宵に閉まる門
――コレスタニア領 関門都市ポルタセーラ
ポルタセーラの街壁が近づいてきた頃、日は西の丘に半分沈んでいた。
「急いだ方がいいかもしれません。」
先頭の様子を見ていたアリスが振り返る。街道を行く数少ない旅人たちが、明らかに足を速めていた。
「なんかあるのか?」
「さっきの石標に書いてありました。『宵鐘の後の入市は翌朝まで』って。」
「宵鐘?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、前方から鐘の音が響いてきた。低く、長く、一つ。丘の畑で農夫たちが一斉に手を止め、道具をまとめ始めるのが見えた。
「……閉まるぞ、あれ。走らせる!」
悠仁は手綱を打った。馬車が速度を上げる。街壁の門はまだ開いているが、門の両脇で衛兵が既に扉に手をかけている。二つ目の鐘。旅人たちが小走りになる。誰も叫ばない。誰も「待ってくれ」と言わない。ただ黙々と、全員が足を速めるだけの奇妙な競争だった。
三つ目の鐘が鳴り終わる寸前、悠仁達の馬車は門を滑り込んだ。
背後で、油の効いた蝶番が音もなく回り、門がゆっくりと閉じていく。最後の旅人が駆け込むのを衛兵が黙って待ち、それから完全に、閉じた。
あれだけの質量の門が閉じたのに、音は、地面を伝う低い振動が一度きりだった。カインが御者台から身を乗り出して蝶番を見上げ、口笛を吹きかけて、すんでのところで飲み込んだ。
「……ありゃあ、大した仕事だぜ。蝶番の芯に革を巻いてやがる。音を殺すためだけによ。」
音を立てないことに、この国は金と技術を惜しまない。壁の厚さで守る国と、静けさの厚さで守る国。門一枚から、国の設計思想が読めた。
「……間に合った……。」
「宵に閉まる門、か。街の名前の通りってわけだ。」
悠仁は額の汗を拭った。振り返ったポルタセーラの街は、夕闇の中で家々に灯りがともり始めていた。灯りは、どの窓も一様に小さい。
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――ポルタセーラ 宿屋「石鹸草の宿」
宿はすぐに見つかった。街の造りは合理的で、門から大通り沿いに宿が並び、看板は文字ではなく絵で描かれている。選んだ宿の看板には小さな白い花が描かれていた。
「お部屋は2階の奥から3つ。夕食は1階の食堂でどうぞ。……ああ、それから。」
宿の女将は感じのいい中年の女性で、鍵を渡しながら声を一段落とした。
「2階の廊下は、板が鳴きますのでね。夜はゆっくり歩いてやってくださいな。」
「あぁ、はい。他のお客さんの迷惑にならないように、ですね。」
「いいえ?」
女将は不思議そうに首を傾げて、それから、ふふ、と笑った。
「板が、かわいそうでしょう。夜くらい、静かに寝かせてやらないと。」
冗談なのか本気なのか、判断がつかなかった。女将は「ごゆっくり」と言い残して帳場へ戻っていった。
「……今の、冗談よね?」
「冗談……だと思うぞ。多分。」
この国の人間の「静けさ」との付き合い方は、どうも悠仁達の物差しでは測れないところにあるらしい。
食堂は、そこそこ混んでいた。そして当然のように、静かだった。客たちは普通に食事をし、普通に会話をしている。ただその全てが、囁きの一歩手前くらいの声量で行われている。食器の音のほうが会話より大きい食堂というのを、悠仁は初めて見た。
出てきた夕食は、川魚の香草焼きと豆の煮込みだった。一口目は、正直、薄いと思った。二口目で、違うと分かった。薄いのではない。声が小さいのだ。香辛料で殴ってこない代わりに、出汁の底に杜松の実らしい香りがひとつ、じっと座っている。噛むほどに味が近づいてくる料理だった。カインは黙って三口食べて、それから小声で、負けた、と言った。この国は飯まで、聞く側に回らせる。
その中で。
「――だから!今日も駄目だったんだって!」
一角だけ、声のある卓があった。
正確には、声を出しかけては仲間に袖を引かれて萎み、また膨らみかけては萎む、を繰り返している卓だった。5人組。全員が冒険者らしい装備だが、剣や杖よりも目立つのは、卓の上に広げられた大判の紙と、革筒と、見慣れない真鍮の器具の数々だった。
「また申請が通らなかったの声が漏れてるわよ、団長。」
「漏れてない。これは囁きだ。」
「囁きの声量じゃないのよ。」
どうやら団長と呼ばれた男の声が、この国の水準では大きすぎるらしい。男は不服そうに黒パンを齧って、大判の紙——よく見ればそれは精密な地図だった——の上に、憎々しげに指を突き立てた。
「西の谷の測量許可。これで4回目の却下だ。理由は今回も『必要性が認められない』。……地図を作るのに、必要性もクソもあるか。そこに谷があるから測るんだろうが。」
「はいはい。」
「大体この国の官製地図はおかしいんだ。等高線が、谷を一つ、まるごと迂回してる。ないことになってるんだよ、地図の上で。この国、地図から消してる谷があるんだ。」
「団長。声。」
「……消してる谷が、あるんだ。」
男は同じ台詞を、今度こそ囁きで言い直した。
(地図から、消してる谷……。)
悠仁は自分の皿に視線を落としたまま、聞くともなしに聞いていた。盗み聞きの趣味はないが、この静かな食堂では、囁きですら耳に届いてしまう。
「ステラ。」
「……ん。」
「あの器具、何かわかるか?」
「……測量器具。それも、かなりいいやつ。あの真鍮の分度器みたいなのは、星を使って位置を出す道具。売ってるのを見たことがあるけど、金貨で2桁する。」
「金貨2桁の道具を担いで、谷を測りに来てる冒険者……。」
「……多分、あれが『黒地図』。」
ステラの声が、すっと低くなった。
「カシュカントの商会で聞いた噂の。……地図にない場所を、金で売るクラン。」
「あぁ……なるほど。地図にない場所ってのは、比喩じゃなくて。」
「……ん。文字通り、『地図にされてない場所』を測って、その地図を売る。だから金になる。誰も持ってない地図だから。」
食堂の隅で、黒地図の団員たちは却下された申請書を畳み、地図を革筒に戻し始めた。その手つきだけは、囁きの国の住人よりもよほど丁寧で、静かだった。
(消してる谷、か。)
官製の地図が、わざわざ谷を一つ消す。そんな手間をかける理由が、いい話であるはずがない。悠仁は皿の上の魚を口に運びながら、その言葉を頭の抽斗の、忘れない場所へしまい込んだ。
隣の席では、ステラが匙を止めたまま、黒地図の卓を見るともなく見ていた。正確には、彼らの手元を。地図を筒に戻す指の順番、器具を布で拭ってから仕舞う手つき、申請書の畳み方。記録する者は、記録する者の手を見れば分かるらしい。帳面の上でステラの羽根ペンが一度だけ動いて、止まった。書かなかったのか、書き終えたのか。その横顔は、久しぶりに、退屈そうではなかった。
門の内側の両替所で、手持ちの金貨を国の銀貨に替えた。手数料は一割五分。「高っ」とミーナが言いかけて、係の視線で声を八割落とした。閉ざされた国の金は、入る時にまず、口の軽さから徴収するらしい。
ポルタセーラ(地名)
コレスタニア領の北の玄関口にあたる関門都市。名は古い言葉で「宵の門」を意味するとされ、その名の通り日没の宵鐘とともに全ての門を閉ざす習わしが数百年続いている。門限に間に合わなかった旅人のためには壁外に旅人小屋が用意されており、閉め出し自体に罰の意味はない。交易の中継地であるため異国人への応対には慣れており、静謐法の運用も国内では最も穏当と言われる。石鹸草を軒先に植える家が多く、夏の夕方には街全体がかすかに甘い香りに包まれる。
黒地図
大陸全土の「完全な地図」の作成を目標に掲げる測量特化のクラン。人数は10人に満たないと言われるが、その全員が測量・製図・天測の技能持ちで、作成される地図の精度は国家の官製地図を上回ることも珍しくない。誰も測っていない土地を測り、その地図を高値で売ることで活動資金を賄っているため、一部では「地図にない場所を金で売る連中」と呼ばれる。金にならない土地ばかり好んで測りに行く変人集団としても知られる。




