第30話
朝の柔らかな日差しが、石造りの頑丈な城壁を白く照らし出していた。
要塞都市として生まれ変わったこの街の正門前には、すっかり見慣れなくなった豪奢な外套を羽織った男が、泥にまみれた膝をついていた。王都の官吏だ。供の兵たちも疲労困憊の体で項垂れている。
「頼む、レオン殿……! どうか王都へ戻り、防壁を再建していただきたい! ガイウス前団長はすでに地下牢へ投獄され、全権は貴殿に委ねられる手筈になっているのだ!」
男の悲痛な叫び声が、乾いた風に乗って広場に響く。
王都を何百年も守り続けていた大結界は、日々の修復を失ったことでついに限界を迎え、完全に崩壊した。防壁を失った王都へ押し寄せた魔物の群れにより、かつての栄華を誇った街は壊滅的な打撃を受けたのだという。
ガイウスは結界の崩壊直前、砕け散りかけた要石に残されていた膨大な記録を目の当たりにし、ようやく事の重大さに気づいたらしい。そこには、俺が毎晩どれほどの魔力を注ぎ込み、どんな複雑な術式で亀裂を塞ぎ続けていたのか、克明な記録が残されていたからだ。
だが、すべては遅すぎた。
「規定通り、引き継ぎは済ませたはずだ」
俺は門の上に立ち、足元で懇願する使者を見下ろしながら、感情を交えずに告げた。
「俺は退職の際、要石の管理手順も術式の概要もすべて書類に残した。それを読まずにゴミとして破棄したのは、あんたたちの上層部だ。契約はとっくに終了している」
「そ、そんなことを言わずに! 国が、民が滅びかけているのだぞ!?」
使者がすがるように両手を伸ばす。だが、その声を遮るように、俺の隣に進み出たミリアが冷ややかな視線を投げかけた。
「都合のいい時だけ泣きつくのは見苦しいですね。レオン様の功績を無能と嘲笑い、体よく追い出したのはどこの誰でしたか? これ以上の無礼を重ねるなら、不法侵入者として排除いたします」
ミリアが指先で短剣の柄を弾くと、金属の硬質な音が小さく鳴った。使者は息を呑み、怯えたように後ずさりする。
「お引き取りを。この要塞都市に、あんたたちにくれてやる結界はありません」
俺がそう言い切ると、使者は絶望に顔を歪め、ふらつく足取りで街道の向こうへと去っていった。
王都との因縁は、これで完全に終わりだ。誰が何を言おうと、あの冷遇と搾取の日々へ戻る気は欠片もなかった。
城壁を降りた俺は、街の南側に広がる農地へと足を運んだ。
区画整理された畑には、瑞々しい青葉をつけた魔力草が一面に群生している。辺境の土壌に適応したこの植物は、微細な魔力を吸収して蓄える性質があり、俺が展開する生活結界の触媒として理想的な働きをしてくれていた。
土の感触を確かめながら葉の生育具合を見ていると、背後から小走りに近づいてくる足音が聞こえた。
「レオン先輩! 水路の循環結界、測定値の記録が終わりました!」
抱えた羊皮紙を大事そうに押さえながら現れたのはノアだ。宮廷魔術師団の制服を脱ぎ捨て、動きやすい革の作業着を着た彼は、以前のような怯えた表情をすっかり消し去っていた。
「ご苦労。数値に乱れはなかったか?」
「はい! 先輩が設計された術式のおかげで、川から引き込んだ水が常に清浄に保たれています。畑の隅々まで均等に魔力が循環していて、異常値は一つもありませんでした」
ノアは興奮気味に羊皮紙を広げて見せる。そこには几帳面な文字で術式の波形が細かく書き込まれていた。
「上出来だ。これなら来週の拡張工事も予定通り進められるな」
「ありがとうございます! あの……僕、もっと先輩の術式構造を勉強したいです。王都にいた頃は、こんなに美しくて精密な魔術があるなんて知らなくて……」
真っ直ぐな目でそう語るノアに、俺は軽く頷いた。
「慌てる必要はない。基礎から順番に覚えていけばいい」
「はい!」
ノアが明るく返事をした時、遠くから野太い笑い声が響いてきた。
「おーい、レオンの旦那! ノアの坊主もいるじゃねえか!」
肩に大きな木材を担いだカシムが、豪快に手を振りながら歩いてくる。手ぬぐいで額の汗を拭った彼は、畑の脇に木材をどかりと下ろした。
「西地区の集会場、骨組みが組み上がったぜ! 旦那が張ってくれた耐震結界の杭とぴったり噛み合って、ビクともしねえ頑丈さだ。俺の大工人生の中でも一番の傑作になるぞ!」
「カシムの腕がいいからだ。あの木組みの精度がなければ、結界の力を効率よく伝えることはできない」
「へへっ、旦那にそう言ってもらえると職人冥利に尽きるぜ! 今夜の宴会、楽しみにしててくれよな。大盤振る舞いするって領主様も張り切ってたからよ!」
「じゃあな、夜にな!」
カシムは白い歯を見せて笑い、太い角材を軽々と担ぎ直して現場へ戻っていった。
風が吹き抜け、青々とした魔力草がざわめく。
かつて王都の薄暗い執務室で、終わりのない作業に追われていた頃には想像もできなかった景色が、ここにはあった。自分の仕事が誰かの生活を支え、正当に評価され、感謝される。ただそれだけのことが、どれほど得難く尊いものか。
土の匂いを含んだ空気を吸い込みながら、俺は静かに歩き出した。
夜になると、領主邸の大広間は温かな熱気に包まれていた。
長い木製テーブルの上には、獲れたての野禽のローストや採れたての野菜を使った煮込み料理、香ばしく焼き上げられたパンが所狭しと並べられている。
「さあ、皆さん! 今夜は要塞都市の防衛網完成と、我らの街の新たな門出を祝う宴です! 遠慮なく飲んで食べてください!」
バルド領主が豪快に杯を掲げると、集まった職人や防衛隊員たちから大きな歓声が上がった。
「レオン、お疲れではありませんか?」
隣に腰を下ろしたアリアが、硝子瓶から俺の杯へと果実酒を注いでくれる。亜麻色の髪を緩く結った彼女は、華やかな笑みを浮かべていた。
「いや、心地いい疲労感だ。街の結界網も完全に安定している」
「ふふ、あなたがそう言ってくださると、本当に安心します。……見てください、みんなの顔を」
アリアが視線を向けた先では、カシムが大皿の肉料理をノアの皿に無理やり山盛りにし、ノアが困ったように慌てふためいていた。その様子を少し離れた場所から見ていたミリアが、呆れたように小さく肩をすくめている。
「この街がこんなにも笑顔で溢れているのは、あなたが来てくれたからです。私たちの命を救い、生きる場所を守ってくれた」
アリアは穏やかな声で、真っ直ぐに俺を見つめた。
「私たちは、あなたの技術と献身を決して軽んじたりしません。ここは、あなたがあなたらしく誇りを持って生きられる場所です。……これからも、ずっと一緒にいてくれますね?」
その言葉には、一切の打算も偽りもなかった。
王都で失ったはずの尊厳や居場所が、この辺境の地に確かに根を下ろしている。
「ああ。ここが俺の居場所だ。どこへ行く気もないよ」
俺が短く答えると、アリアは花がほころぶような笑みを浮かべた。
「よかった……! さあ、レオン、もっとたくさん召し上がってくださいね。ミリアが腕によりをかけて作った特製のパイもありますから」
「レオン様、こちらのお肉も焼き立てでございます。遠慮なさらずどうぞ」
ミリアが静かに皿を差し出し、ノアも「先輩、このスープもすごく美味しいですよ!」と身を乗り出してくる。
騒がしくも温かい仲間たちの声が、大広間に満ちていた。
王都を追放されたあの日、自分がどこへ行き着くのかなど考えてもいなかった。理不尽に職を奪われ、すべてを捨てて歩き出したはずの道は、いつの間にか最高の仲間と出会うための道へと繋がっていたのだ。
――まあいいか。
過去の鬱屈も、失われた時間も、すべてはこの瞬間に辿り着くためのものだったと思えば、悪くはない。
俺は満ち足りた思いを胸に、仲間たちの笑い声に包まれながら、静かに杯を傾けた。




