序章
「檜垣純子」ウェディング業界で、その名を知らぬ者はいない。超一流のウェディングプランナーである。
彼女が手掛ける結婚式は「外さない」と評判で、国内外から依頼が殺到していた。
「檜垣純子プロデュース」という式そのものに、価値が見出されているのであった。
数百人規模の披露宴はもちろん、警備を要する政治家の式でさえ、彼女は完璧にこなす。段取りは秒単位、想定外は想定内に収めていく。それが彼女だった。
もっとも、彼女には致命的な欠点がある。
それは、「自分の予定だけは、まったく管理できない」ことだった。
友人との約束を忘れるのは日常茶飯事。
デートの日付を間違えることも珍しくない。かつては、友人と出かける約束を見事に忘れ、母親と買い物をしていたところ、現地でその友人と鉢合わせたことすらある。
そして、その「欠点」が、最悪の形で発覚する日が来る。
「檜垣君。言うまでもないが、今日の式は、絶対に失敗できないんだ。頼んだよ」
檜垣が勤める「東京グレイスフルホテル」社長、風間が横に立つ。
「かしこまりました」
黒のパンツスーツを着た檜垣は、凛とした佇まいで返す。
その日は、内閣総理大臣の娘の結婚披露宴が行われることになっていた。与党閣僚や、その他多くの政治家が出席するとあり、朝早くから周辺は物々しい警備が敷かれている。
檜垣は警視庁のSPと、ホテル内外の動線確認や警備態勢の確認を行っていた。
「檜垣さんだと、警備計画が狂いません。我々は本当に助かります」
SPのチーフが檜垣を褒める。警備の段取りや、政治家一人一人の顔まで檜垣は覚えていた。
一通りの確認を終え、一旦事務所へ戻ろうとした際、胸に入れたスマートフォンが振動した。
取り出すと、メッセージが一件入っていた。
[純ちゃん、今日はよろしくね。会場で待ってる]
しばらく考えながら歩いていると、他の会場のドレス姿の新婦が目に入った。
「あ!」
思わず声が漏れ、周囲の視線が一斉に檜垣へ集まる。
ドレス姿の新婦…
祝福の空気…
そして…
[今日って、私の結婚式じゃないの!]
檜垣は一気に血の気が引き、呆然と立ち尽くした。
「あの…『桜の間』はどちらですか…」
訪問客に尋ねられ、我を取り戻す。
「あ…えぇと、こちらのエレベーターで6階に上がられてください…」
腕時計で時間を確認する。
現在午前9時。檜垣の結婚式は函館で午後2時から開式される。
「今なら間に合う…いやいや駄目駄目」
正午から総理の娘の式が行われる。
檜垣は事務所の自分のデスクに駆け戻り、考え込んだ。
「今さら『今日は自分の式でした』なんて言えないよ…」
思わず泣きそうになり、両手で顔を覆った。
どんな想定外の出来事も、想定内に収めてきた。
「想定外過ぎる…あとはリモートくらいしかないじゃない…」
そんな時、スマートフォンが振動した。メッセージを確認すると、海外へ移住している妹からだった。
[姉ちゃん、結婚おめでとうなのだ。式には行けないって言ったけど、実はサプライズで来たのだ]
笑顔のスタンプ付きで送られてきた。
「妹よ…姉はそこには行けないのだ…」
檜垣は俯いたまま、泣きそうな声でつぶやいた。
「サプライズで来た…??」
ふいに顔を上げ、スマートフォンを手に取る。
相手は妹だった。
「もしもし〜おめでと〜」
妹が電話に出た。
「瞳、今どこ!」
瞳は妹の名前だ。
「え〜、今タクシーだよ〜。空港からホテルに向かってるのだー」
妹は、いつも力の抜けた話し方をする。以前より、少し声がハスキーに聞こえた。
「瞳、お願いがあるの…」
「な〜に〜」
檜垣は事情を話した。
「マジ!?超ウケるんだけど〜」
電話の先で瞳は大笑いしている。
「笑い事じゃないわよ!人生の一大事なんだから…お願い、助けて」
檜垣が懇願している。
「良いよ〜面白そう。お父さんもお母さんも、あたしが来ること知らないもんね。ちょうど良かったじゃん」
妹の瞳は、幼少期から奔放過ぎる性格で、大学卒業後は誰にも相談せずに、海外へ渡ってしまった。
そんな妹を見てきた分、しっかりしなければと自らを厳しく律してきたのが、姉の純子だった。
二人は一卵性双生児であり、檜垣はそっくり入れ替わることを考えたのだった。
「でも…瞳に務まるかなぁ…」
檜垣が額を手でおさえた。
「大丈夫だよ任せなさいって。新郎って晴彦さんでしょ」
「それは前の彼…」
「じゃあ誰〜」
「亮さんよ」
妹に顔写真を送る。
「この人ね〜オッケ~」
「瞳、良い?あなたは今日、人生で最大の『花嫁役』を演じるの。台詞は全部私のインカム越しに送るから。あなたもイヤホンを耳に入れて」
瞳は中学高校と演劇部に所属していた。細かいことを気にしない為、台本を無視してアドリブで演じ、観客を大いに沸かせた経験がある。
「は〜い、任せておいてよ。人生すべて、アドリブよ」
電話越しに瞳の鼻歌が聴こえる。
「ちょっとやめてよ!彼は私のことを『完璧な女性』だと思ってるの。だから、絶対にガサツな真似はしないでよ。立っているときは背筋を伸ばし、だらしない姿勢はせずに…」
その時、事務所のドアが勢いよく開いた。
「檜垣さん! 総理の到着が五分早まりそうです! SPが配置の再確認を求めています!」
スタッフの声に、純子は一瞬で緊張感ある表情に戻った。耳に指を当てる。
左耳には、国家の式を支えるインカム。
右耳には、自分の結婚式を預けた妹の声。
「はい、すぐ行きます!」
ホテル地下駐車場に警護の覆面パトカーと、総理の乗るトヨタセンチュリーが入ってきた。SPが周囲を固めると、総理が後部座席から降りる。
総理をSPが取り囲み、それを檜垣が控室まで先導する。
「佐藤さん、エレベーター開けておいて」
「3階中田さん、控室確認」
檜垣は流れるように、各階に居るスタッフへインカムで指示する。
控室前にスタッフが待機し、ドアを開ける。
「お時間まで、こちらでお過ごしくださいませ」
檜垣は頭を下げ、控室を出た。この後、会場の最終確認に入る。
檜垣のイヤホンに、次々と議員到着の連絡が入る。
「アッハッハ、マジで〜」
突如、瞳の声が聞こえてきた。
「ちょっと、何してるの!?」
「着付けまで時間あるから、喫煙室で煙草吸ってるんだけど〜」
「やめてよ、あたしは煙草吸わないのよ!それに、髪に匂いがつくじゃない…」
檜垣は泣きそうになった。
「今さ、出席者の人と話してる。で、それでそれで…うわ、もう最悪〜?」
「最悪なのは私の気分だよ…」
檜垣の心が、音を立てて崩壊していくようだった。
「檜垣さん、よろしいですか?」
SPが話しかけてきた。間もなく披露宴開始の時間だ。
「はい!」
「檜垣さん、どうかされましたか?」
心配そうにSPが話しかけた。
「いえ、何でもありません、失礼しました」
総理の娘の式が行われている「芙蓉の間」の出入り口にはSPが立ち、部外者は立ち入れなくなっている。
檜垣は不要の間の隅に立ち、全体に目配せをしている。照明が落とされ、スポットライトが新郎新婦に当てられた。ケーキ入刀だ。一斉にフラッシュが焚かれる。
「照明戻してください、次は乾杯の音頭。木村幹事長にマイクを」
檜垣は淀みなく段取り、インカムで指示を出す。
幹事長による乾杯の音頭のあと、祝電の紹介、政調会長や財界幹部の挨拶が済み、歓談の時間となった。
檜垣が司会者とこの後の段取りを確認し、SPチーフの上原にインカムで伝える。
「30分後に和太鼓の演奏、その後お色直しが入ります」
「了解。檜垣さん、相変わらず段取りが完璧ですね」
SPチーフの上原が返す。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
瞳の声がイヤホンから聞こえた。檜垣は隅に走り、緊張して返答する。
「どうしたの!なにかあった?」
「亮さんマジでイケメ〜ン」
瞳はうっとりしたような声をだす。
「もう何よ…何かあったわけじゃないのね」
「さっき話したよ。なんかさぁ、超良い感じじゃん。医者でしょ〜」
檜垣の顔が青ざめる。
「話したの!?」
「当たり前じゃん。当日に会話しない新郎新婦がいる?それよりね、このあと親族同士で別室で挨拶だって」
「頼むからおかしなこと言わないでよ。あたしの言う通りに言ってくれれば良いからね。指示するから」
「は〜い」
「ところでさ、瞳ってそんなに声ハスキーだった?」
檜垣が訝しんで聞く。
「酒焼け〜。煙草もあるかも」
下戸な姉と、酒豪の妹。
「風邪気味って事にしておけば大丈夫でしょ。あ、呼ばれたからいくね〜」
瞳はホテルスタッフの案内で、式が開かれる宴会場とは別の小部屋に移動した。互いの親族が一同に介した。
「お姉ちゃん…指示して」
瞳が小声でインカムに求めた。挨拶を檜垣が指示し、瞳がそれを話す。
ところが、途中でノイズが入り、檜垣の声が瞳に伝わらない。
「ふつつか者ではありますが…」
檜垣が言う。
ノイズが強くなり、瞳が必死に聞こうとする。
「ふ……ふ……」
「ふしだら者ではありますが…」
一瞬、空気が凍りつく。
その後すぐにざわついた。瞳の母は父に倒れ込み、亮は驚いて目を丸くしている。
檜垣は膝から崩れ落ちた。
「何言ってんのよもう…」
親族は凍りついている者、笑いをこらえて震えている者、それぞれだった。
「亮さんと手を取り合って…」
瞳は構わずアドリブで続けている。
「良い奥さんになります!」
「檜垣さん、取れますか」
右のイヤホンに、SPの上原から連絡が入る。林山という重鎮議員が、カラオケを歌わせろと騒いでいるという。檜垣が駆けつける。林山はすでに酔っていた。
「私はな、『永田町カラオケ部』の会長だぞ」
カラオケは予定外だが、檜垣が総理の承諾を得て許可した。ところが、酷く下品な歌詞の曲で、さらに他派閥の政治スキャンダルに替え歌し、歌い始めた。
ネタにされた派閥の議員たちが、次第に
立ち上がり、舞台に向かって文句を言い始めた。
「おい、冗談になってないぞ!」
「うちの派閥に喧嘩売ってるのか!」
悪い兆候を感じた檜垣は、スタッフへインカムで指示を出す。
「マイクのボリュームを下げて! スタッフ、焼きたてのパンとドリンクを全テーブルに急配! シェフはローストビーフのカットを今すぐ回して!」
スタッフが素早く動き、歌声はBGM程度に落ちた。香ばしいパンの匂いと肉のジュージューという音が会場を包む。
客たちの意識が料理に移り、ざわめきが徐々に収まっていく。
「檜垣さん、お見事」
SPチーフの上原から感嘆の声が届いた。
「毎度のことです」
純子は笑顔で返したが、その声はかすかに震えていた。
左耳では国家レベルのプレッシャー。右耳では妹のゆるい声。完璧でいなければいけない自分が、今日だけは完全にコントロールを失いつつある。




