第5話:踏ん張るとは、留まることにあらず ――御殿にて、人はなぜ留まるのか―― さて。
【これまでのあらすじ】
「未経験歓迎」「万全のサポート」。
その美辞麗句の裏側にあったのは、
未熟な古参が新人を叩くことで己の地位を確かめる、閉鎖的な沼地だった。
質問すれば「一度で覚えろ」と突き放され、
ミスをすれば「あなたの常識がおかしい」と嘲笑われる。
そして、新人の熱意を切り裂く、冷徹な一喝。
仕事を請おうと半歩近づいた彼女を待っていたのは、
御殿に響き渡る『距離警報』と、人格を否定するほどの拒絶にございました。
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さて。
教えを乞うために近づいた己の身を、
『距離が近い』と汚らわしいもののように疎まれた、あの一件。
それ以来、彼女の心の中で、
この御殿へのわずかな期待は音を立てて崩れ去っておりました。
この御殿において、
正面突破は 愚策。
感情を持ち込めば 消耗戦となり、
正しさを語ればただ摩耗するのみ。
ここは、人が是非を争う場所では ございません。
ゆえに彼女は、「踏ん張る」 という姿勢を 選びました。
――ただし、
勝つためでも、 耐えるためでもございません。
すべては「観察」のため。
その一点に、 己を繋ぎ止めたのでございます。
仕事は、 少しずつ見えるようになって参りました。
圧は、なぜか 以前より 弱まっております。
どうやらこの奥では、「距離を取る者」 は
「扱いづらい者」として、 一定の敬遠を 受けるらしい。
この部署の掟も、次第にその醜き輪郭を帯びて参りました。
仕事ができれば 存在を許され、
遅れれば空気が冷える。
感情は不要。
成果のみが通貨。
実に分かりやすく、
そして、 実に冷たい場所で ございます。
この部署は、四人で 回っておりました。
六十二の彼女。
三十代の女。
そして、 圧凄。
さらに、
五十代の「正社員」と称する者が 一人。
この社員は、
自ら実務に 手を染めることは ございません。
接客も入力もせず、
ただ 他の者がした仕事を 確認し、
「よし」と言うだけ。
知識を持ち、 判断を下し、承認する。
つまり、
常に教える側であり、常に監視する側。
この部署で働くということは、
常にこの社員の目を通して 仕事をする、
ということで ございました。
ある日、
その社員が唐突に 「推し」の話を 始めました。
他の二人は、 即座に 調子を合わせます。
うなずき、 相槌を打ち、 笑いどころを 逃さない。
社員は 話しつつ、
ちらちらと 彼女の顔を 覗き見ます。
――ここで、 何か言うべきなのだろうか。
彼女は そう判断し、大人の慈悲をもって 尋ねました。
「推しは、 どんな方なんですか」
返ってきたのは、 短い一言。
「まだ、教えない」
あな、をかし。
還暦を過ぎた女を相手に、
お菓子の隠し場所を惜しむ幼児のような拒絶。
凍りついた空気を、
彼女は「この御殿の天然記念物」として、心に刻みました。
圧凄が、 そこへ意味深に言葉を添えます。
「ファンにならないと、いけないんだよね」
――ほう。
業務を覚える前に、
まずは「推し」の信者にならねばならぬとは。
この御殿の入会基準、まことに厳格でございます。
その後、彼女は知ることとなります。
この部署には、
一つの「秘密の文(LINEグループ)」が 存在することを。
業務連絡が回り、 細かな情報が共有される場所。
だが、 彼女だけが
そこへ 招かれることは ございませんでした。
理由は語られず、招待も来ない。
他の者たちは、 当然のように
その画面を見ながら 動いている。
彼女だけが、 常に一歩、
暗がりに 取り残される。
つまり――
仲間として認められるまでは、情報には触れさせない。
それが、この御殿の陰湿なる作法。
そして彼女は、 辞めるその日まで、
その文を受け取ることは ございませんでした。
彼女は、この時点で 理解したのです。
ここでは、 仕事ができるかどうかは、
第一の条件では ないのだと。
私的な同調。
雑談への加担。
空気を読む能力。
それらを 差し出せる者だけが、
「内側」という名の檻に 入ることを 許される。
仕事は、その後の話に 過ぎないので ございます。
だから彼女は、 決めました。
試用の間は、やるだけやる。
感情は置き、 期待もせず、 評価も求めない。
ただ、この構造を 観察し尽くす。
この奥は、 慢性的に人手が足りておりません。
ゆえに新人には、 一刻も早く
「一人前」の仮面を 被せたがる。
だが、 彼女は 知っておりました。
ここで言う一人前とは、
仕事ができる者のことではございません。
文句を言わず、 違和感を飲み込み、
不当な線引きを 受け入れた者のことで ございます。
仕事は、覚えたら終わりというものでは ございません。
次が来る。 また次が来る。
三年いる者でさえ、いまだ
苛立ちを顔に張り付け、 確認を繰り返している。
彼女は、静かに思いました。
――次は、私だ、と。
仕事量と年収は、 どう見ても釣り合わない。
残業はないと言われていたはずが、
この御殿には「残業ではない残業」 が
日常として 蔓延っている。
そして彼女は、 六十二歳。
これからの人生で、 無理を重ねる理由など どこにありましょうか。
楽しい時間を 削ってまで、
居座る場所でも ございません。
だが、 感情に任せて去るのも、
賢き人のすることでは ない。
そこで彼女は、 一案を立てました。
「任期満了まで、 淡々と務める。
更新は、しない。
打診されなければ、なお良し」
『一年で退職』。
これは、 次の世(仕事)において
不利にならぬための、 魔法の呪文。
この期間は、 耐える日々では ございません。
官の世界を知るための「短期留学」 にございます。
学ぶのは、 仕事などではない。
人がなぜ、 これほどまでに 留まってしまうのか。
その構造を 知ること。
ただし、 条件は一つ。
身体が悲鳴を上げたら、 即、撤退。
この御殿に、 命を捧げる理由など 微塵もございません。
彼女は、 そう心に決めたのでございます。
清少納言、 ここに記す。
「踏ん張るとは、耐えるにあらず。
出口を見失わぬことなり」
次回予告
「――次回、
闇深き御殿へ射し込む、
一筋の光明。
呼吸を忘れた彼女に届いたのは、
歪んだ掟を打ち砕く
『外の世界の正気』と、
己を尊ぶ心を取り戻させる
一通の守り刀にございました」




