投げられた賽
決行は明晩に。
それを聞いた高時は、なるほどと頷いた。
明日は朔だ。忍び込むならば月夜よりは断然良い。
ここから喜島城までは馬で半日以上かかる。今から馬で向かうと言った朔夜と志岐の二人に宣言するように告げた。
「明晩の決行を許可する。働きを期待する」
二人が頭を下げる。だが朔夜だけすぐに面を上げて高時を見上げた。
「もし俺も志岐も昼までに戻らなければ、この策は失敗したのだと思ってくれ。手ぶらで戻ることはない。宝山の首か、俺の死か。そのどちらかしかない」
朔夜の言葉にさすがに顔を強ばらせた。
「そんなに……難しいか」
いくらか簡単に考えていた高時だ。
朔夜の戦場での働きは、鬼の如く必ず勝利してきた。任せて落胆させられたことはない。今回の件も言い出したのは朔夜だ。勝算あってのことだと考えていた。
「難しいな。志岐には初め頑強に反対された」
「なに?」
「ああ、だが俺と共に死ぬ覚悟でこの策に乗ってくれた」
驚いて志岐に目を移すと、志岐は黙って静かに頭を深く下げた。
「だから……今、言っておく」
続ける朔夜にまた視線を戻す。その顔は不思議に穏やかだったが、いつもの強い眼差しが少しだけ小さく揺れる。
「お前に会えて本当に感謝している。別れの前に言っておきたかった。俺を導いてきたのはお前の気高く美しい魂だった。高時……済まなかった」
何を言っているのだ?
朔夜は何を告げた?
別れの言葉なのか?
何の為に?
呆然として絶句する高時に深々と一礼をして、朔夜は志岐を伴い部屋を出て行く。ゆらりと部屋の風が動いて湿った雨の匂いを濃くした。
ふいに、以前、そう一年以上前だ。朔夜の隊が奇襲を受けて壊滅したかと思われた時の事をまざまざと思い出した。
「馬鹿な……」
呟いたきり、身動きさえ出来ずに呆然と座り続けた。
**
幸い雨は小止みになり、下ろしたばかりの夜の闇に薄明るい星を垣間見せる。道はぬかるんでいるが、何とか明日の昼までには向こうに着けるだろう。
馬を準備していると義信が慌てて駆けてくる。急いだのか息が乱れて肩で息をしていた。
「今から出ると聞いて……」
息を整えて、大きく空気を吸ってから朔夜へと手を差し出した。不思議そうに首を傾げる朔夜に、甘い笑顔を見せた。
「無茶はするなよ。生きて戻れ」
思わぬ言葉に驚いて目を見開いた朔夜だが、迷い無く義信の手を握りかえした。
「お前はいつでも高時の側にいてやってくれ」
もちろんだ、と義信は笑った。
馬に跨った朔夜は凛々しく、義信はその姿に目を細めた。
今まで曇った目で見ていた。
朔夜に私心はない。
高時の側近の地位を求めたり、褒賞目当てだったり、誰かを追い落とそうとしたり、そんな俗世の欲を欲していなかったのだ。それを卑しい穿った見方しかしてなかった自分を恥じた。
振り返ってみれば、寺にいた時高時に目を掛けられる朔夜を疎んじたのが始まりだ。
逆落としの奇襲も朔夜が成功に導いたのに自分の成果にした。そのお陰で城を一つ任されたが、朔夜は一切文句も小言も言わなかった。
私心がなかったからだ。
武運を祈り、うおおおと声を上げる多くの兵の中で、高時だけが無言であった。
高波のように響く声の中、二人は軽く手を上げると馬の腹を蹴った。
賽は投げられた。
――生か死か、答えは次の朝には出ているのだ
**
胸が苦しい。息もまともに出来ない。何の思考も出来なかった。
暗い部屋の中でひたすら目を閉じていたが眠りは訪れない。それどころか酷い胸騒ぎで横たわっているのも辛い。
自分の息遣いが煩わしいと高時は寝返りをうつ。
明日の夜は晴れるのだろうか。
喜島城は山城だ。雨上がりの道はさぞかしぬかるんでいるだろう。だが晴れると潜入しにくいのかもしれない。
考えるな、今は何も考えるなと己に言い聞かせる。だが甦る言葉。
――俺を導いてきたのはお前の気高く美しい魂だった。
朔夜は単なる一家臣だ。なぜこんなにも心が揺れるのか。
一家臣だからこそ手酷い罰を与えても文句など言わなかったのだろう? 主の采配に異存を唱えなかったのだろう?
その時に、ようやく思い至った。
「火傷……」
そうだった、朔夜は火傷を負っていたのだ。それもかなりの。
医者は何といっていた。数日は安静にと言っていなかったか?
しかし翌朝には普通に馬に乗っていた。何故だ?
火傷が膿んで熱があったはずだ。
「無理を……」
していたのか?
喉から声が漏れた。
あれから何日経っている?
体調はどうなのだ?
なぜ今の今まで朔夜の体調を気にも留めなかったのだろう。
愕然とする。
おもむろに部屋から飛び出して、その物音を聞きつけた義信が駆けつけて高時の袖を掴んだ。
「高時様! 如何なされましたか!?」
振り返った高時は義信の姿を認めた途端、逆に縋り付いてきた。
「朔夜が、火傷を……。無理だ、あの傷で忍び込むなど無理だ!」
義信は取り乱す高時を素早く部屋に連れ戻すと部屋の灯りに火をつけた。
「落ち着きくださいませ、高時様。朔夜ならば大丈夫です」
「だい、じょうぶ……?」
「はい。ずっと見ておりましたが、痛む様子も辛い様子も一切ありませんでした。もう火傷は完治しているのでしょう」
「完治……。まことか?」
不確かな言葉に縋ろうとする。
今の高時に必要な言葉を義信は与える。
「はい。一切無理をしている様子はありません。もう大丈夫なのです。そうでなければ朔夜も自らあんな無茶を言い出しはしない。そうでしょう?」
「そうか……。そうだな。そうだったな。いや、取り乱してしまった。済まない」
安堵の息をついて、ゆっくりと仰のいた。
そうだ、朔夜は一度情報を疎かにして危うい目に会って以来、必ず下調べを入念にしていた。今回の事も難しくてもきっと十分な下調べをして、その上で申し出た策なのだろう。
少し落ち着いて考えれば分かる事だったのに、何をこんなに取り乱したのか。
くつくつと喉の奥で笑った。
「済まなかったな、義信。もう大丈夫だ」
「お心を乱されますな。高時様は明後日には軍を率いて喜島城へ向かい、美濃方に援軍が来る前に城を攻めるのです」
「ああ、分かっている。もう迷わないさ」
強い眼差しに戻った高時に義信は安堵したのか、僅かに微笑んでから部屋の灯りを吹き消した。
だが暗がりに沈んだ義信の目は陰鬱として曇っていた。




