第十二話
ベットの側に置かれたバックの中身を確認し、鏡代わりの窓で手早く髪を手ぐしで整える。
うっすら映る自分の姿よりも、明らかに高層マンションと分かる景色の方が葵は気になった。
「(ここ……私の給料じゃ絶対に住めない……。
え……犬飼君って何者……?
私と同じ会社に勤めてるはずなのに……怖っ!)」
近いようで遠い後輩のもう一つの顔を見てしまった気がした葵は慄く。
「(……ベットも、シーツも……寝心地が良かったし……本気で吐かなくて良かった……!)」
吐かなかった自分を褒めつつ、振り返った葵の視界には彰良の背広が映る。
「どうしよう……近所のクリーニング屋さんで良いのかな……?
いや……高級路線の専門業者とか、居たりするの……私、払えるかな……?」
この部屋を認識したあとで見た彰良の背広。
クリーニング代として幾ら渡せば良いのか想像も出来ず、葵は項垂れてしまう。
「(知ったかぶりをするよりも、素直に聞く方がいっか……)」
女は度胸と気合を入れなおした葵。
「あの、犬飼君……?
(……広っ……え、どこに行ったんだろ……?)」
寝室から出て彰良の姿を探しても見当たらない。
「こっちです、先輩」
洗いざらしの白いシャツを腕まくりし、トーストの乗った皿を両手に持った彰良が葵を呼んだ。
「簡単なものですが、朝食を準備しました。」
「あ、ありがとう……って、すごいですね、犬飼君。
ホテルの朝ご飯みたいだわ。」
こんがり焼けたトースト、ヨーグルトに、カットされた果物。
「……バターも個包装ですし……」
「感心される程のものではないですよ。
食パンは焼きましたが、それ以外は全て盛り付けただけですから。」
お手本のように並べられた食器やカラトリー。
「……そうなんですね……。
あ……犬飼君、背広をありがとうございました。
私のせいでシワが寄ってしまいましたし、クリーニング代を渡したいの。
もし、犬飼君の行きつけのクリーニング店が有るなら、そこのお値段を教えて欲しいのだけど……」
文化レベルで違う気がする……と、戸惑う葵だったが、手に持っていた背広の存在を思い出す。
「クリーニング……?
すみません、先輩。
適当に出しておけば綺麗になって戻ってきますし、月払いで纏めて支払っていますので、個別の料金は把握していなくて……。」
「……月払い、ですか……」
「はい。
だから、クリーニング代は気にしないで下さい。」
「……いえ、背広をシワにして、酔っぱらいの世話までさせて、家にまで泊めてもらったのに、何のお礼もしないのはちょっと……。」
申し訳なさすぎる、と眉を下げる葵。
「犬飼君、私の心の平穏のためにクリーニング代というか、迷惑料として受け取ってほしいと言いますか……」
「心の平穏のために、ですか……」
お願いします、と必死な表情の葵に対し、彰良は口元に手を当て暫し考える。
「……では、自分が何か頼みたいことが出来ましたら、一つだけ請け負ってもらえませんか?
正直、金銭を渡されるよりも自分にとっては、その方が有難いのですが。」
「そんなことで良いんですか?
たくさん迷惑を掛けてしまいましたから、もっと欲張っても良いんだけど……」
「……では、先輩のお言葉に甘えて……」
呼吸を整える。
「……二人だけの時だけで構いません……先輩の名前を、呼ばせてください。」
「え?」
「やはり駄目でしょうか……?」
落ち込んだ様子で、少しだけ低くなった声音。
「え……いや、駄目……じゃないです……。
(……なんで、そんな目をするの……?)」
小首を傾げて寂しそうな目を向けられた葵は、思わず頷いてしまう。
「ありがとうございます、立花先輩……いえ、葵先輩。」
「っ……」
「自分のことも、彰良と呼んでくださると凄く幸せなのですが……駄目でしょうか……?」
「……うっ……えっと……」
「…………」
「…………駄目、では……ないと、言いますか……えー……彰良、さん……んー……彰良、くん?
……うん、彰良くん……かな……?」
「っ……!
……ありがとうございます……葵先輩。」
「いえ……」
胸の奥が高鳴り、目を逸らしてしまう。
「……朝食が冷めてしまいますので、こちらへ。」
「……うん……ありがとう……」
互いに赤く染まった耳。
引かれる椅子。
重なっても、すぐに逸らされる互いの瞳。
触れそうで触れない距離。
「……いただきます。」
「いただきます。」
少しだけ冷めたトースト。
一口かじれば小麦の香りとモッチリとした食感。
「美味しい……。
犬飼く……彰良くん、料理上手なんですね。」
「…………自分は焼いただけです。
パンが美味しいのではないでしょうか?」
ふわりと微笑む葵に、逸らされる視線。
「……彰良くんは、プレーンヨーグルトが好きなのね。」
甘みのないもったりとしたコクのあるヨーグルトの味。
「葵先輩、は……ヨーグルトは嫌いですか?」
「き、らい……じゃないです。
ただ、そのままで食べるよりは砂糖を入れることが多いかな。
彰良くんは、そのまま食べるのが好きなのね。」
「いえ、好きではないです。」
「え……?
だったら、ヨーグルトは嫌いなの?」
「……嫌い、ではありません。」
肯定も、否定もない答えに葵は首を傾げてしまう。
「勝手に補充されるので、そのまま消費しています。」
「…………そ、そうなのね。
(勝手に補充って……なんだろ……気になるけど、聞くのがこわい……)」
から笑いを浮かべた葵の目に、綺麗にカットされたフルーツが映る。
「彰良くんは……果物好き?」
「嫌いではありません。」
「そっか……」
彰良の答えに、葵は自分のヨーグルトに果物をいくつか落とす。
「この食べ方、私けっこう好きなんだけど……彰良くんは嫌かな……?」
「ヨーグルトに果物ですか。
よく聞く組み合わせですが、試したことはありません。」
迷うことなく葵の真似をして、彰良もヨーグルトへ果物を落とす。
「どう、かな……?」
「ヨーグルト単体よりも……食べやすい、です。」
「……うん」
「……葵先輩……この食べ方、誰に教わったんですか?」
「ん?
私の母から教えてもらった食べ方だけど……?
(……教わるって、ほどのことでもないけど……?)」
「……そうですか……」
「……でも、彰良くんと一緒に食べるからかな?
いつもより美味しく感じますね。」
「っ………………自分も、です……」
微かな食器の音だけが響く。
合うことのない二人の視線。
だが、二人の口元には微かな笑みが浮かぶのだった。




