溝
翌朝早くに目が覚めた朔夜はいささか頼りない体に舌打ちしながら、常の通りに準備をして馬の世話をしていた。
既に多くの馬が整えられ、皆が慌ただしく動いているのを見てすぐに気が付いた。
「もう起きていいのか? ここでゆっくり休んでいけばいいものを」
背後から掛けられた甘い声に棘が隠されている。振り返る朔夜を睨みつけるように見下ろしているのは野間義信であった。
すぐにまた馬の世話を始めた朔夜は、義信に背を向けたまま聞いた。
「一体何人引き連れて行くつもりだ。そんな大勢で美濃へ行くことを高時は良しとしていないのではないのか?」
ふん、と鼻をならした義信は一層棘を含ませて笑う。
「生憎高時様はお前などより私を信頼なさっている。美濃ではいかような不測の事態が起きるやも知れぬのでいくらかの兵を連れて行くように進言したのだ。聞けば」
ちらりと朔夜の腰の刀に視線を流してから、朔夜の馬に近寄った。
「霧雨を連れてはいないそうではないか。それでは到底高時様をお護り出来るとは思えぬ。それと、昨日のように主に足止めを喰らわすような失態を犯せば、高時様がいかように言われようとも、私はお前をその場に棄てていくぞ。私は高時様の為ならばいくらでも憎まれ役を買ってでる」
それだけを告げると、くるりと背を向けて城の中へと入って行く。
振り返った朔夜は背の高い義信を見送り、それから小さく息を吐いた。
「美濃へ向けて出立する。話し合いに行くのだ。迂闊に争うようなことは慎むようにしろ」
居並ぶ者に向けて言い放つ高時の声も瞳も自信に溢れており人を惹きつけた。城を任される久能城筆頭家臣の安田も緊張の面持ちで控えている。
高時の隣に立つのは朔夜と義信だ。
高時はもう朔夜に何も声を掛けなかった。朔夜も高時に何一つ言葉を掛けることはなく、ただ黙って付き従っている。
距離があった。
距離よりも溝、だろうか。
馬に跨る時に高時は一瞬朔夜を振り返ったが、その体を気遣うこともなく黙って顔を戻した。
*
美濃への行程中も高時は以前のようにまた威圧の鎧を身に纏い、時に人を屈服させるような言葉を投げつける。
特に障害もなく美濃へ入る。
国境の城では丁重に迎えられ、盛大にもてなされた。
その宴席で側に座る朔夜を近くに呼び寄せた。
「朔夜、お前はもう下がれ。人のいるところは苦手だろう。俺には義信がいるから大丈夫だ」
給仕の女を侍らせて酒を飲み、上機嫌で告げる。その言葉に朔夜は小さく頭を垂れただけで、何も答えずに部屋を後にした。
賑わう宴席のざわめきを背中に浴びながら暗い廊下を歩く朔夜は静かに目を伏せた。
ぎしりぎしりと足元で廊下の床板が小さく軋む。
目を開くと立ち止まり、己の掌を見つめた。
この手から掴みかけたものが零れ落ちた音を聞いた。
高時の心は閉ざされている。朔夜に開きかけた扉が閉ざされている。
駿河本城を出立する時には繋がっていたと思えた。だが今は違う。
高時は選んだのだ。
人を信じて人の心を信じて、優しくも怯えを抱く相手を思いやる心、それらを封印することを選んだのだ。
自分に役立つか。自分に与するか。自分に従うか。
今の高時の人を見る基準だ。あの強い魂から発する、人をそのままで愛しめる美しい心は失われたのだ。
そして役に立つ一家臣として朔夜を置くことに決めたのだ。
背中の火傷が意思を持っているかのように痛みを発するのを、手を当てて宥める。もうすぐ志岐の持たせてくれた痛みを散らす丸薬が切れる。
薬などと思っていたが、倒れてしまってからは、痛みが起きるたびに密かに飲み続けてきた。
――この痛みは、俺とお前を結び付けるために必要な痛みではなかったのか?
俯く朔夜の柔らかな髪を冷えた風が撫ぜていく。
秋は確実に深まっている。
雪の前にとの思惑から越後との国境に兵を集めて戦の準備を整えている。遠からず高時はまた戦を行い、勝ちを収めて領土を広げていくつもりだ。そして……。
――また少しずつ、美しい心を失っていくのか?
護りたい。美しく輝き人を魅了して率いていく高時の穢れなき魂を。その為に自分が出来ることはあるのだろうか。
お前を一家臣などと思ったことはない、そう告げた頃の高時に自分も救われてきた。自分を真っ白に出来るかもしれないと夢想した。
そう、夢想だったのだ。
実際の己はやはり逃れられない穢れの中にあり、汚れた地べたに落ちるべき生き物なのだ。
閉じた目の裏に蘇るのは激しい炎に燃やされた己の犯した罪。志岐の放った炎の中で燃える紅蓮の炎は己が衝動のままに散らした幾多の命。
何も知らないまま人を殺してきた子供の頃とは違う。
人を殺すことが罪なことであると分かっていながら犯した。あの時の冷たい川の奔流にも流されぬ穢れ。
こんな自分では、高時の側にあることさえ……許されぬことなのかもしれない。
幾度となく己の中で打ち消してきた思いが、今はどうしようもなく息を吹き返す。
冷えた空を見上げると満天の星が降るようだった。今宵の月は細く細く、頼りなげに浮かんでいた。一筋の輝く傷のように。
琥珀の瞳を細めると、笑いさざめく宴席の声に背を押されるように歩き始めた。




