二滴目の夜
――カンタヴィア 滞在最終夜
出立の前夜。その夜のことは、後々まで、パーチの語り草になった。
第7条撤廃の布告が、その日の夕刻、都の全ての掲示板に貼り出されたのだ。『公の場における歌唱を禁ずる条項を、廃す』。たった一行の布告の前に、都の人々は群れを作って、黙って立っていた。読んで、去り、また戻ってきて、読んだ。
布告の前で、人々の指が動くのを悠仁は見た。文字をなぞる指。隣の者の袖を握る指。口元へ持っていきかけて、行き場を失う指。声にしていいのかどうか、まだ誰も確かめられずにいる。20年というのは、そういう長さだった。
夜になった。
悠仁達は、宿の屋根の上にいた。全員で。なんとなく、今夜はそこにいるべきだという気がして、誰からともなく上がったのだ。
屋根の上には、カインが厨房を借りて拵えた夜食の籠が上がっていた。揚げパンと、杜松の実の香る川魚の燻し。フェリスは籠の番のような顔で真ん中に座り、尻尾で瓦を一定の拍子で叩いていた。最初の夜にミーナと二人で上った屋根に、今夜は六人と一匹がいる。
白い都は、いつもの通り、静かだった。
「……ま、そりゃあな。」
カインが、頭の後ろで手を組んだ。
「法律が変わったからって、いきなり歌えるわけじゃねぇよな。20年だぜ。歌い方なんて、みんな忘れちまってら。」
「ロヴェルトさんの、おばあさまの話みたいに……ですね。」
「あぁ。20年やめてると、出なくなるんだと。……歌ってのはよ。」
その時だった。
都のどこか——遠くの、路地の奥のあたりから。
たどたどしい、外れた、小さな小さな鼻歌が、ひとつ、夜気に浮かんだ。
全員が、息を止めた。
鼻歌は、二小節ほどで、恥ずかしそうに、やんだ。……そして、少し間を置いて、別の方角から、別の声が、応えるように、また二小節。それも、やんだ。今度は三つ目。子どもの声だった。四つ目は、老人の、掠れて音程の怪しい——それでも、間違いなく歌と呼ぶべきもの。
灯りが、ぽつ、ぽつと、点き始めた。
窓が、一枚、また一枚と開いていく。誰も大声では歌わない。誰も上手くは歌えない。20年ぶんの錆びついた喉が、都のあちこちで、おそるおそる、鳴り方を思い出していく。それは合唱にはほど遠い、ばらばらの、不揃いの、途切れ途切れの——
——それでも、都が、歌っていた。
「……ふ、ふふ。」
フルールが、笑いながら、泣いていた。
「へたくそ……みんな、すっごく、へたくそです……。」
「あぁ。」
悠仁は、白い都の上に、ぽつぽつと灯っていく小さな声を聞きながら、思った。リリカさん、聞こえるか。あんたの国は、こんな音痴ばっかりだ。あんたが20年、たった一人で歌い続けた夜の上で、いま、十万人が、下手くそに歌ってる。
『おぼえてるあいだは、いなくなってないんだよ。』
7歳の教えの通りなら——今夜のこの都のどこにも、いない人など、いないのだった。
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翌朝。出立の荷を積み終えた悠仁に、宿の前で、声をかける者があった。
灰色の外套。無地の仮面。膝に板。羽根ペン。
「……あんたか。」
審判は、いつものように、答えなかった。ただ、羽根ペンが板の上を走り、それから、仮面が悠仁に向いて——
「——興味深い、選択でした。」
それだけを言って、灰色の記録者は、白い朝の雑踏に紛れて、消えた。
歌を斬らず、真実を公表せず、王にだけ届け、法を一本だけ変えさせた。あの一連の何が、どこの誰の帳面に、どう「査定」されたのか。
考えても、分からない。分からないものは、いつもの抽斗へ。……ただ、抽斗を閉める寸前、悠仁は初めて、こう思った。
(あいつらの帳面も、いつか——誰かが最後まで、読む日が来るんだろうか。)
その夜、白鳩亭の飯の正体を、ミーナがついに知った。滞在も一週間を過ぎた頃だった。夜食を求めて台所を覗いたミーナが、見てしまったのである。女将が、夜中の台所で、明日のパン生地を捏ねながら——踊っていたのを。
音楽は、ない。当然、ない。だが女将の体は、確かに、拍子を刻んでいた。捏ねて、返して、二歩下がって、また捏ねて。それは、どこからどう見ても、踊りだった。音楽のない、踊りだった。
「……み、見たね。」
「……見ちゃった。」
観念した女将は、ミーナに夜食の麺麭を焼きながら、白状した。
「……あたしの母はね、南の、コスタルーナの生まれなの。あっちは緩いから、母は踊れる人だった。台所仕事はぜんぶ、踊りながらやる人だった。……で、あたしがこの都に嫁いで、台所を継いで。踊りは持ってこられなかったけど、拍子だけは、体に残っちゃっててね。」
「音楽なしで、よく踊れるわね……。」
「パン生地が、太鼓なのよ。」
女将は、生地を、とん、と返した。
「捏ねる音は、法に触れない。生活の音だから。……この生地の、とん、とん、が、あたしの楽団。20年、この楽団と踊ってきたの。……うちの麺麭が評判いいのはね、お客さん。よく踊った生地は、よく膨らむからよ。理屈は知らないけど、ほんとなんだから。」
その夜、白鳩亭の台所には、遅くまで、弟子がいた。
ミーナが「踊る捏ね方」を習い(筋がいい、と褒められた)、アリスが配合を写し、フルールが「よく踊った生地は発酵のマナの巡りが違います、ほんとです」と理屈の側を検証した。ステラの帳面の『私的記録』は、また一頁、厚くなった。生地のとん、とん、にミーナの見様見真似のとん、が重なり、時々ずれて、女将が肩で笑う。その程度のことだ。その程度のことが、この国では、宴にいちばん近かった。
出立の朝、女将は、旅用の堅麺麭をひと抱え、持たせてくれた。
「……あんたたちの行く先で、この国の話をすることがあったらさ。」
無口な女将は、その時だけ、少し多めに、喋った。
「歌えない国、って言わないでおくれね。……歌ってた国、って言っとくれ。台所の隅っこでね、みんな、ずっと、歌ってたんだから。拍子だけで。」




