第50話 見つめた先には
「お前は俺の命令に二度も逆らった。……二度もだ! ……もう、これは拷問じゃない。ただお前を痛ぶるための、単なる作業だ」
ノスタルはシロを殴り、蹴り、剥ぎ、斬り、叩き打ちつけ裂いた。
その度に変な音と共に何かが飛び散る。
不快な感覚が何度も何度も繰り返される。
多分痛い感覚、何かがついて風を感じられなくなる感覚、息苦しい感覚。
だが、この状況を脱する気力も、ましてや考えも湧かない。
シロは諦めた。
ノスタルはもう一歩踏み出した。
それは強く、シロは音を聞いただけで身体がビクッと動いてしまう。
そして、右手を驚愕すべき速度でシロの目に入れ込んだ。
「あ……あ”ぁッ! 待って! そこはやめ——!」
——ブジュ。
そんな音が聞こえるとともに、右側の視界が見えなくなった。
目の上から赤いのが垂れ流れている。
瞼が異様に重い。
何も考えたくなかった。
でも、ここで閉じたらクハパリが危ない。
とても眠い。
そして、熱くて寒いのだ。
特に首筋が。
熱くて寒いのだ。
ノスタルのシロに向ける目は人間に対してのモノではない。
それは人ならざる者を見る目だった。
ノスタルの目には闇が宿っていた。
対してシロの目には絶望があった。
勝てやしない絶望、逃げれば良かったという後悔の絶望、クハパリが逃げてくれない絶望。
相反する闇が、お互いに宿っていた。
シロは一向に口を慎む。
それを見かねたノスタルは痺れを切らした。
「あぁ……もういい。出来れば生かしておきたかったが——」
そう言いながらノスタルは体の向きを変えた。
(どこ向いてんだ……)
そんな事を考える気力もなかったかもしれない。
ただ、本能的にノスタルの視線の軌道をなぞる。
そこには彼女がいた。
「逃げ、ろ……クハパリっ……! 逃げぇろぉ! クハパリぃ!!」
絶望の中、希望に縋る思いでクハパリに手を伸ばす。
その思いも虚しく、シロの意識は覚束なくなっていく。
何とか意識を離すまいと抵抗するも、徐々に血流が衰えるのを感じる。
意識を手放しそうになる最中、シロが見たクハパリは、何かを見ていた。
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クハパリは何も聞こえていなかった。
そして、闇を泳いでいる。
そこは五感が機能しない。
平衡感覚が失われていた。
(ここはぁ……? 走馬灯、とかぁ……?)
どこだかわからなかった。
ただ、そこは心底安心できる場所だった。
ロードブルク兵から追われてから今日まで、一番求めていた場所だ。
だが、目を開ければ、この場所からいなくなってしまうような気がした。
この場所からいなくなれば、再び戦場へと巻き戻る。
クハパリがいるところに戦いがある。
前もそうだった。
クハパリがいる事で彼女自身も、仲間たちも、敵も、全員が殺し合うことになる。
クハパリのせいで。
そんな日常に疲れ切っていた。
「疲れた……疲れたんだよ、ディクト……」
クハパリは暗黒で呟く。
その呟きさえ、暗黒に飲み込まれ自分の耳には届かない。
(何もできないのに、何もしてないのに。疲れちゃった……)
《あぁ、お前は戦えない!》
(え……?)
いつも隣りにいた人の声が聞こえた。
さっき、シロが叱責したときの発言だった。
だが、これはクハパリにとっては、シロの言葉ではなかった。
これはクハパリの想い人——
「ディクト……? ディクトなのぉ!?」
彼の言葉だった。
「ごめんっ……ごめん、なさぃ……! 私が、弱いからぁっ!」
クハパリの胸のあたりで、残り続けていた蟠りが一気にほどけた。
目からは多量の涙が絶え間なく流れる。
呼吸が不規則に行われた。
どれほどこの日を待ち侘びたか。
ディクトに想いを告げることができる。
それでも、今のクハパリは素直に喜ぶことはできなかった。
顔はくしゃくしゃだろう。
鼻水を垂らし、髪の毛はボサボサだろう。
この空間で、自分に容姿があるのかさえ不明だったが、兎にも角にも、クハパリにはとても出来なかった。
「ディクト……私、私ね……」
何かを言おうとした。
だが、言うのを躊躇った。
ここにいるのはディクトではない。
ここには何もいない。
クハパリは分かっていた。
現に今、ディクトは何も言い返さない。
この何かに、返事ができる能力は備わっていないのだと、クハパリは見限った。
《過去を見ろ。そして——覚悟しろ》
声はディクトだった。
だが、口調がディクトではなかったのだ。
一瞬返事をしてくれたのだと思い歓喜した自分が、馬鹿らしく思えた。
だが、その瞬間、奇跡は浮かび出た。
《クハパリ、思い出すんだ》
「……!」
今まで心臓が動いていなかったかのように、急に鼓動が高鳴り始めた。
脈打つ心臓の音、身体がそれを感じ取る。
『嬉しい』なんて生優しい言葉で済ましていいほどの歓喜を感じ取ってはいない。
それはクハパリにとってのターニングポイントだったかもしれない。
それほどまでの、いやそれ以上の喜びがあった。
《メルマシンクでの出来事、コルヌスにされたこと。全部思い出して——》
ディクトは段々と声が薄れて掠れていく。
それは彼がここから喪失することを意味する。
クハパリはそのことが怖かった。
また再び離れ離れになってしまう。
「待って——! いやっ! いやだよぉ! 置いて、いかないでッ!」
クハパリは目を開けそうになる。
だが、ここで目を開けてしまったら、彼女自身もここから喪失してしまう。
直感がそう告げているのだ。
《目を開けて、受け入れて。『ガンバンディー』だろ?》
そして遂に、ディクトはこの世から存在を消した。
クハパリの涙腺は崩れた。
だが、それは希望だった。
彼が最後に残してくれた言葉。
それはディクトハンディ——彼に残した、クハパリの言葉だったからだ。
彼はクハパリの言葉を覚えていたのだ。
おかげで、何かが吹っ切れた。
クハパリが夢世界に戻れば、戦争が再び勃発する。
それを危惧してここに止まる。
(——そんなのは言い訳に過ぎないよね)
クハパリは頬をバシンと叩く。
その音も聞こえなければ、痛覚も失っていた。
だが、勇気は湧いた。
今までの考えは全部捨てよう。
ディクトが、シロが、守ってくれたように——私も守らなきゃ。
そのためには言われた通り、『過去と向き合う』。
クハパリは赤く、カサカサに乾いた目を開けた。
その瞬間、瞼の隙間から光が差し込んだ。
〜 第五十話 完 〜




