第1話 ネオマイアミの朝
ネオマイアミの朝は、米の炊ける匂いで始まる。
正確には、合成米と古い輸入米を混ぜた配給用ブレンドだ。
湿った熱気の中に、焦げた炊飯器の臭いが混じる。
崩壊から二十七年。
人類は宇宙には戻れなかったが、配給米を水増しする技術だけは進化した。
アパートの通路を歩きながら、カイ・レイエスは配給券を確認した。
赤券二枚。
青券はゼロ。
「終わってんな……」
今日を逃せば、今週はまともな飯が食えない。
軍警学校へ行けば出席ポイントで多少マシになる。
だが毎日通う気はなかった。
学校は軍警が運営する半分孤児院みたいな施設だ。
制服を着せ。
企業史を教え。
配給のありがたみを叩き込み。
従順な労働力を育てる。
カイは籍だけ置いていた。
出席したのは、ここ二ヶ月で三回くらいだ。
階段を降りる途中、壁の古いモニターが突然点灯した。
【本日の配給遅延について】
【市民の皆様には――】
画面がノイズ混じりに止まる。
誰かが銃で撃った跡があり、液晶の端が割れていた。
一階では住人同士が怒鳴り合っている。
「列に割り込みしてんじゃねえ!」
「昨日お前んとこのガキ二回受け取ってただろ!」
いつもの朝だった。
ネオマイアミでは、人が怒鳴っている日はまだ平和だ。
本当に危険な日は誰も声を上げない。
静かに人が消える。
アパートを出ると、腐った海風が肌に貼りついた。
空には企業広告ドローン。
崩れかけた高架道路。
軍警の監視カメラ。
その下を、配給袋を抱えた人間たちが列になって歩いている。
「おせーぞ、カイ!」
通りの角から声が飛んだ。
リコだった。
軍用ジャケットを勝手に改造したベスト姿で、錆びた自動小銃を肩にかけている。
「レイジャーが発見されたのはこの先だ。複数いるらしいぞ」
「まだ生きてんのか、あいつら」
「昨日回収屋が一体と相打ちになった」
「じゃ敵の数が減って助かるな」
カイが言うと、リコは笑った。
「ポジティブすぎだろ」
二人は旧商業区へ向かった。
崩壊前は巨大ショッピングモールだった場所だ。
今は水没しかけた廃墟とレイジャーの縄張りになっている。
サルベージ。
それが二人の仕事だった。
金になる物を拾う。
軍警や企業に売る。
それで生きる。
単純な話だ。
ただし死ななければ。
高架下を抜ける。
腐った海水。
沈んだ車。
看板だけが残った店舗。
その途中でリコが足を止めた。
「あった」
水没したゲームショップだった。
看板は半分崩れている。
店内は泥だらけだ。
二人は慎重に侵入した。
「今さらゲームかよ」
「富裕層が買う」
リコが言った。
「コレクターはどの時代も馬鹿だ」
棚を漁る。
ほとんど空だった。
だが。
「お」
カイがケースを引っ張り出す。
泥だらけのDSソフト。
ラベルは半分剥がれている。
それでも読めた。
マリオカートDS。
「当たりじゃねえか」
「青券一枚くらいにはなるか?」
「もっと行くだろ」
リコが笑った。
その時だった。
店の奥から音がした。
ガシャ。
ガシャ。
何かが倒れる音。
二人の表情が変わる。
「いたな」
リコが銃を構える。
暗闇から人影が飛び出した。
レイジャーだった。
痩せた身体。
裂けた口。
血走った目。
そして。
狂ったような絶叫。
人間の怒りだけを煮詰めたような声だった。
レイジャーは一直線に突っ込んでくる。
交渉もない。
躊躇もない。
殺意だけ。
発砲音。
銃弾が肩を吹き飛ばす。
だが止まらない。
さらにもう一体。
さらにもう一体。
暗闇から飛び出してくる。
「クソ!」
リコが叫ぶ。
カイは鉄パイプを振り上げた。
レイジャーの頭部が潰れる。
黒い血が飛び散る。
その瞬間だった。
見えた。
死体から。
黒い煙のようなものが立ち上る。
澱。
他の人間には見えないもの。
死の残りカス。
だが今日は違った。
澱が流れていた。
街の奥へ。
何かに引き寄せられるように。
「……カイ?」
リコが怪訝そうな顔をする。
「どうした」
カイは答えなかった。
旧商業区のさらに先。
ネオマイアミ下層区。
その方向に。
異常な量の澱が立ち上っていた。
黒煙のように。
空を覆うほど大量に。
まるで街そのものが腐り始めているみたいに。




