過去の痛み
朔夜は志岐の為すがままになりながら、俯くと静かに目を閉じた。
そうだろう、汚れた身なりに腫れた頬。何より穢れた体。志岐が戸惑うのも分かる。きっと今はこんな体に触るのも嫌だろう。
だが志岐は我慢して、こうして体を清めてくれている。
それが尚辛い。
誰にも知られたくなかった。過去に痛みを抱く志岐にさえも。
自分の過去は志岐の想像を凌駕しているだろう。おぞましく、汚らわしい過去。いや、過去ではない。現在もだ。
過去は今に続く。決して無かったことになど出来ないのだ。
もう、触れてくれるな。これ以上、見てくれるな。
頭痛がひどくする。
「朔夜……」
遠慮がちに志岐が声をかける。
薄く目を開くと布団を指さして寝るように指示をする。
「今から足を……綺麗にする。嫌だろうが、任せてくれるか?」
「志岐……もう、いい。もう……」
これ以上は、もういい。密やかな声で告げる朔夜を、突然志岐が抱きしめた。
驚いて息を止める朔夜の耳元で、志岐が苦しげな押し殺した声で囁く。
「朔夜、これ以上苦しむな。何があった? 俺に話せ、どんなことでも聞いてやる。一人で抱え込むな」
静かに首を振る朔夜を、もう一度強く抱きしめた。
「話しても何も解決にはならないだろう。だが俺には今お前の心の中にあるのが絶望と自分への嫌悪、それが満ちている苦しみだと分る。なぜなら――」
声を落として、小さく告げた。
「――俺も……昔、襲われたからだ」
ハッと顔を上げて間近にある志岐の顔を見たが、志岐は朔夜の肩に顔を埋めていた。表情は見えないが、どんな思いでこの言葉を伝えたかは、痛いほど分かった。
志岐も、絶望を抱いた過去を密やかに抱えていた。それでもいつも大らかに笑いながら。
穢されたのは体ではなくて心だ。蹂躙して踏みにじられるのは、体などではなく心の奥にある一番大切な柔らかいところだ。
その苦しみを知っているのか。
「志岐……」
朔夜も志岐の肩に顔を埋めて、じっと息を潜める。広い背中が呼吸に合わせて緩やかに動く。
暖かい。
(人は、こんなにも暖かいのか)
誰にもこうして抱擁された記憶はない。誰かの背を抱きしめた事もない。
自分を害する者か、自分が害する者か。人とはそれだけだった。
守りたいと思う高時からでさえも、手を伸ばされると反射的に身を引いてしまう。友三郎のように無心に朔夜を慕ってくれる者でさえ、触れて欲しくはなかった。誰かに体を触れられるのは恐怖でしかなかったのだ。
けれど今は抱きしめられる温もりが心地よい。人肌の、その包み込もうとしてくれる大きさが暖かい。
「志岐……」
もう一度小さな声で名を呼ぶ。多分、この名も拾い親が付けたものだろう。
志岐も本当の親からは何も貰っていない子供だったのだ。自分と同じ。
志岐は肩に顔を埋めたままで、静かに話し始めた。
「俺は、親の無い子だとよくからかわれてきた。別に事実なのだからそれが悲しいとか悔しいとかは思わなかったし、拾い親の親父と一緒に幼い頃から仕事をこなしていた俺は、そんな奴らに構っているヒマもなかった。だが俺の目の前で親父は死んだ。それからはしばらく一人きりになった家で呆然と過ごしていた。そんな俺を、わざわざ家までからかいに来る馬鹿な奴らがいたんだ。俺はその時なぜか酷く苛立ってしまい、家の中から小刀をそいつらに向かって投げつけたんだ」
顔を起こすと宥めるように朔夜の背を優しく叩き、それから朔夜を布団に横たわらせた。そして傷だらけの足を丁寧に拭き始める。
「そしたらさ、そいつらが逆上したんだろうな。数人が束になって家に押し入って来て、俺を殴り始めた。俺も数人は蹴倒したさ。強いからな、俺。だが人数相手に分が悪い。しかも相手は年上だった。そのうち縛りあげられて……。一番年上の奴が言い出したんだ、生意気な奴はこうすれば従順になるんだぜって――」
「志岐……」
朔夜が話を手折る。
淡々と話しているが僅かに声が掠れている。
起き上って志岐を抱きしめてやりたい衝動がおきるが、もう腕を動かすのもままならなかった。静かに瞳を閉じた朔夜は、喉から絞り出すような呻きを零した。
「志岐……あいつは、昔の盗賊の仲間だった。俺はずっとあいつに痛みと恐怖で服従させられていたから、あいつの顔を見た途端身動きできなくなってしまったんだ。どうすればいい? あいつを殺せば俺は解放されるのか? 俺が高時の元にいることを知れば、きっと捕まえに来る。俺は結局あの醜い場所でしか生きられないのか? 人として生きていくなと、獣に戻れと……それしか……術はないのか?」
しばし沈黙を落とした後で、志岐は決心した顔で朔夜に目を向けた。
「俺は次の年に、言い出したそいつを殺した。仕事中に捕まったそいつを助けなかったんだ。これは報いだ、そう思って見殺しにした。だが……」
――今でも、後悔している。
と苦しそうに眉を寄せた。
「そいつが死んでも俺の苦しみは消えなかった。どころか自分の感情だけで人を見殺しにしたことにもっと苦しんだ。その苦しみの方が大きかった。憎しみの炎は快楽と同じだ。抜け出せなくなる。朔夜、誤解するな。自分の心にある苦しみは、相手に復讐しても決して解決はしない。復讐したことで、また自分が苦しむんだ。その深い苦しみから解放してくれるのは、結局自分でしかないんだ」
己の気持ちは、己でしか解決できないのだ、と。
傷ついた朔夜の体を拭き終えた志岐は、最後に清潔な着物を着せつけて朔夜を見つめた。
「お前の苦しみの半分は俺がもらった。俺の苦しみも、半分お前にやった。お互いに、迷いながら苦しみながらも、真っ直ぐに生きて行こう。傷を負いながらも逃げだして、こうして戻って来たお前の心は、間違いなく正しい所に戻ったんだ」
フッと柔らかく志岐が笑った。
激しく苛んでいた頭痛がいつの間にか治まっていた。
「……ありがとう、志岐」
目を閉じて横たわったままの朔夜が呟く。
「昔、盗賊の元から逃げ出した俺を助けてくれる者など誰一人いなかった。助けてもらうと言う意味も知らなかった。今夜、お前が来てくれて初めて知った。助けてくれる人がいるのは、こんなにも嬉しいことだったんだな。嬉しいんだ、志岐……」
この気持ちを伝えたくて、ゆっくりと布団の中から手を伸ばす。
その手を志岐はちゃんと握り返してくれた。




