阻まれた逃走路
「行くぞ」
告げると縁の下にまた潜り込んで志岐と走る。
侵入した場所まで戻ろうとしたが、小火騒ぎの調べで人が大勢うろついている。もう一度、少し戻ってから庭園の庭木に飛び込んだ。
「何か音がしたぞ!」
男が叫んだ。
まずい、このままでは見つかる、と二人は息を飲む。
足元の大きめの石を拾い上げた志岐がおもむろに遠くへ投げた。
ガサガサと大きな音をさせて石が庭の植え込みに落ちた。
「あっちで音がしたぞ!」
灯りを持った男が駆けだした。
素早く志岐が身を低くしたまま走る。朔夜も続く。
いくらか駆ける音はするが、男はどこだ、あちらだ、などと大声でやり取りをしているから気がつかない様子だ。
壁際までは来た。
だが立ちはだかる壁をこの状況で越えるのは容易ではない。見張りの目が厳しくなっている。
万事休すか。志岐は唇を噛んだ。
予想以上に警戒している。やはり戦前で気が立っているからだろう。
大体はある程度調べて怪しい気配が無ければ、原因を適当に決めつけて単なる小火だと決着することが多かった。今回も火の気はないが、火皿が倒れたのが原因となるはずだったのに。
これ以上の騒ぎは起こしたくないが、と志岐は息を詰めて植え込みの隙間から探索の男たちを伺い見る。
背中に汗が流れた。
宝山の首は取った。だがここから抜け出すことが難しい。
きっちりと部屋の襖は閉めてきたから、報告の男が来るまでは露見しないだろうが、露見した暁にはさらなる厳しさで探索が始まるだろう。
「志岐、俺が奴らを引きつけるから、お前はこの首を高時に届けてくれ」
考えを巡らせていると、ふいに朔夜が腰に結わえている革袋を差し出して囁いた。志岐の表情が瞬時険しくなる。
「馬鹿言うな。お前だけ残して行けるかよ」
「一番効率が良いだろう。お前ならば脱出は容易だ。俺なら奴らを切り伏せられる」
つまり時間を稼ぐから一人で脱出しろと言うのだ。
確かに追い詰められた時の常套手段だ。
一人が囮になる。その間にもう一人が逃げる。そんなことは百も承知だが、志岐は納得しなかった。
「ダメだ、警戒中の城内だ。騒ぎを起こせばすぐに捕まる。いくらお前でも無理だ」
「そんな事は分かっている。だが俺の事に構っている場合じゃないだろう。命を捨てるのは覚悟の上で来たんだ。志岐、お前は行ってくれ」
「だから俺もお前と一緒に死んでやるってんだろ。絶対に行かねえ」
頑固に言い張る志岐の顔を、しばし驚いたように見ていた朔夜だが、口元に小さな笑みを浮かべた。
「ありがとな、志岐。……だが高時の為に行ってくれ。それだけが俺の願いだ。頼む、俺の我が儘を聞いてくれないか」
志岐は応える言葉が見つからなかった。
忍びの者として任務の遂行の為には、朔夜の提案が一番であることは分かっている。
だが心が納得出来ない。
垂水の仲間でさえも互いにこんな場合は一人を見捨てることに何の躊躇もなかったのに。
朔夜は覚悟を決めている。これ以上の問答も気持ちを変えさせることは出来ないであろうと志岐にも分かった。
漸く、志岐はゆっくりと頷いた。
朔夜も小さく微笑んですぐに頷き返す。
別れを、覚悟するしかない。その時が来てしまったのだ。
だが、気まぐれな天はそんな二人に味方をした。
庭を探索する男たちの前に、音をさせながら現れたものがいた。
「みゃおう」
愛らしい声を上げて、一匹の子猫が現れたのだ。
「おい、猫だぞ」
「これは吉乃様の猫ではないのか?」
「先程の騒ぎで猫が逃げたと騒いでおられたな」
「連れていけば褒美ものだぞ」
俺が行く、いや俺が、なに俺が見つけた、などと言い争いを始め、やがて全員で連れて行くことに決着したようだ。
男たちが小さな子猫を奪い合うように抱いて庭を出て行く姿は滑稽でもあった。だが朔夜たちにとっては、まさに天の恵みだ。
庭は無人になり、しんと静まりかえった。
「今だ」
志岐が素早く鈎縄を投げるや、駆け上るように壁を越える。朔夜もそれに負けぬ身軽さでスイスイと壁を越え、縄を反対に下ろすや石垣まで飛び降りる勢いで一気に下りた。
石垣は登るのは容易かったが、下りるのは少し難儀する。だが城内に気を取られている城兵達は外の見張りを疎かにしているのか、夜陰に紛れた二人には気がつかない。
森を駆けた。闇夜でも二人とも目が利く。隠して繋いでいた馬が見えてくる。
闇から森を掻き分けて飛び出してきたものに、瞬時怯えを見せた馬だが、すぐに己の主と悟ったのか、繋いだ縄を切る間もじっと大人しく待っていた。
このまま見つからずに駆けられるだろうか。
強く手綱を握ると、二人は同時に真っ暗な道を駆け出した。




