公平なる見守り人
ヴィクトルは、カップに口をつけながら、その距離をわずかに縮め、囁くように言った。
「大丈夫ですよ、大使殿。ボリスは知りません。ですが……『私たち』は知っています」
その瞬間、アーサーは目の前の男の顔から、笑顔がそぎ落とされるのを見た。
そこに現れたのは、外交官の仮面ではなかった。
剥き出しの敵意。まるで深淵を覗き込むような、底なしの憎悪。そして、祖国を引き裂かれた者だけが抱く、静かで、しかし全てを焼き尽くすような怒り。
何の変哲もないゴスプラン官僚上がりの男が放つ、その純粋な感情の圧力に、歴戦の外交官であるアーサーは、確かに圧迫されていた。
だが、次の瞬間、嵐は嘘のように過ぎ去った。ヴィクトルは、再び完璧な微笑みを取り戻していた。
その感情の切り替えは、もはや人間業とは思えなかった。
「ですが、私たちは、あなた方と手を取り合いたいのです」
ヴィクトルは、何事もなかったかのように続けた。
「さあ、お話をしましょう。まず、交渉の前提条件として。あなた方がウクライナに手を入れている件ですが」
彼は、まるで天気の話でもするかのように、さらりと言った。
「ええ……独立派の同志たちに、いくらか”心付け”を握らせていますね?
ですが、よろしい。あなた方がそこを望むなら、我々も文句は言いません。その代わり、こちらもそのための条件を出させてもらいます」
アーサーは、もはや反論する気力もなかった。KGB内の内通者、ウクライナへの秘密工作。全てが、この男には筒抜けだった。
自分は今、一人の官僚と話しているのではない。ソビエトの死体の底から現れた、恐ろしく、そして怜悧な怪物と、交渉しているのだ。
ヴィクトルは、穏やかな笑みを浮かべていたが、その内心は全く違った。
(確証はない……!)
彼が今口にしたウクライナへの秘密工作。それは確証があるわけではなかった。
アレクサンドロフから受け取った情報網をもってしても、KGBの分厚い壁はまだ切り崩し切れていないのだ。情報は限定されている。
だが、彼は見たのだ。数字の異常な動きを。
ウクライナ共産党への、出所不明の硬貨(外貨)が流れていることを示す、わずかな金の流れの歪みを。
それは、あくまで数字から当たりをつけた、乾坤一擲のはったりだった。
彼はアーサーの表情から、そのはったりが的の中心を射抜いたことを確信した。
天気の話をするような平静さを装いながら、彼の内心は、今にも割れそうな薄氷の上を渡っていた。
「お話は、単純です」ヴィクトルは続けた。「我が『ロシア』と……」
アーサーは、その言葉にかすかに眉を上げた。この男は、もはやソビエトではなく、ロシアの代表として話している。
「……貴国との間で進めているSTART(戦略兵器削減交渉)について、貴国が最も懸念されている核ミサイル、その配備数でこちらが譲歩しましょう。ええ、貴国が恐れている巨大潜水艦『タイフーン』、あれの廃棄をもって誠意を示します」
ヴィクトルは、完璧な微笑みを浮かべながら、交渉のテーブルに最初のカードを切った。
それは、米国防総省が喉から手が出るほど欲しがる、切り札中の切り札だった。
「その代わり」
彼は、紅茶を一口含んだ。
「我が国の債務分配における、公平な『見守り人』として、ご協力いただきたい」
「……」
「連邦は、その資産と債務をもって、同胞たちの旅立ちを見送ります。
その分配が、国際社会のルールに則って、公正に行われるよう、大使、あなたとあなたの国に証人になっていただきたいのです」
それは、爆弾発言だった。
アーサーは、隠すことができないほどに、大きく目を見開いた。
「な、にを……」
その声は、明らかに震えていた。
ソビエトが限界だというのは、ワシントンの分析で明らかだった。だが、それでも彼らは、あの頑迷な共産主義者たちは、帝国の維持に最後まで固執すると、そう考えていたのだ。
その結果として、最悪、大規模な内戦による核兵器の偶発的な使用すら起こりうると。
だが、目の前の男が言っていることは、その真逆だった。
彼は、ソビエト連邦の解体を、まるで会社の資産整理のように、冷静に、そして計画的に進めようとしている。
アメリカが最も恐れていた”混乱”ではなく、”制御された解体”を。
そして、その証人として、アメリカを指名しているのだ。
アーサーの頭脳は、この想定外すぎる提案を処理できずに、完全に停止していた。
「……私の一存では、お答えできかねますな」
アーサーは、必死に内心の動揺を隠し、外交官としての冷静な振る舞いを取り戻した。
だが、その声がわずかに上ずっているのを、彼自身が感じていた。その返答は、明らかに受け身だった。
(まずい……)
彼は、罠の匂いを嗅ぎつけていた。ここで下手に言質を取られること。そして、とられた言質が共有されること。
どうせこの部屋もKGB第一総局の手が入っているに違いない。迂闊なことは、一言も言えない。
だが、ヴィクトルは、ただ人の良い微笑みを浮かべていた。
スヴェルドロフスクの兄が見たら、きっと驚くだろう。弟がいつの間にこんな顔をするようになったのかと。
それは、彼がモスクワの魑魅魍魎たちと渡り合う中で、決死の覚悟で身につけた表情だった。
「ご理解いただけませんか? 大使殿」
「そういうことではなく……」アーサーが、言い淀んだその時だった。
ヴィクトルは、そっと身を乗り出し、囁いた。その声は、親密で、しかし剃刀のように鋭かった。
「では、こうお考えください。
もし、我々が自力で、国際社会の監視がない不明確な状態で分離した場合、貴国は、そして貴国の同盟国は、その状態で安全が確保されると、そうお考えですか?」
その言葉を聞いた瞬間、アーサーの背筋を冷たい汗が伝った。
そんなはずはなかった。
彼の脳裏に、CIAと国防総省がまとめた最悪のシナリオが、鮮明に映し出された。
特に、ウクライナだ。ソビエトがNATOへの恐怖のあまり、過剰なまでに蓄えたICBMのサイロ群。そして、ベラルーシやカザフスタンに点在する、管理の緩い航空機搭載型の戦術核弾頭。
もし、ソ連が何のルールもないまま無秩序に崩壊し、それらの神の杖が野放しになったら?
独立したての、ナショナリズムに沸騰し、経済的に破綻した国々が、その管理権を主張し始めたら?
NATOは、そしてアメリカは、今のこの安定した勝利者の状態から、一瞬にして地獄に落ちる。
ヴィクトルの提案は、もはや交渉ではなかった。
それは、破局を避けるための唯一の道を提示するという形をとった、紛れもない脅迫だったのだ。
「我々は、貴国と共に歩みたいのですよ、大使殿」
ヴィクトルの言葉は、誠実に響いた。だが、アーサーには分かっていた。その内容は、ただの脅迫だった。
アーサーの脳内で、激しい議論が衝突していた。二人の自分が、互いに叫び合っている。
(ここでこの話に乗り込むのは、あまりにも危険だ。これは一度ワシントンに持ち帰るべきだ。そして、国務省とCIA、国防総省の専門家たちと、慎重に分析すべき案件だ)
外交官としての彼が、そう警告する。
(だが、それで本当にいいのか?)
アメリカの上流階級、エスタブリッシュメントとしての、もう一人の彼が囁く。
アーサーは、完璧なポーカーフェイスという仮面の裏で煩悶していた。
(ロシアは、誠実な取引を持ちかけている。自らの劣勢を理解し、我々の懸念を理解し、その上で対等な交渉の手を差し出した。これは、感情に任せてクーデターを起こそうとする連中とは違う。文明国の振る舞いだ)
(目の前の男は、危険だが、確かに交渉する価値がある)
それは、危険な考えだった。だが、彼の思考は止まらない。
(もし、この男が……彼が動かす、あの謎に満ちたレニングラード閥が、権力闘争で失脚したら?)
(その後、あの予測不能なボリス・エリツォンの首に、一体誰が鈴をつけるというのだ?)
(彼を『洗脳できる』などというのは、あまりにも甘い考えだったのかもしれない……)
アーサーの脳裏に、先の批准会議の光景が蘇った。彼もまた、ヤトフの前に立ちはだかった、あのボリスの姿を見た。
確かにあの男は粗野だ。そして、時に信じがたいほどの愚かさも見える。
(だが、目の前のこの怪物のような男を、確かに彼は『飼い慣らしている』。その男が、本当にただの愚劣な男なのだろうか?)
ヴィクトルは、黙って紅茶を飲み、目の前の大使の様子をうかがっていた。
彼の顔には、もはや何の感情も浮かんでいない。
ボールは、投げたのだ。
こちらの切り札(タイフーン級原潜の廃棄)は提示した。これ以上、彼の手札を見せるべきではなかった。
今度は、相手がどう動くか。アメリカが、この歴史の岐路で、どのような選択をするのか。
彼はただ、静かに待っていた。
「……条件を」
アーサーは、かすれた声で告げた。長い沈黙の末に、彼が出した答えだった。
「何でしょうか」
ヴィクトルは、穏やかに尋ねた。アメリカがこの取引をただで飲み込むはずがないことは明らかだった。驚きはなかった。
「ウクライナです。貴国が、ウクライナに対するその『制御』を、完全に諦めることが条件です」
(値を吊り上げてきたか。あるいは、こちらの劣勢が極まっていると見て、無茶な要求を飲ませようとしているのか)
ヴィクトルは心の中で、相手の出方を冷静に判断した。
「『制御』……とは?」
ヴィクトルは、心底不思議だというように、素知らぬ顔で小首を傾げた。
「大使殿、現地の地方党員たちが、なにやら面白い小話で夢に耽っておりますが、我々中央が関知することでは……」
それは、わざとらしいほど挑発的な言い回しだった。ウクライナの独立派を「面白い小話で夢に耽る連中」と一蹴してみせたのだ。
アーサーのこめかみに、青筋が浮かんだ。
「クリミアです、ヴィクトル殿」
アーサーは、かろうじて外交官の微笑みを取り戻し、その言葉を遮った。
「ウクライナの領土、クリミア半島の帰属について、ロシア共和国が一切の異議なく、これを了解していただきたい。それが、我々があなたの『公平な見守り人』となるための、最初の条件です」
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