隠し事
「じゃあ、挨拶するぞー」
「……起立」
水瀬君の掛け声で、教室に椅子の音が響く。
「お願いします」
「お願いします」
「……着席」
水瀬君の声は、大きいわけではないのに不思議とよく響く。本人は少し引け目を感じているようだけれど、私は水瀬君は学級委員に相応しいと思う。落ち着きがあって、頼りがいがあるというか……周りの人とは別の空気をまとっている、といった感じだろうか。
「じゃあ、とりあえず先にプリント配るから」
プリントが配られていく。……前の席が空いているせいで、回ってきたプリントに手が届かない。
「どうぞ」
「あ、ありがと」
私の斜め前、水瀬君の前の席の子がプリントを取って渡してくれた。
「……あれ?そこの子の分は?」
「あー、別にとっといてあるから大丈夫」
水瀬君が答えてくれた。
「……そこの席は宙……高間宙の席。あんま学校来ないから」
「そうなんだ……じゃあしばらくは顔見れないかな」
「……そうなるかもな」
前の席の子について後で聞こうと思っていたら、話の流れで教えてもらえた。
「高間君とは仲良いの?」
「……まあな」
「……そうなんだ」
この話についてはあまり詳しくは教えてもらえなさそうだ。あまり踏み込んで聞く話でもないし構わないけれど。
「よし、今日は前回習った加法定理を使った問題を、班で協力して解いてくれ。難しい問題もあるから頑張ってな。終わったら班の代表者は俺の所に持ってきて。じゃあ開始」
開始の合図と共に、みんなが机を動かし始める。私も慌てて机の向きを変えた。
「立花、三角関数はどこまで分かる?」
「……えっと……弧度法の仕組みと30°とかの値は習ったけど……」
「……それなら加法定理からで大丈夫そうだな。例えば、sin75°を求めたいとして、このままだと分からないだろ?これを30°と45°を使って求められるようにしたのが加法定理。公式はこれ」
そう言って水瀬君はノートを見せてくれた。当てはめるだけなら何とかなりそうだ。
「それ写していい?」
「ああ、いいよ」
ノートを渡される。改めて見ると字が整っていてとても読みやすい。
「加法定理は公式に当てはめればわりとできると思う。まあ分からない問題があったら聞いてくれ」
「うん。やってみる」
水瀬君は軽く頷くと、問題を解き始めた。私もノートを書き写し、問題に取り組む。習ってないわりには意外とできる。
「……あれ?これどうやって解くの?」
さっきプリントを渡してくれた子が水瀬君に聞いた。ちょうど私もやり始めた問題だった。
「あ……そこ、私も教えて」
「あー、そこか……グラフの傾きって要はx分のyだからtanと同じ事だろ?あとはそこが75°だって分かるはずだから加法定理で解ける」
……なるほど。言われてみればそれだけの話だ。
「さすが水瀬君、ありがと。……あ、美澪奈ちゃん、水瀬君数学めっちゃできるから何でも聞いていいんだよ。というかそもそも学年1位だから数学以外もできるんだけど」
「えっ、え?学年1位?」
「……う……まあな。あと佐野は名乗れ」
口元を隠してはいるが、明らかに苦笑いに満ちた表情で水瀬君が答えた。
「……あ、そうだった。私、佐野楓。よろしくね」
「う、うん、よろしく」
「……立花を困らせるな。もう少し落ち着け」
腕を下ろしつつ、まだ少し苦笑いのまま水瀬君は呆れたように言った。
キラリ、と時計の文字盤がその腕で光った。
……見とれた。どこかで見たことがあるような……不思議と懐かしい感じがした。……なんて言ったら笑われてしまうだろう、ただのデジャヴだ。
「……あ、いや……困ってはないから大丈夫」
不審がられないように慌てて視線を戻す。
「……そうか。まあ佐野悪いやつじゃないから」
「……なんか私残念なやつみたいな立ち位置になってない……?」
「なってない。佐野がいいやつなのは事実だろ」
「……うー……でも落ち着きがないやつみたいな言い方はしたじゃん」
「それは今だけの話であって、普段はちゃんと分別のあるやつだって意味でのフォローだったんだが……」
「それは逆効果でしょ、だって水瀬君とかわざわざ言う必要もないくらい落ち着きあるじゃん。落ち着きある人にそんなことは言わない」
「……あのだなぁ……」
なんだか雲行きが怪しい。私は別に佐野さんが変な人だとは思っていないし、だったらこの口論らしきものも無意味だと思う。
「……えっと…佐野さんは良い人だと思うよ……?」
「伝わってるなら言わなくて良かったじゃん……」
「伝わってることを確認したから言えるんだろそれ。まあ伝わってて良かったからそれでいいんだけど」
「……ま、まあ……時々うるさくするかもしれないけど……嫌だったら言ってくれていいからね、水瀬君みたいに」
「俺は別に嫌じゃない」
「……えぇ……本当に……?絶対仕方ないやつだなみたいな目で見てるでしょ…」
「……俺のことどう勘違いしてるんだか知らないけど、俺はそんなことしないからな」
「……佐野さんも良い人、水瀬君も良い人。これでいい……よね?」
耐えられず口を開く。きっと2人とも良い人だと私は思うのだ。それに、水瀬君の声が怖い。個人的にそこが一番止めたい理由だった。
「……それでいい。俺は最初からそう言ってる」
「……なんか私が水瀬君を悪い人扱いしてるみたいになってない……?私も水瀬君勉強教えてくれるみたいなこと言ったし最初からそう言ってるんだけど」
2人が黙り込む。静かになった。水瀬君はプリントの続きをやり始め、それに合わせて佐野さんもプリントをやり始める。なんだか微妙な空気になってしまった。
「……み、水瀬君、……その時計かっこいいよね」
我ながらどう考えても無理矢理だ。
「……っ……急に何言うかと思ったら……まあ、この時計は俺も気に入ってるし、大切にしてるよ」
水瀬君にかなり動揺されてしまった。
「ご、ごめん……変なこと言って」
「あ、いや……少し驚いただけだ、気にしないでくれ」
「確かにかっこいいよね、いいなぁ……まあスマホあるから腕時計とか無くても困らないんだけどね」
「……まあ……俺も大切だから持ち歩いてるだけだし」
「へー、そうだったんだ……あ、もしかして」
急に佐野さんが真面目な顔になる。
「……はいはい、想像通りだとは思うよ。別に気にしてないけどな」
「本当かなぁ……?ま、いいけどさ」
……時計絡みで何かあったのだろうか。思えばさっきから聞かない方が良かったと思われることしか聞いていない気がする。まあ水瀬君はそこまで気にしていないみたいだから大丈夫だろう。そうだと思いたい。
「……俺は問題解き終わったけど、なんか分からない問題あるか?」
「えぇ……水瀬君相変わらず早いよ……」
「だって俺早く解かないと」
「水瀬ー、ここってa=2+√3で合ってる?」
話の途中で他の班の子が水瀬君を呼んだ。
「合ってる。てか解けてるなら聞くなよ」
「あ、やっぱ合ってたか。ならいい」
「良かったな」
投げやりな返答と共に、水瀬君はこちらに向き直った。
「……こういうのがあるから先に解かないといけないんだよ……あ、今のは最上蓮。……これ紹介してたらキリねぇな」
「そうだね、水瀬君引っ張りだこだもんね。……美澪奈ちゃん数学の時間だけでクラスの半分くらい覚えさせられるんじゃない?」
「……そもそもこうやって班で解かせてる辺り先生の計画だろ?班の代表者とかどうせ俺だし先生の所に行った時に今どんな感じか聞き出されるところまで見えてるぞ」
「そんな人聞きの悪い言い方しなくても……ま、私もそんな気はするけどね」
「……私は素直にありがたいかな。きっかけ作ってもらえて」
「……そうか。じゃあ後で伝えておこう」
「私多分あと解けるから、水瀬君行ってきたら?美澪奈ちゃんと2人でやっとくよ」
「……分かった。行ってくる」
水瀬君は先生の元へ向かい、プリントを手渡す。水瀬君が何か言うと、先生は途端に苦笑いを浮かべた。先生と目が合い、とりあえず苦笑いで返しておく。
その後は特に何もなく授業が進んだ。何回か水瀬君が呼ばれた辺り佐野さんの言う通りなのだろう。数学はあまり得意ではなく、わりと苦手な授業だけれど意外と早く終わった気がする。担任の青葉先生も優しそうだし、水瀬君や佐野さんとも仲良くなれてよかった。ひとまずこれからもやっていけそうな感じがして、ちょっと安心した1時間目だった。




