純粋な好奇心を装っていた。
「それはつまり主権国家ソビエト連邦の領土分割に関わる問題に、アメリカ合衆国が直接口を出すと。そう理解してよろしいのですかな?」
その言葉にはかすかな棘があった。内政干渉ではないのかと。
だがアーサーはかすかに微笑んだ。それは交渉で優位をとったと確信した者の笑みだった。
「それは建前でしょう、ペトロフ殿。我々の法務官僚が分析したところ、ソビエトの政治制度上、共和国の離脱を法的に阻止する条項は存在しない」
彼は畳み掛けた。
「つまりソビエト連邦とは単一の主権国家ではなく、欧州共同体(EC)のように各共和国が主権を持ち寄り、その集合体として共同体が代表権を持っていたに過ぎない。そのように我々は解釈しております」
それは解釈の変更だった。
冷戦の間、彼らはソビエトを一枚岩の帝国として扱ってきた。
だが今そのソビエトの解体を前提として、ロシアから最大の譲歩を求めるために過去の解釈を一方的に覆してきたのだ。
(なるほど……)
ヴィクトルは内心で静かに呟いた。
(ソビエト連邦とは歴史上の一時的な盟約に過ぎない、かりそめの国家だったというシナリオを飲み込めと。そう言っているのだな)
アメリカが望んでいるのは単なる領土の割譲ではなかった。
ロシアに自らの歴史と国家の正統性を自らの手で否定させること。それが彼らの真の狙いだった。
(ここで引けば彼らは策を練るだろう。ワシントンに情報を持ち帰り、法務官僚と情報官僚どもがロシアを縛り付けるための新たな罠を編み出す。練らせる隙を与えることはできない)
だが、ただで飲むわけにもいかなかった。クリミアを何の対価もなしに手放すことなど。
ヴィクトルはゆっくりとカップを置いた。カチャリという小さな音が静かな部屋に響いた。
「なるほど。それは興味深い解釈です、大使殿」
彼の声は穏やかだった。だがその言葉は鋭い刃を隠し持っていた。
「ですがそうなると、そもそもソビエト連邦内での過去の取り決めそのものがあやふやになりますね」
彼はすっと目を細めた。
「例えば1954年のフルシチョフ同志による、あの気まぐれなパイの切り分け(クリミアのウクライナへの割譲)。
あれもまた単一主権国家の国内での行政区画変更ではなく、主権を持つ共和国間の領土移譲となる。その法的論点は極めて怪しくなる」
アーサーの表情がわずかにこわばった。ヴィクトルは畳み掛ける。
「そして貴国がその見解であるならば、それはつまり過去に貴国が、あるいは貴国の友好国がソビエト連邦と承認し取り決めた全ての条約は、その当事者の一方が消滅する以上、後継国家である我々が『恣意に運用し結び直す』権利を持つ。そういうことになりますが」
ヴィクトルはアーサーの目をまっすぐに見つめた。その瞳にはもはや何の感情も浮かんでいなかった。
「無論、START(戦略兵器削減交渉)も。あるいは宇宙平和利用条約も。すべてを、です」
それは底冷えのする声だった。
もしアメリカが過去の都合の良い解釈を持ち出すなら、ロシアは未来に関する全ての約束を白紙に戻すと。核軍縮も宇宙の非軍事化も全てだ。
それは世界を再び冷戦の、いや、それ以上の混沌へと引きずり込むという究極の恫喝だった。
「我々は『タイフーン』の廃棄という誠意を示した。それをそのような振る舞いで対応されるのであれば、当方も考えがあります、大使殿」
アーサーはその言葉に瞠目し、そして思わず反論した。
「できるはずが……!」
それは外交官としてあるまじき失言だった。
「あなたたちは理性を持っている。そして理性を持っているからこそ、今ここでこの劣勢な交渉のテーブルについているのではないのか!」
そうだ、とアーサーは自分に言い聞かせた。
彼らが核軍縮をちらつかせるのは、国内が崩壊寸前で西側の経済支援が喉から手が出るほど欲しいからだ。だからこそ脅しはすれど、世界の秩序を破壊するような真似はできるはずがない。
だがヴィクトルはその口元にかすかな、氷のような笑みを浮かべた。
「いえ、できますよ。大使殿」
彼はまるで子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「これは国家が生き残るための交渉です。ですがその交渉が成り立たない以上は、歴史的に滅びないために我々が次に何を起こすか。聡明なあなたならばおわかりのはずです」
その言葉はアーサーの心臓を鷲掴みにした。
そうだ。追い詰められた国家が理性的な計算の末に最も非合理的な行動を取ることがあるのを、歴史は何度も証明している。生き残れないのなら全てを道連れにすると。
「申し訳ないが」
ヴィクトルは静かに立ち上がった。それは交渉の決裂を意味していた。
「貴国がその見解であるならば、本日のお話はなかったことに」
彼はアーサーに軽く一礼した。その態度はもはや丁寧ですらなく、冷たい侮蔑が込められているようだった。
「我々は我々の道を行きます。失礼」
ヴィクトルは背を向け、ドアへと歩き始めた。アーサーの背後でその足音が静かに、しかし確実に遠ざかっていく。
一歩、また一歩。
その足音はアーサーの、そしてアメリカ合衆国の敗北を告げるカウントダウンのように聞こえた。
ここで彼を行かせてしまえば、ソビエト連邦は無秩序に崩壊し、核の地雷原が世界中に出現するのだ。
アーサーは強く歯をかみしめた。ここで彼を行かせてはならない。絶対に。
「待って……いただきたい!」
声が自分でも驚くほど裏返っていた。ヴィクトルの足がドアノブに手をかける寸前で止まる。
「わかりました。ではこうしましょう」
アーサーは必死に言葉を紡いだ。
「クリミアの件は一旦保留とします。その代わり、すべては貴国とウクライナ、あるいはバルト諸国、そのほか共和国との間で誠意ある交渉が行われ、全ての当事者がその結果を承認する。
これが我々の条件です。これだけは譲れません」
ヴィクトルは立ち止まったまま、ゆっくりと尋ねた。
「『誠意ある交渉』とは?」
その声は温度を感じさせなかった。
誰とどう交渉するのか。彼はそれを問うた。
「それは……地方ソビエトではない」
アーサーは最後の砦を築くように言った。
「民衆が選んだ正当な代表者です。 CSCE(全欧安全保障協力会議)の監視を入れた公正な選挙にて民主的に選ばれた代表者が、交渉のテーブルに着く。それが我々が『公平な見守り人』となるための絶対条件です」
ソビエトの息のかかった古い権力者ではなく、民意を反映した新しい指導者と交渉せよと。
それがアメリカの掲げる”民主主義”という大義名分だった。
その言葉を聞くとヴィクトルはゆっくりと振り返った。
そしてその顔には、あの人好きのする微笑みが戻っていた。
「結構。では始めましょうか、大使殿。詳細な条件整理を」
その瞬間、アーサーは自らの致命的な失態に気づいた。だがもう遅かった。
彼はクリミアというカードを切れば、ロシアは必ず抵抗すると信じ込んでいた。
領土問題という国家の最も敏感な部分を突けば、必ずや動揺し譲歩を引き出せると。
だが違ったのだ。
目の前の男は、はじめからクリミアに対して何の思い入れもなかったのだ。
彼にとってクリミアは、アメリカの本音――「民主的に選ばれた代表と交渉せよ」という言葉を引き出すためのただの撒き餌に過ぎなかった。
ヴィクトルが本当に欲しかったのは、ソビエトの古い権力構造を飛び越し、直接新しい共和国の指導者たちと”貸し借りの交渉”を始めるための、アメリカという”お墨付き”だったのだ。
アーサーは自らがロシアの策略に加担させられたことを悟り、戦慄した。
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