第4話:距離を詰めれば叱られ、引けば褒められる ――御簾の奥より見たる、奇妙なる出来事――
さて。
この御殿にて、「距離」というものが
これほど重罪として 扱われるとは、
誰が 想像したでありましょうか。
その朝、 彼女は 前夜のうちに
自らまとめた 覚え書きを、
手元で 整えておりました。
乱れた記憶を清め、明日に 備える。
――至極まっとう正論。
新人としては、もはや模範解答で ございます。
少し早めに御殿へ入ると、例の女――
圧凄は、 すでに席に 陣取り、
時刻外にもかかわらず 戦支度を 整えておりました。
作業の音が 大きい。
声も大きい。
そして、圧も 強い。
女は、どこに いても
何を していても、その足跡は
御殿中に 響き渡って おりました。
この三拍子、まことに 見事。
彼女は 礼を 尽くし、問いかけました。
「何か、お手伝いできることは ありますでしょうか」
返事はございません。
いや、 正確にはございました。
「今は ないけど、いずれこれもやってもらうから」
未来形で相手を 突き放す、
この奥特有の 言い回しでございます。
では、 次。
「でしたら、お仕事を 拝見してもよろしいでしょうか」
彼女は、ほんの 半歩――
いや、 四寸ほど 近づきました。
その瞬間でございます。
「ああっ! 距離近い!!」
「私、 そういうの
無理なの!!」
御殿に 響き渡る、距離警報。
静まり返る室内。
全員が 聞いている。
だが、 誰も 何も 言わない。
鐘も太鼓も不要。
この一声で、空気は
一瞬にして 凍りついたので ございます。
距離。
距離とは、 一体 何なのでしょう。
六十二年 生きてきて、
仕事を 覚えるために 近づいたことで、
このように大声で 拒絶されたことが、
果たして何度 あったでありましょうか。
彼女は 一礼し、 静かに答えました。
「そうでございますか」
それ以上は言わない。
言えば負け。
言い返せば 処刑。
この奥では、沈黙こそが最高の護符なのでございます。
席に戻りながら、 彼女の 内側では、
冷静な 会議が 始まっておりました。
新人が 仕事を 覚えるために近づく、
それは「距離違反」。
では、どう 覚えよというのか。
答えは、誰からも 与えられません。
だがその瞬間、彼女の 中で、
一歩分の 距離が 固定されました。
それまでの彼女が 守ってきた
「常に笑顔」
「常に低姿勢」
「常に感謝」。
それらを、 この朝を 境に、潔く 廃止したのです。
以降の 振る舞いは、 実に 簡潔。
話しかけない。
聞かれたら 答える。
説明時は 二歩下がる。
返事は「はい」 のみ。
礼はある。
だが、媚びはない。
すると、奇妙なことが 起きたのでございます。
圧凄が、様子を変え始めました。
声が下がる。
言い直す。
二度見する。
まるで、距離を 取られた側が 不安になったかのよう。
まこと、人の心とは、
追いかければ逃げ、背を向ければ縋りつく、
気ままな猫のようなもの。
ましてや、この御殿の住人は、
その扱いがことさらに難しきことでございます。
そして、ついにはこう 漏らしたのです。
「迷ってるみたいね」
「どこが分からないの?」
――ほう。
距離を 詰めれば
叱られ、距離を
引けば、優しくなる。
この御殿の 距離感、実に 高度で ございます。
だが、これは 圧凄だけの話では ございませんでした。
数日後。
別の女――三十六歳、不愛想な 同僚がミスを指摘した際、
内容を確認しようと 彼女が 近づいた、 その瞬間。
「もっと離れて」
同じ言葉。
同じ調子。
同じ拒絶。
周囲は、やはり聞いておりました。
そしてやはり、何も 言わなかった。
――ここでは、新人を 近づかせない。
それが、この部署の「作法」に ございました。
このとき、 彼女の 胸に、
静かな 絶望が 植え付けられました。
近づくな、 だが 覚えろ。
聞くな、 だが 間違えるな。
尊厳というものは、
声高に 奪われるものでは ございません。
こうして、 日常として、少しずつ
削られていくものにございます。
その日の午後、御殿に怒号が 響きました。
机を 蹴る音。
感情をぶつける客の声。
彼女は思います。
「あれに比べれば、圧凄の圧など、まあ 制御されている」
人の圧より、 生の感情のほうが、よほど凶器であると。
この日、彼女は悟りました。
距離は、 与えられるものではない。
自ら、 取るものだ、と。
新人五日目。
彼女は仕事ではなく、
生存術を一つ、身につけたのでございます。
清少納言、ここに 記す。
「距離を詰めて 拒まれし者、
二歩 下がれば、なぜか 咎められず」
まこと、 奥とは、
人を 近づけずに働かせる不思議なところなり。
次回予告
「――次回、
仕事はできても『内側』へは 入れぬ 御殿の掟。
秘密の文(LINE)から 外され、
暗がりに 置かれた彼女が
悟ったのは、 踏ん張ることとは
耐えることではなく、
『出口』を見極めることという 真理に ございました」




