第1章:記憶喪失で目覚めたら不遇職【木こり】だった件。でも規格外の筋力でモンスターを粉砕できるんですが? ~エリアボスを斧で圧倒し、超希少クラス【魔物使い】を無自覚に解放する~
最初の呼吸は、まるで肺が空気の吸い方を忘れてしまったかのような、耳障りな喘鳴だった。
男は勢いよく目を見開き、頭がクラクラするほどの猛烈な勢いで上体を起こした。
気づけば、ずぶ濡れの松葉のベッドの上に座り込んでいた。薄着の肌を、山特有の刺すような冷気が噛みちぎる。
ハンマーで叩かれたようにズキズキと痛むこめかみに手を当て、周囲を囲む鬱蒼とした植物に焦点を合わせようとした。
(――ここは、どこだ?)
次の思考を形にしようと試みる。
自分の名前。知り合いの顔。自分の家。……何もない。
心の中は暗い深淵であり、自問自答のこだまが虚無へと消えていく空っぽの部屋だった。
胸の奥からパニックが込み上げ、冷たい結び目が喉を締め付ける。
男は自分の両手を見下ろした。石のように硬いタコに覆われた、巨大な手。自分のものだという認識すら湧かなかった。
絶望に完全に支配される直前、風の音とは違う重い「ガサッ」という足音が、森の静寂を打ち砕いた。
数メートル先の若木が、鈍い音を立ててへし折れる。
下生えの中から、異形の化け物が姿を現した。
身長は2メートルを超え、異常に肥大化した筋肉と硬い剛毛の塊が、その醜悪な豚のような顔面をさらに歪ませている。
よだれを垂らす口からは砕けた象牙色の牙が突き出し、血走った小さな瞳には、原始的な飢えだけが宿っていた。
だが、男が自身の正気を最も疑ったのは、獣の頭蓋骨の真上に、空中に浮かび上がる赤く発光する文字だった。
【ボアマン・ブルーザー(猪人の暴漢)】
男はまばたきをした。その光の文字を脳が処理しきれない。
しかし、化け物は彼に理解する時間など与えなかった。
胸郭を震わせるような鳴き声を上げ、粗削りな丸太の重い棍棒を振り上げると、湿った土の塊を蹴り立てて突進してきたのだ。
生存本能がすべての疑問を黙らせた。男はきびすを返し、全力で走り出した。
背後で地面を揺らす重い足音が、確実に近づいてくる。
男の呼吸は肺の中でヒューヒューと鳴り、アドレナリンが血管を駆け巡って寒さをかき消した。
石灰岩の岩肌の間に、タールのように黒く広い洞窟の裂け目を見つけた。男は躊躇することなく、その中に飛び込んだ。
敷居を跨いだ瞬間、半透明の青い閃光が目の前で弾け、一瞬だけ視界を奪われた。
≪警告:『山の迷宮』に進入しました≫
彼は鬱陶しい羽虫でも追い払うかのように、絶望的な手の振りでその光る文字を払い除け、暗闇の奥深くへと進んでいった。
やがて化け物の鼻息は遠いこだまとなり、完全に消え去った。
男はつまづき、湿った壁に激しくぶつかった。息を切らしながら、ずるずると地面に座り込む。
暗闇が彼を包み込んだが、心臓の狂ったような鼓動だけが洞窟中に響き渡っているように感じられた。
(――一体なんだっていうんだ? さっきの文字はなんだ?)
安堵の時間は、瞬きの一瞬すら続かなかった。
剥き出しの岩肌を骨が擦る音が、暗闇に反響する。男は身を強張らせた。
影の中から、4つのグロテスクな姿がゆっくりと現れた。
それは人間の白骨死体だったが、不気味なほど滑らかに動いていた。空っぽの頭蓋骨の上には、青いインジケーターが光っている。
【アニメイテッド・スケルトン(動く骸骨)】
逃げ場を失い、男は壁に背を押し付けた。先頭の骸骨が、喉笛を引き裂こうと骨の指を伸ばして飛びかかってくる。
追い詰められた男は、唯一持っている武器――「捨て身の覚悟」で反撃に出た。
目を閉じ、両足を地面に踏ん張り、恐怖に駆られた全身の体重を乗せて右フックを放つ。
骨に当たって自分の拳が砕ける痛みを覚悟していた。
しかし、衝突が引き起こしたのは、鈍い轟音だった。
目を開けた彼の視界に飛び込んできたのは、アンデッドの頭蓋骨が骨の粉塵となって爆散する光景だった。
その首の切断はあまりにも暴力的で、残りの胴体は後方へ吹き飛び、岩壁に激突して動かない瓦礫の山と化した。
男は無傷の自分の拳を見た。目を見開く。
記憶がなくても、彼の精神の一部は理解していた。
この不自然で壊滅的な物理的筋力が、人間の生物学的な限界を遥かに超えていることを。
驚嘆している暇はなかった。残りの3体の骸骨が襲いかかってくる。
今度は、男は目を閉じなかった。自分でも知らなかった異常な敏捷性に導かれ、爪の攻撃をかわすと、2体目の骸骨の腕を掴み、枯れ枝を折るのと同じくらい簡単に、関節から引きちぎった。
未熟だがかつてない威力を誇る2つの重い一撃で、残る襲撃者たちも粉砕した。
彼は息を切らしながら、粉塵の墓場の中央に立ち尽くした。
(――俺の体に、一体何が起きているんだ?)
その時、鈍い轟音が洞窟を揺らした。振り向くと、入り口の重い石格子が崩れ落ち、彼を完全に閉じ込めてしまっていた。
罠に落ちたのだ。
円形の壁に沿って掘られた窪みから、新たな化け物の群れが這い出し始めた。
小柄で、緑色の肌を持ち、錆びた短剣で武装して歯を剥き出しにしている。
頭上には 【ケイブ・ゴブリン(洞窟の小鬼)】 の文字が光っていた。その数は数十に及んだ。
男は両脇で拳を握りしめた。武器が欲しい。この波を食い止めるための、何か重いものが欲しいという本能的な欲求を感じた。
両手が空中でピクピクと動き、論理を超越した無条件反射のように、黄金の砂が掌に凝縮し始めた。
分厚い木の柄と、恐ろしい刃を持つ巨大な『斧』が、魔法のように彼の手の中に実体化した。
その重量、木の粗い質感を肌で感じた瞬間、彼はもはや自分が「獲物」であるとは感じなくなった。
その瞬間、黄金のインターフェースが洞窟内を照らし出し、迫り来る魔物たちを一瞬覆い隠した。
≪システムハブ起動≫
【転生通知】: 歓迎します。あなたは過去の存在のパラメータに基づいて転生しました。前世において、森で絶え間なく働き続けた実績を評価し、最初の正式クラスとして 【木こり(ランバージャック)】 を割り当てます。
男はその言葉を二度読んだ。
記憶のない脳裏に、不条理かつ反論不可能な真実が突き刺さり、全身の血が凍りついた。
自分は死んだのだ。そして今、数学的で冷酷なルールに支配された世界にいる。
ゴブリンたちが金切り声を上げ、襲撃を開始した。
男は斧を獰猛に握りしめた。混乱と恐怖は溶け去り、代わりに説明のつかない、致命的な熟練の技が全身に満ちていく。
彼は群れのど真ん中へと身を投じた。この新たな地獄のルールを、斧を振るうごとに見つけ出すために。
緑色の爪の波が彼に押し寄せる。男は一歩も引かなかった。
足をしっかりと踏ん張り、斧を水平に大きく振り抜いた。
彼の動きに剣術の型はない。騎士のような優雅さもない。
あるのは、数え切れないほどの巨大な木々を切り倒してきた者の、残忍で容赦のない正確さだけだった。
刃は凄まじい風切り音を立てて空気を裂き、まるで枯れ枝を払うようにゴブリンの体を両断していく。黒い血が石灰岩を染める。
一撃一撃が雷鳴のようだった。彼は敵を解体し、粉砕した。健忘症に包まれた意識ではまだ理解しきれていない、その肉体に刻み込まれた「マッスルメモリー(筋肉の記憶)」に導かれながら。
数分のうちに、虐殺は終わった。
彼の荒い息遣いだけが響く非現実的な静寂の中、洞窟の奥の壁が崩れ落ち、通路が現れた。
血でベタつく木の柄を握りしめたまま奥へ進むと、巨大な円形の部屋に出た。
暗闇の中、視界を埋め尽くす不穏な真紅のアラームが点滅した。
≪警告:エリアボス遭遇 ―― 【リザードマン・アサシン(蜥蜴人の暗殺者)】≫
最後の単語に焦点を合わせる暇すらなかった。天井から影が剥がれ落ちる。
分厚い緑色の鱗に覆われ、2本の湾曲した短剣で武装した人型の化け物が、彼の上へ降ってきた。
激突は凄惨だった。
リザードマンは電光石火の速さで、空気を切り裂くような連続斬りを放つ致命的な捕食者だった。男は後退を余儀なくされ、腕にいくつかの浅い掠り傷を負う。
だが、爬虫類が致命的なスピードを持っているとすれば、木こりの力は圧倒的だった。
純粋な生存本能が弾き出すタイミングで、男は重い斧の柄を攻撃ではなく、敵の突進を受け止め、逸らすために使った。
バランスを崩した隙を突き、鱗に覆われた胸に強烈な前蹴りを叩き込む。ハイブリッドの化け物を武装解除し、息を詰まらせた。
怪物が体勢を立て直す前に、男はその上に馬乗りになり、己の体重で地面に縫い付けた。
斧を振り上げ、トドメの一撃を放つ準備をする。筋肉は極限まで張り詰めた。
だが――刃は鱗に覆われた首の1ミリ手前でピタリと止まった。
血を流し、胸を激しく上下させるリザードマンは、恐怖で縦長の瞳孔を開き、床に縮こまっていた。
武器はすでに手放している。それは疑いようのない、哀れで無条件の降伏のサインだった。
男は躊躇した。
この暴力の螺旋に慣れつつあるとはいえ、命乞いをする知的な生物を虐殺することは……「間違っている」と彼の心が告げていた。
自分が誰だったかは思い出せないが、自分が冷酷な処刑人ではないことだけは、本能が理解していた。
その躊躇と慈悲の1ミリ秒の間に、システムが再び介入した。
今度は血の赤でも、アラームの青でもない。温かく、黄金の光が部屋を満たした。
≪隠し条件達成≫
獣と密接に関わって過ごした前世の生き様、そして処刑という手段に頼らずエリアボスを完全制圧したことにより、システムの異常が解放されました。
▶ 希少なサブクラスをアンロック:【魔物使い(モンスターテイマー)】
光が恐怖に震える爬虫類を包み込み、最後の通知が空中に浮かび上がった。
≪テイム契約:アクティブ ―― 蜥蜴人のハイブリッドを従属させました≫
神秘的な絆は瞬時に結ばれ、怪物は新たな絶対的捕食者に服従した。
爬虫類は震えを止め、鱗に覆われた頭を深く下げた。
男は斧を下ろし、ゆっくりと立ち上がった。
ハイブリッドの化け物は彼の隣に立ち、無言のまま、鱗に覆われた影のように彼に従う。
その爬虫類の目にはもはや敵意の欠片もなく、あるのは冷たく計算された忠誠心だけだった。
ボスを従えたことで、部屋の奥にある重い石の扉が鈍い轟音とともに開き、太陽の光が差し込んできた。
男は敷居を跨ぎ、ダンジョンの暗闇を背後に残した。
澄み切った山の空気が顔を打ち、松脂と湿った土のツンとした香りを運んでくる。彼は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
(――ゴラン)
その名前が、唐突に脳裏に浮かび上がった。
それが本当に自分の名前なのか、それとも健忘症から唯一生き残った記憶の欠片なのかはわからない。だが、彼はその名にすがることに決めた。
ゴランは再び目を開け、谷の眼下を見下ろした。
遠く、山の稜線の向こう側に、広大なファンタジー世界の巨大都市のシルエットが地平線に浮かび上がっていた。
斧の柄を強く握りしめる。掌に伝わる粗い木の感触。肌を刺す冷気。
これは夢ではない。すべてが劇的に、そして危険なほど現実だった。
彼は傍らに立つ魔物をちらりと見やり、再び谷底の未知の文明へと視線を戻した。
「しばらくはここに留まる方がよさそうだな」
ゴランはつぶやいた。彼の深く、しゃがれた声が山の静寂を破る。
「少なくとも、この世界がどういう仕組みで回っているのか、完全に理解するまでは」
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