イルダート34
地表に巨大な影法師を伸ばした、屹立する巨神はのっぺりした頭で月を仰いでいた。
額から生えるのは男の上半身。
白目を剥き、肩から脇までは赤い線が走っているが、流血は無い。流せるだけの血液はもう残っていないのだろう。
男の回りには緑光を放つ幾何学の陣が連なって旋回していた。
どことなく額の男に似た巨神の頭の窪んだ眼窩が、遠くを向く。
そこにあったのは、月明かりにうっすら浮いたイルダートの街だった。
巨神が生まれた際に出来たすり鉢状の地形の真ん中から、おもむろに、巨神は両手を持ち上げ、――地面に叩きつける。
瓦解の音は雷鳴より騒然として、星夜を席巻した。
木々は薙ぎ倒され、地表は沈み、激震であらゆるものを脅かす。
ずずぅっ、巨神が動き出す。
突いた手のひらを支えに、這っているのだ。
巨神が目指す先はおそらくイルダート。
理由など無い。強いて言えば、周囲に見えるものの中で一番目立っていたからだ。
海路を往く船のように、土の波を迸らせ進む巨神が、すり鉢の縁から、顔を出したときだった。
グロォオオオオ
なにかが唸っているようだった。
ぼふッ、ぼふッ、破裂音が断裂し、赤い燐光を散らして巨神の眼前に躍り出るものが在った。
血濡れた白銀の髪の少女――、リザリス。
その身に纏うのは黒い、冷やした鉄鉱のように重厚な黒に、溶岩のような明滅する赤いラインがはしる全身鎧。
踵には幾何学の陣が展開して、焔を噴き出し、高速移動を可能にする推進力となっている。
そして、右手の突撃槍。
鎖に繋がれた獣が暴虐のときを待つような低い音の音源こそは、肩までをすっぽり覆い、後部に煙突のような三本の円筒を生やす、その槍であった。
リザリスは、巨神の顔前まで来ると、下まで潜り込んだ。
「ああッ――!」
ダンッ、両足をつき、今度は足裏に陣を展開、焔を噴出した。
ビギ、ギキリ、罅の隙間に入って、一気に空気を膨張させた焔が、広範囲の地面を一撃で崩しきる。
巨神が、傾いだ。
すり鉢の縁が崩れたことで、掛けていた手の支えを失ったのだ。
崖上の荒城が遂に墜ちたような、いっそ開放的な感覚すら覚える勢いで、空から巨神の影が沈む。
リザリスは、それだけでは赦さなかった。
落ちてく巨神の顎に、レッグアーマーの爪先が食い込む。
宙返りで跳んだリザリスは、背を仰け反らせながら、踵に展開した陣を起動する。
「うぅ、ラッアアアアア!」
踵の陣が高速で回転し、青い光を強くする。
そして、火炎を噴いた。
じゅうわっと、夜気を融かした火炎の生み出した力は、巨神の重圧をはね除け、振り子のように、巨神をすり鉢の中へ蹴り戻したのである。
どどう、どどうと爆音を響かせる槍を構えたリザリスが、一歩、また一歩と、巨神を金色の瞳で睨みながら巨神へと、近付いていく。
その周囲の地面が、『捻れる』。
リザリスを中心に渦を巻いた地面が、ロンドガルの持つ腕輪型の《アーツ》――『アースディリング』の力の影響を受けようとしている前兆に他ならない。
だから、リザリスは、踵を持ち上げ、『地面を吹き飛ばした』。
地形操作が始まる前に、操ろうとしている範囲の『情報』を大きく上書きしただけのことだ。
横から飛び出してきた土の尖槍は手甲で迎えて拳撃で砕き、阻んだ壁は槍の一薙ぎで排除する。
唸り声は確実に巨神へ向けて邁進していく。
「こんなものか?」
挑発ではなかった。
ただの落胆。
リザリスにとって、ヴァルに《アーツ》を創らせることは、『奥の手中の奥の手』であり、ヴァルへの影響を考えれば出来るだけ避けたいことだった。
ロンドガルの見せた執念に、只ならさを感じたからこそ、『奥の手』を使うだけの価値を認めたというのに、これでは木偶だ。
労はあるだろうが、リザリス一人でもどうにか出来たかもしれない。
だから、己が目測を誤らせたことに落胆したのである。
少女の軽蔑は、心を壊したロンドガルの耳に届いたか。
のそりと、上体を起こした巨神は、その勢いのまま巨大な拳をリザリスへ降り下ろす。
リザリスは、――避けない。
「ほう」
息を吐き、突撃槍を真上に突き上げた。
黒甲冑の足裏の地面はびきりと割れて沈む。
しかし、リザリスは、巨神の拳を『受け止めていた』。
比率など、考えるだけ馬鹿馬鹿しい巨大に、リザリスは平然と耐えて見せたのだ。
たねは、単純。
体幹の、ブレの無い垂直。
上方からの力を、そのまま下方へ流しているのである。
ただし、これには、体幹の完全な制御はもちろんだが、支える身体が負荷に耐えられることが前提となる。
つまり、リザリスには纏う鎧への絶対的な信頼があった。
ヴァルから渡された『武器』が、期待を裏切ることなどあり得ないと、信じて疑っていなかった。
もちろん、この鎧で目の前の巨神を打破出来ることも確信している。
ゴオウン
槍が低く唸る。続いて――
イイィイイインン
つんざくような回転音。
突撃槍の内部。
複合術式、及びそれを増大すべく構築されたシリンダー、各部が起動したのだ。
クッシュウウ、白煙が槍後部の排熱煙筒より吐き出される。
槍内部で精製される豪炎は、余さず、黒甲冑の赤いラインを血液のように、伝熱していく。
ふっと、リザリスは、槍を掲げる肩の力を抜いた。
踵、腰、肩、それに肘に蒼の円陣が生まれた。
「はぁああああっ!」
喚声を上げれば、豪炎が円陣から順ぐりに噴き出し応える。
のし掛かろうとした巨神の拳の重圧。
リザリスはその圧力の流れを把握し、すべからく支配下に置く。
徒手の武技に相手の力を脇に逃す術が存在する。
力の流れを己の身体を用いて逸らし、さらには、上乗せして投げ飛ばしさえする技術だ。
リザリスがいま、巨神にしようとしていることも、同じだ。
武器や鎧を着込めば途端に難しくなるそれを、『ヴァルキュリア』の力で補正し、可能とする。
加えてだ、『上乗せ』する力は《アーツ》により産み出される超上の力。
巨神が、宙を舞った。
地面から剥がされて、すり鉢の中を横に投げられたのだ。
巨神の腕は衝撃でもげ、リザリスに無様に背を晒した。こうなってみれば哀れなものだ。
「終わりだ、『待つ』までもない。いま殺してやる」
金色の灯を揺らし、リザリスはまた巨神へと、人崩れの男へと、引導を渡すべく歩みだした。
所詮はこんなものだ、暴走した使用者への危害を顧みない《アーツ》の出力は凄まじい。
しかしだ、どうして兵器が兵器を扱えるというのだろう。
力は一点に集中する意識が伴い、『攻撃』としての威力を得られるように、散漫な力など容易く突破出来る。
《アーツ》と《アーツ》が激突したとき、その勝敗は使い手の技量が握ることになる。
ならば、最高の戦闘技術を用いる『ヴァルキュリア』が最強の兵器を手にすれば、どうなるのか。
考えるまでもない、暴走するだけの《アーツ》など寄せ付けないほどに、――『最強』なだけだった。