出立
部屋に、光が差し込んだかと思って振り返った高時は、そこに佇む朔夜の姿に息を飲んだ。
そこにはいるはずのない、いや、いてくれるはずのない人が立っている。
静かに話しかける声は、まるで空から降って来ているのかと思った。
「美濃へ行くのだろう。俺はいつでも出られる。お前は、どうだ?」
――お前は、どうだ。
それは美濃への出立の事を聞いたのだろうが、高時にはもっと違う意味に聞こえた。
お前の覚悟はどうなのか、と問われたように思えた。
傷つけてしまった朔夜と共にある覚悟。
弘龍の沙汰について。珠姫について。
美濃での話し合いの覚悟。
「……お前は……いいのか?」
恐る恐る問いかけた高時に、朔夜は立ったままでじっと見下ろしてそれから瞳を閉じた。
「もちろんだ。お前と共に行く」
なんの偽りもないと思える。はっきりと、分かる。偽りではない。朔夜の言葉にはいつも偽りがなかった。
ああ……今頃思い出すなんて。
心の底で人を嘲笑うような男ではない。
裏切りを知り、絶望を抱きながら、それでも自分は裏切らず欺かずに生きようと懸命な男だった。人の命を奪うからこそ、その命を誰よりも大事に思う男だった。
俺の目は、今の今まで何を見ていたのだろうか。
朔夜は一筋の道だったはずだ。
どんな辛くて厳しい状況でも迷わず直視する強さ、それが高時を強く導いてくれる一筋の道だ。朔夜の言葉や生き様を思うだけで、自分もこうありたいとまた力強く立ち上がれる。
その道筋だったのに、何を見ていたのか。
朔夜が言うのだ。俺と共に行くと。
それを疑うことなど何もない。たとえ朔夜の側に誰がいようと迷うことなどなかったのだ。朔夜は俺と共に歩くことを選んだのだ。
「では行こう。美濃へ供をしてくれ」
「相分かった」
すぐに出立の準備を整えて馬のそばで待っていてくれるだろう。
俺も腹を括る時だ。美濃での話し合いに向かう。受けた屈辱は一刻でも譲らない。すぐに受けて立ってやる。すでに美濃の伊藤宝山の元には先触れを出している。向こうでも構えていることだろう。
控えていた友三郎を呼びつけると、すぐに出立の準備を整えさせた。
馬の傍らに立つ朔夜の側に駆け寄った友三郎が、体の具合を心配して尋ねるが朔夜はあっさりと「大事ない」とそれだけを告げて馬の鞍を調整し続ける。
高時が姿を現すとその辺りの空気がピンと張り詰める。
馬は敏感にその空気を察知して静かに緊張をした。
「霧雨はどうした?」
朔夜の腰には脇差だけしかない。今まで文字通り肌身離さず連れていた霧雨が無いのは不自然であった。
「鞘を失くした。抜き身では持てないから置いて行く」
「霧雨なしでは心許ないだろう」
「そうだな」
虚勢を張るでもなく軽く認める。高時は瞬時考えて自分の太刀を腰から抜くと朔夜に手渡した。
「こいつを持って行け。霧雨には及ばぬが業物だ。かなり斬れる」
手渡された刀をしばし見つめていたが、それを突き返した。
「いや、これはお前が持っておくべきものだ。俺はいらない。もともと脇差しだけでも十二分に身を守れる」
「だが今は俺を守るのだ。己一人の身を守るだけではない。俺はお前に命を預ける。だから俺の刀を持って行け」
ひたりと視線を高時に当てたまま、ゆっくりと手を上げて差し出されている刀を受け取った。
手にかかる重みが命を持つ重みだ。
すぐに友三郎が駆けて高時の別の刀を取って来て手渡した。それを腰に挿すや馬に跨り朔夜を促した。
「出立する。ついて来てくれ」
「ああ、行こう」
互いの言葉に頷き合い、馬の腹を軽く蹴って城門を並んで出て行く。二人の姿が見えなくなるまで友三郎たちはずっと立ったまま見送った。
風が心地よい。
富士には美しい白が輝いている。
今の季節が一番美しいと高時は常々思っている。朔夜がいつになく近く感じる。田畑は刈り取られた藁が干されて、そこここに鳥が落ち穂をついばむのに忙しい。
胸にわだかまる不快をしばし忘れる。
弘龍の決着は美濃に着くまで考えないようにしたい。こうして朔夜だけを連れての道行は、則之の城に踏み込みに行った時以来か。
同盟国と言えども、話し合いの内容が内容だ。今の自分には朔夜のみの供は不用心かもしれないが、不思議と心は穏やかだ。欠片も不安はない。
暖か過ぎるほどに感じる秋の陽射しに目を細める。
もうすぐ野間春義の息子、高時の側近として仕える野間義信に任せている久能城が近い。兄、則之の城だった。
背後で馬が嘶いた。
我に返って振り返った高時は目を瞠る。
遅れている朔夜が今にも馬から落ちそうになりながら、ぐったりと上半身を馬に預けて荒い息で背が激しく上下する。
「朔夜! いかがした!?」
馬首を巡らせて急いで馬を並べる。高時の良く通る声に朔夜が引き剥がすように顔を起こすが、その顔は青ざめているのに額には珠のような汗が浮いていた。大きく息を吸いこんでから
「大事ない。少し……暑いだけだ」と苦しそうに告げる。明らかに具合が悪そうだ。
その時になって、高時は初めて思い至り愕然とした。
(俺の……せいだ)
忘れていた訳ではなかったのに、つい失念していた己の不甲斐なさに歯噛みする。
昨晩、手酷い仕打ちをしてしまった。
あれほどの傷だ、まだ癒えているはずはなかった。なのに、あまりにも朔夜が平然と接するので、失念してしまっていたのだ。
「久能城まで行けるか? 今日は久能城で休むぞ」
久能城には寄るだけのつもりであったが、とてもそれより先に行けそうにない。いや、朔夜が行くと言っても休ませるつもりだった。だが、朔夜は素直に従った。
「分かった。まだ少し、大丈夫だ」
言うなり、また馬に体を預ける。そんな朔夜の姿に高時は眉宇を曇らせた。




