プロローグ
空間全体がガラガラと大きな音を立てて崩れているにも関わらず、カインは落ち着いている。諦めたような、ただ安らかにも見えるようなそんな表情をこっちへ向けてくる。その胸に最愛の人を抱いて。
まだ帰ってこられる、早くこっちへ、そう言おうとしたのを見越したように首を振る。悠仁の考えることなど、カインはお見通しなのだろう。
口がパクパクと動いており、何かを言っているようだが、その声は崩れてくる瓦礫に遮られる。ただ、その声が聞こえたような気がして…。
(そうだ…俺は…)
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「HOPE」
正体不明の大企業「ALGO」が開発・運営を行っているゲームだ。
ゲーム内に意識を送るという画期的な技術を用いたMMORPGである。
AR技術を用いたゲームは数多く発売されていたが、仮想世界に意識を送り込むというその斬新さから世界中の注目を集め、瞬く間に普及した。だが、爆発的ヒットの理由はそれだけではない。
なんとこのゲーム、ゲーム内通貨を現実世界の通貨に換金できるのだ。
ゲームをしながら金を稼げるとなれば、注目を浴びないわけがない。
今年で28歳になるしがないサラリーマンこと「青木 悠仁」も、そのキャッチコピーに釣られた一人である。
給料をもらう立場としての責務を果たし、今日もHOPEをプレイしに施設へ向かっている。
「ハァ…どうにも…運動不足だな…」
会社から施設まで20分程度だが、坂道が多く結構疲れる。
寒さも和らぎ厚着をしなくて済むようになったが、まだ肌寒い。そんな気温だが、運動がてらに歩くと意外と汗ばむものである。
自身の運動不足を呪いながら歩き続け、人で溢れかえっている繁華街に背を向けて路地裏に入っていく。
繁華街の喧騒は、角を一つ曲がるだけで嘘のように薄くなる。夕方の路地裏に残っているのは飲食店の換気扇が吐き出す油の匂いと、どこかの室外機の低い唸りくらいで、行き交う人の姿もまばらだ。革靴の音が壁に反って、自分の後をついてくる。この道を歩くのは何度目になるだろう。数えたことはないが、体のほうが先に道順を覚えていて、考え事をしていても足は勝手に進んでいく。
しばらく進むと、目立たない佇まいをしている雑居ビルがある。これだけ見ればどこにでもある雑居ビルだろう。
しかし、ドアの前には屈強な黒服が門番のように立っている。見た目はただの雑居ビルなのに、黒人のスキンヘッドな黒服が2人も立っていれば違和感は凄まじい。本来誰の目にも異様に映る光景だが、もう見慣れたものだ。
「えっと…、18時30分か。少し早かったな。」
腕時計に目を向けると、時計の針は待ち合わせの19時よりも早い時間を指していた。
「少し早いけど、酒場で待ってようか。」
そう呟きながら、悠仁は黒服が固めている自動ドアを通る。もう何度も繰り返した動作に迷いは見えない。その足で受付に向かう。
少し進むと、雑居ビルには似合わない立派な受付がある。これで広ささえあれば、大企業へ営業に来ていると錯覚してしまいそうになる。
受付には、ALGOの社章が縫い付けられた黒い制服を着た女性が居る。派手すぎないその制服は、清楚な雰囲気を醸し出すのに十分だ。
しかし、受付にいる女性はいつも同じなのだが、この人はいつ休んでいるのだろうか。そんな疑問を持ちつつも、悠仁は下を向いていた女性に声をかける。
「すみません、利用をしたいのですが。」
そう声をかけると、書類に目を通していたのだろうか、受付嬢が目線を悠仁に向ける。
「お帰りなさいませ青木様、現在ブースには空きがあるのですぐに利用することが出来ます。」
けして大きいわけではないのに、部屋全体に響くかのような通る声だ。聞いているだけで気分がよくなってくるようだ。
そういえば、この受付で「いらっしゃいませ」と言われた覚えが無い。いつだって「お帰りなさいませ」だ。
「じゃあお願いします、特に場所の指定はありません。」
「承知いたしました、ではこちらに手を入れてください。」
受付においてある機械に手首まで挿入する。
機械についているランプが、ピッという音とともに緑に変わる。
「ありがとうございます、では下の部屋へお進みください。」
認証が済んだら、フロアの奥に位置する扉に促される。扉の向こうには地下へ続く階段があり、2階分と思われる階段を降りると到着する。
階段を一段降りるごとに、上の階の物音が薄れていく。空気はひんやりと乾いていて、コンクリートの壁に等間隔で並ぶ照明が足元だけを照らしている。地上の雑居ビルの古びた外観からは想像もつかない、金のかかった静けさだった。毎度のことながら、この階段はどこか別の建物に続いているような気がしてならない。
明らかに受付のあるフロアよりも広い空間が広がっていて、室内は薄暗い。
その空間に、整然と大きな卵形の物体が並んでいる。利用者はこれをポッドと呼んでいる。これに入ることでゲームにログインが出来るのだが、暗くなっているポッドがいくつか見えるので、本日も利用者がいるようだ。
地下は静かだ。空調の低い唸りの底に、機械の駆動音がかすかに混ざっている。並んだポッドの一つ一つの中で、誰かが今まさに別の世界を生きているのだと思うと、この薄暗い部屋は眠る人間を並べた奇妙な寝室のようにも見える。通い始めた頃はその眺めに落ち着かないものを感じたが、今では通勤電車の車内と大差ない風景になった。慣れというのは、たいていのものを日常に変えてしまう。
「まぁ、どこでもいいか。」
手近なポッドに近づき、ポッド横に設置されているスイッチに触れると、卵が割れるようにポッドの蓋が開く。
ポッド内に設置されている座席に座り、アームレストに腕を乗せるとポッドが閉まり、機械音声が聞こえる。
「認証が完了しました。青木様。ゲームにログインしますがよろしいですか?」
「あぁ、頼む。」
「了解しました、ではログイン準備を行います。落ち着いて呼吸をしてください。」
別に緊張なんてしないが、何でこのような音声が流れるかというと…
ザーーーーーー!
足元から水色の液体が流れ込んでくる。
なんでもこの液体に全身が浸かることで、サーバーへ繋がり易くなるそうだ。
多量の酸素が液体中に含まれているらしく、肺の中に吸い込んでも呼吸をすることが出来るが、慌てていると反射で咳き込んでしまい止まらなくなる。
あっという間に口まで液体が上がってくるが、落ち着いて呼吸をする。目の前が水色に染まる頃には、視界が暗くなり意識が遠くなっていく。
さぁ、ゲームスタートだ。




