第37話
大広間の重い樫の扉が荒々しく開かれ、革鎧の擦れる鋭い音が静寂を切り裂いた。
国境尾根から馬を飛ばして戻ったヴィクターが、泥に塗れた砂塵を払う間も惜しんで大股に進み出てくる。その双眸には、いつにない険しさが宿っていた。彼は卓上に広げられた広域地図の縁を乱暴に押さえ、黒い墨で引かれた稜線の先へ無骨な指を突き立てた。
「敵先遣隊の規模はおよそ三千。魔導装甲車列が十数両、規則正しい陣形で山道を切り開きつつ南下しています。進軍速度は通常の輜重部隊の倍。明後日の正午には、この平原の縁へ到達する見込みです」
吐き出された具体的な日時に、広間を満たしていた空気が一段と張り詰めた。
上座に座る領主バルド様が、白髪交じりの髭を撫でながら低く唸る。先の体調不良から快復し、昨日ようやく政務に復帰されたばかりの老領主だが、その双眸には歴戦の鋭い光が宿っていた。
「明後日の正午か。旧王国の中央は大結界の瓦解と魔獣の対処で自壊寸前、救援など万が一にも期待できん。……アリア、昨日お主が皆を集め、この都市自らの力で三千を迎え撃つと決めた覚悟、決して見事な空言ではなかったな」
「はい、父上」
アリアが一歩前へ踏み出し、凛とした声音で頷いた。昨日の軍議で自治防衛の道を選び取った彼女の横顔に、一切の迷いはない。
「すでに商人や避難民への備蓄配給を整え、迎撃に向けた連携を進めております。旧王国の庇護が完全に断たれた今、私たちは誰一人見捨てることなく、自らの足でこの地を守り抜きます」
腕を組んでいたダルクも、革手袋の掌をぎしりと鳴らしながら言葉を継いだ。
「方針は昨日のうちに腹を括りやした。だが問題は残り二日の猶予でどう迎え撃つかだ。十倍の正規軍を相手に平原へ打って出る愚は犯さねえとしても、相手の進軍速度が想定より遥かに速い。城壁に籠もるだけじゃ、いずれじり貧だぞ」
歴戦の戦士らしい現実的な指摘に、大広間の緊張がさらに一段階引き上げられる。バルド様は娘の揺るぎない覚悟とダルクの懸念を見届け、豪快に頷いて机を拳で叩いた。
「うむ。守るべき領民を前に、領主たる我が退く理由など微塵もない。敵の到達まで猶予は四十刻足らず。ただちに作戦室へ移り、具体的な迎撃陣を定めるぞ」
娘の決断を領主として全面的に承認し、背中を押す力強い宣言だった。
場所を作戦室へと移し、俺たちは円卓を囲んだ。
卓上には、先ほどヴィクターが持ち帰った報告書に加え、捕縛した工作員ミロシュから押収した暗号記録の複写を展開している。羊皮紙の上に青い光を帯びた魔力インクが文字を浮かび上がらせていた。
「ミロシュの記録を精査した結果、敵の主目的が二点に絞られました」
俺は指先で盤上の二箇所を指し示した。
「一つは、外郭農地で変異・繁殖している高純度魔力草の栽培技術とその独占。もう一つは、短期間で拡張されたこの強固な要塞都市の無傷での接収です。つまり敵は、街を灰燼に帰すつもりはありません。都市基盤を保ったまま、我々を屈服させ、支配下に置く腹積もりです」
「なるほどな。奪ってそのまま自国の前哨基地にする気か」
ダルクが顎を撫でながら地図を覗き込む。
「だが、無傷で奪う気だとしても手加減するわけじゃねえ。食糧と水の備蓄は数ヶ月分あるが、向こうの魔導装甲車列には攻城用の術式投射機が積まれているはずだ。あれで防壁の外郭を一斉砲撃されたら、いくら石を積んだ城壁でも保ちこたえられんぞ」
「その点については、対策を組み込んであります」
俺は懐から、羊皮紙に引き直した新たな結界路の配置図を取り出し、地図の上に重ねた。
「都市の守りを城壁の内側だけで完結させる必要はありません。第二外郭の基礎工事に合わせて、外縁平原の地下十数箇所に魔力伝導杭を埋め込んであります。これらを起点とし、平原全体を覆う多層構造の衝撃分散結界を展開します」
図面の上で、青い線が幾何学模様を描きながら街の外へと広がっていく。
「先日ノアと確認した通り、斉射による衝撃は結界路を通じて都市水路網へ逃がし、自生する魔力草に吸収させます。三千の火力を正面から受け止める必要は最初からありません。平原の杭を中継地点とすることで、敵の攻城砲撃を街の手前で無力化します」
都市基盤の整備の一環として敷設していた仕掛けが、そのまま防衛の盾へと転化する。
「……結界を平原まで張り出し、敵の砲撃を街の用水路で呑み込むというのか」
ヴィクターが驚嘆の混じった掠れ声で呟いた。王都の硬直した防御思想に縛られていた彼にとって、結界を能動的な環境装置として運用する発想は未知の領域なのだろう。
バルド様が腕を組み、鋭い視線を俺に向けた。
「レオン殿。お主の描く迎撃陣は、机上の空論ではなく実際に動かせるのだな?」
「ええ。ノアと共に基幹魔導盤の数値調整は既に終えています。物理的な迎撃部隊の配置と連動させれば、三千の正規軍であっても都市への侵入は防げます」
俺が淡々と事実を告げると、バルド様は深く頷き、立ち上がった。
「アリアがお主に防衛の指揮を委ねた判断、誠に正しかったと確信した。これより、本都市における全兵力、全防衛資材の運用指揮権を、全権防衛責任者としてレオン殿に一任する。ダルク、ヴィクター、防衛隊の全軍にレオン殿の指示へ従うよう通達を出せ。我が娘アリアも、後方支援と民の統率において全面的にお主を補佐させる」
「はっ」
二人の武人が迷いなく背筋を伸ばし、敬礼を返した。
かつて王都の宮廷魔術師団では、結界の修復記録をどれほど提出しても「雑用係の落書き」と切り捨てられ、誰一人として耳を傾けようとはしなかった。だがここでは、差し出した設計図の真価を誰もが正しく見極め、全幅の信頼と共に都市の命運を預けてくれる。
理不尽な搾取に耐えていた過去の冷えた記憶が、心地よい緊張感へと塗り替えられていくのを感じていた。
「任せていただいた以上、防衛網に綻びは出させません」
俺は短く応え、作戦室を後にした。
午後の陽光が白く照りつける中、俺は第二外郭の中央指令塔へと登った。
石造りの塔の最上階には、都市全域の地脈と結界杭の接続状況を監視する巨大な円形魔導盤が設置されている。盤面には無数の青い光点が規則正しい脈動を刻んでいた。
「レオン様、南西区画の水路伝導杭、三番から六番までの同調率が規定値に達しました。魔力草の循環速度も安定しています」
作業服の袖を捲り上げたノアが、額の汗を拭いながら手元の記録板を掲げてきた。王都にいた頃の怯えた面影は消え、今では頼もしい助手として的確に動いている。
「ご苦労。次は外郭第二水門の圧力逃がし弁だ。過剰な負荷が流れた際、逆流しないよう圧力を逃がす設定にしておいてくれ」
「了解しました!」
ノアが駆け出していくのと入れ違いに、階段から軽やかな足音が響き、アリアが姿を現した。
「レオン、街区の状況を確認してきました」
彼女は呼吸を整えながら、指令塔の欄干越しに広がる街並みを見下ろした。
「広場に集まった避難民の方々や商人組合へ、敵軍の接近と防衛方針を伝えました。誰一人として暴動を起こす者はおらず、自警団の補給支援や炊き出しの準備へ自発的に回ってくださっています。『レオン様が張ってくださった結界があるのだから、私たちは私たちの役目を果たそう』と」
「……そうか」
俺は遠く、防壁の向こうに広がる街道を見つめた。搾取と侮蔑にまみれた王都を去り、この地に腰を据えてから築いてきたものが、確かに人々の心に根を張っている。
その信頼を裏切るわけにはいかない。
だが、感傷に浸る時間は長くは続かなかった。
「レオン様! 遠隔感知盤に異常な反応があります!」
水門の調整を終えて戻ってきたノアが、操作卓の水晶球を指差して鋭い声を上げた。
水晶球の表面に乱れ走る光の筋が走り、平原の彼方、国境山脈の裾野から進軍してくる敵先遣隊の姿がぼんやりと空中に投影される。
先頭を行く装甲馬車の列。その中央に掲げられているのは、隣国の正式な国旗ではなかった。
黒銀の布地に、複雑な幾何学模様と歪んだ鍵爪が刺繍された、異様な紋章旗。
「あの旗……隣国の正規軍章とは異なりますね」
アリアが眉をひそめて呟く。
俺はその意匠を検分し、かすかに目を細めた。
「旧王国時代、国境紛争の記録で見た覚えがある。敵の正規軍の中でも、攻城戦術と術式破壊のみを専門とする特科独立部隊の紋章だ。率いているのは、冷酷な合理主義で知られる攻城術式士のはずだ」
ただ数を頼みに押し寄せてくるだけの軍勢ではない。防壁や結界の構造を暴き、解体することに特化した専門家が指揮を執っている。
その時、卓上に置かれていた国境監視所直通の通信札が、ジジッ……と嫌な音を立てて激しく明滅を始めた。
受信盤に浮かび上がった緊急暗号を読み取ったノアが、息を呑んで顔色を変える。
「なっ……敵の進軍路が、変わりました!」
「何だと?」
「正面の街道を直進してくるはずだった車列が、手前の窪地で二手に分かれました! 本隊は平原を迂回し、第二外郭の未完成区画……防壁の工事が遅れている北西の死角へ向けて、変則的な包囲陣を敷き始めています!」
投射された感知図の上で、黒い光点の群れが蜘蛛の足のように裂け、要塞都市の弱点めがけて急速に回り込んでいくのが見えた。
敵の指揮官は、こちらの防衛網の隙間を、初手から正確に把握している。




