親子の距離 後編
「そっか……やっぱり、そうするんだね」
「あっちの家に? でも母さん、それは……」
何故か納得した風な姉さんを横目に、僕は一人困惑の表情を浮かべる。
だって母さんにとって、あの家は思い出が眠る場所でもあり……それ故に、父さんを亡くした喪失感をより一層感じさせる呪われた場所でもあった。だからこそ、僕らはあの家から離れて暮らし、けれど手放すこともできず持て余していたんだ。だというのに、その家に帰るだなんて……。
しかし母さんはそんな僕の心配もお見通しらしく、僕に向けて微笑んでみせた。
「これについては、前から考えてはいたの。私が退院してからのこと、自分が何をするべきか、何ができるのか……それで、結論としては退院後に帰る場所はあそこしかないだろうって」
「一人で暮らすのは納得したけど……でも、だからってあの家じゃなくても」
「あの家の維持だって本当は楽じゃなかったでしょう? 管理の手間も費用も少なくなかったはず……私が住めばその問題も解決する。これ以上飛鳥ちゃんに迷惑をかけるわけにもいかないわ」
「それは……でも、問題はそこじゃないよね?」
母さんがあの家に住むに当たって、まず一番に考えるべきは心への負担なんだ。
その他の都合でメリットがあったとしても、そこを解決しないことには……。
「大丈夫」
「大丈夫って、どうしてそんな自信が……」
「護の笑みがまた歩さんと重なって、確信できたわ」
そう言って母さんは力強く笑ってみせた。
その顔は心からの自信に満ち溢れていて……ふと、記憶にある姉さんの笑みと重なって見える。
「今の私なら、あの家に帰っても辛いとは思わない。あの人との思い出は、もう私にとって決して呪いなどではないから」
「母さん、本当に……」
「これから一人で生きようとする私のことを、歩さんとの記憶がきっと支えてくれるわ」
そう言って母さんは父さんとの記憶を仕舞うように、自分の鳩尾の辺りを両手でそっと包み込む。
大切なものが壊れたり、傷ついたりしないように……優しく、柔らかく。
そんなに大切にする姿を見てしまえば……もう、疑うことはできなかった。
今の母さんなら……きっと、あの家に帰ることができるだろう。
「お母さんがそうするって決めたなら、私から反対することはないよ」
「姉さん……」
「ただ、もし自分一人でもどうにもならないくらい困ったその時は……意地を張らないでちゃんと私たちに伝えて。そんな無理が積み重なればどうなるのか……私も護も、痛い程に理解してるから」
「柊和……ええ、その時は恥を忍んでお願いするわ」
姉さんは母さんの決意を支持した。
ただ、それは決して距離を取るための投げやりな決断ではなく、その答えが母さんのためになると確信しての判断だった。
「……姉さん、最初から母さんの出す答えがわかってたの?」
「大体は、ね……お母さんの立場だったら自分はどうするかを考えれば、そこまで難しくなかったかな。性格だけなら、私は護と違ってお母さんに似たと思うし」
「そっか……」
「護は納得いかない?」
「ううん……きっと、これが誰にとっても一番いい答えなんだろうって、僕もそう思うから……」
「その割には、顔色が優れないけど」
確かに、今の僕は少々表情が曇っていたかもしれない。
言われてようやく、自分があまり気分が優れない事実を自覚した。
「それは、だって、退院後はいきなり一人でって言われると、どうしても心配はしちゃうし」
僕が口にしたのは一定の事実であり、決して誤りでも嘘でもない。
しかし、それなのになぜかいまいちピンとこない……もっと、何か自分が不満を覚える何かがあるような気がして……。
「それに……退院したらまた一緒に暮らすことになるのかなって、そう考えてたから、その……」
だから……だから、僕は、それを裏切られたような気がして……あっ……。
「あぁ……うん、そうだね。やっぱり、ちょっと寂しかったみたいだ……」
「さみ……しい……?」
姉さんは僕自身よりも先に僕が何に悩んでいるのか察していたようだ。
だから──僕の言葉に反応を見せたのは、姉さんではなく母さんの方だった。
「うん、寂しい。僕は……自分でも気付かない内に『今度こそ、三人でも平和に暮らせるかもしれない』って。そう、期待してたみたいだ」
「護……っ」
「でも……母さんの決断には理解も応援もできるから。だから、引き留めたりはしない」
僕自身、母さんが自分に自信を持てるようになるなら、それは叶って欲しいと願っている。
「ただ、一つだけ……」
たった一つで構わない……それでももし、僕に我儘が許されるのなら。
ねだってみたいことが、一つだけある。
「たまにでいいから……僕と姉さんも、そっちの家に帰ってもいいかな……?」
「……あぁ」
少しだけ遠慮してしまって、伏し目がちに、見上げるように母さんの表情を窺う。
ただ……そんな僕の不安も、全ては杞憂だとすぐにわかった。
「もちろん……良いに決まってるじゃない」
僕が最初に見た母さんの表情は、心から嬉しそうに、僕のことを真っ直ぐ見つめて笑っていて……。
それは、僕の記憶に確かに残っていた……大好きな母さんが浮かべる表情そのものだったから。
「子どもの帰りを待つのは、親として当たり前のことなんだから……っ」




