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灰色の空

この物語はフィクションです。実在の人物、組織とは一切関係がありません。

また実在の国家・民族・事件を支持または批判する意図はありません。

1983年、ウラル地方の地方都市スヴェルドロフスクで。

地方官僚の一人、ヴィクトル・ペトロフは、都市の中央にあるゴスプラン支局で、ウラル重機械工場の生産報告書を読みふけっていた。


窓の外では、九月の冷たい雨が、灰色のアスファルトを叩いている。ブレジネフ書記長の肖像画が壁から無感動に彼を見下ろしている。

偉大なる祖国、ソビエト社会主義共和国連邦は、まるでこの鉛色の空のように、重く、淀んだ停滞に覆い尽くされようとしていた。


まだ三十代前半の彼は、ゴスプラン(国家計画委員会)の中でも将来を嘱望される若手官僚だった。

彼の仕事は、数字を読むことだ。


鉄の生産量、穀物の収穫高、戦車の製造ラインの稼働率。

折り重なる無数の数字が、彼の机に積まれた書類の山から、声なき声で悲鳴を上げている。


計画プランは、もはや祈りだ」、と。


彼はこの夏、管轄するウラル地方の工場を、自らの足で見て回った。

書類の上の数字と、現場の現実が乖離していることは分かっていた。だが、その断絶は彼の想像を絶していた。

最新鋭のはずの工作機械は埃をかぶり、熟練工たちはウォッカの匂いを漂わせながら、規定のノルマをこなすためだけに惰性で手を動かしている。

誰もが必死なのだ。必死に嘘をつき、必死にごまかし、必死に明日が今日と同じであることを願っている。

彼らの瞳には、かつてこの国を築き上げた革命の炎ではなく、ただ諦観の灰色が宿っていた。


眉間に深いしわが寄る。

このままでは、祖国は倒れる。病死ではない。肥大しすぎた自らの体を支えきれず、内側から崩壊するのだ。

それは緩やかで、しかし誰にも止められない死のように思えた。


「ヴィクトル・パーヴロヴィチ」


上司の声に、彼は思考の海から引き戻される。


「モスクワへの報告書だ。昨年度比105%の達成、素晴らしい数字じゃないか」


上司は満足げに笑うが、その数字が現場の労働者たちの弛まぬ努力ではなく、巧妙な帳簿操作によって生まれた虚構の産物であることを、この部屋にいる誰もが知っている。そして、誰も口にしない。


ヴィクトルは立ち上がり、無言で頷いた。彼もまた、この巨大な嘘の一部だった。

だが、彼の胸の内では、冷たい怒りと、まだ形にならない野心が静かに燃え始めていた。


この国を救うには、外科手術が必要だ。

腐り落ちた手足は、たとえ激痛を伴おうとも、自らの手で切り落とさねばならない。

彼は窓の外に広がる灰色の街並みを見ながら、遠い未来の計画案を、頭の中で描き始めていた。

それは、まだ誰にも見せることのない、一人の官僚が始めた、国家再設計の最初の青写真だった。


その夜、ヴィクトルは降りしきる雨の中を、ありふれた集合住宅コムナルカの一室へと帰った。

ドアを開けると、茹でたジャガイモと黒パンの素朴な匂いが、彼の冷えた体を迎えた。


「おかえり、ヴィクトル」


台所に立っていたのは、兄のユーリだった。

ヴィクトルより五つ年上の彼は、弟とは対照的に、大学へは行かず、若くして父と同じ工場に入った。エリートではない。

だが、その太い腕と、実直な眼差しには、この国の土台を支えてきた者だけが持つ、揺ぎない誠実さがあった。


ウォッカの注がれたグラスを前に、兄弟は食卓に向かい合った。熱いスープが、凍えた指先を温めていく。


「また難しい顔をしているな」ユーリが、黒パンをかじりながら言った。「モスクワのお偉方は、そんなに怖いか?」


「怖いのは、人ではないよ、兄さん」ヴィクトルは、静かに首を振った。「怖いのは、この国がどこへ向かっているのか、だ」


ユーリはふっと息をついた。その顔には、一日の労働で刻まれた深い疲労が浮かんでいる。

「ひどいもんさ。俺が働き始めた14年前と比べても、何もかもが古びて、軋んでいる。あの頃はまだ、明日は今日より良くなるって、誰もが信じていた」


彼はグラスのウォッカを一気に煽った。喉が熱くなる。

「今じゃ、誰も信じちゃいない。ただ、昨日と同じ今日が、明日も続くことを祈ってるだけだ」


その言葉は、ヴィクトルが昼間に感じた絶望を、より生々しい形で裏付けていた。


「だが、おかしな話だ」ユーリは続けた。その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。

「俺たちの作る民生品のラインは、いつも部品不足で止まってばかりだ。だがな、軍事部門だけは違う。あそこだけは、いつもピカピカの機械が唸りを上げて、夜中まで明かりが消えん」


兄は、弟の目をまっすぐに見た。


「戦車の需要だけが高まっていく。皆、腹を空かせているというのにな」


その言葉は、一本の槍のようにヴィクトルの胸を貫いた。

そうだ。この国は、飢えた国民から最後のパンを取り上げて、錆びついた兵器に変えている。

もはや、それは国家ではない。自らの体を食い尽くす、巨大な機械だ。


ヴィクトルは、兄の節くれだった手を見た。

この実直な男の手が、明日も明後日も、意味のある仕事をし、家族を養い、ささやかな誇りを持って生きていける国。

それを取り戻さねばならない。


そのためなら、どんな非情な決断も下そう。

たとえ、この国の半分を切り捨てることになろうとも。


彼はウォッカのグラスを静かに持ち上げた。兄の苦悩に満ちた顔に、彼は声には出さず、心の中で誓いを立てていた。

その夜、スヴェルドロフスクの雨は、まだ止む気配を見せなかった。



数週間後、ヴィクトルはスヴェルドロフスク州第一書記の執務室に呼び出された。

部屋の主、ボリス・エリツォンは、巨大な熊のような男だった。その声は雷鳴のように響き、机を叩く手は煉瓦をも砕きそうだった。


停滞した党中央とは対照的に、エリツォンは行動の人だった。

スヴェルドロフスクの住宅建設を強引に進め、市民の陳情に自ら耳を傾ける。その型破りなやり方はモスクワの眉をひそめさせたが、地元では絶大な人気を誇っていた。

ヴィクトルの提出する、しばしば党の公式見解から逸脱した率直な報告書を、彼はいつも面白そうに読んでいた。


「ヴィクトル、お前の報告書はいつも正直だな」エリツォンは、分厚いファイルを机に叩きつけながら言った。「モスクワの連中みたいに、嘘と体裁で塗り固められていない。そこがいい」


「事実を報告するのが、私の仕事ですので」ヴィクトルは静かに答えた。


エリツォンは立ち上がり、窓の外に広がる工業地帯を眺めた。その広い背中からは、この国を覆う閉塞感に対する、巨大な苛立ちが滲み出ているようだった。


「このままではいかんのだ。誰もがそう思っている。だが、誰も動かん」

彼は振り返り、ヴィクトルの肩を強く掴んだ。

「俺は動く。いずれ、このスヴェルドロフスクから中央政界に乗り込んで、あのクレムリンの淀んだ空気を入れ替えてやる」


そして彼は、子供のように屈託のない、豪快な笑顔を見せた。


「そうなったら、ヴィクトル、お前を最初にモスクワに引き抜いてやるからな。俺の側で、その計算高い頭脳を存分に振るえ」


ヴィクトルは、その力強い言葉に、一瞬、胸が熱くなるのを感じた。

この男の、全てをなぎ倒して進むような単純明快な力強さが、彼は好きだった。この人ならば、あるいは。


だが、運命は皮肉だった。

16年後、クレムリンの大統領執務室で、酒に蝕まれ、政治の激流の中で力を失ったエリツォンに、静かに引導を渡すことになるのは、目の前のこの若き官僚、ヴィクトル自身なのだ。

もちろん、歴史のその残酷な一ページを、この時の彼らはまだ知る由もなかった。

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