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甘い黄昏

 よい香りがした。

 きっと、卵料理の匂いだ。

 卵と砂糖まぜたにおい。それはなぜだか、とてもやさしく感じられる。

 白い、エプロンのにおいに似たやさしさ。淡く、ふんわりとして、そしてとても懐かしい。

 なにかと、つらいこと、悲しいことが多く生じるこの世界。この現実に傷ついて、泣きべそをかきながら帰ってきたぼくを、ふんわりと、笑顔で迎えてくれるような。

 お帰りなさい。もう、心配しなくていいから、ね。もう泣かないで。だいじょうぶ。だいじょうぶよ。今、おいしいものを作ってあげるから。

(ね。すぐに来ますから。もうちょっとのしんぼうですから)

 すでに夕方らしい。

 目を開けなくても空気でわかる。一日の、もろもろの営みを黄昏がつつみこむ、あきらめに似た、甘い空気。凛と張りつめた希望の朝よりも、あきらめの黄昏のほうが、ぼくには好もしく感じられる。

 夕方ということは、一日じゅう眠り続けたのだろうか。ピントのずれた旅行写真のスライドを映すように、一枚一枚、記憶の断片をたどってみる。美由紀の寝顔のアップ。汎用マグカップ。のたうちまわるぼく。ユキトの驚いた顔。スイカ畑の少女……ハッと目を開いた。

「あっ、ヨコマチさん。目が覚めたんですね!」

 鼻先三センチの至近距離に、牧村美由紀の喜ばしげな顔があった。

「わっ!」

 半身を起こそうとしたぼくの肩を、子供をあやすような手際のよさで、彼女は軽く押し戻した。

 西日がカーテンからこぼれ、壁に赤く映えている。卵料理のにおいは、消えずに残っている。あきらめに似た、甘い空気。

「だめですよ、急に起きたりしては」

「救急車は?」

 美由紀は小さな溜め息をついて、首をふった。頭の「ひらひら」が、ひらひら揺れた。このての服を彼女は何着も所持しており、エプロンとセットだから働くのに便利だと言い訳していたが、本当は自分が着たいのだろう。

 けれど卵料理のにおいと相まって、今は「このての服」が、みょうにノスタルジックに感じられる。

「呼びませんでした。代わりにマスターが、篠田先生の所へ駆けつけたんですよ。お腹はもう、痛みませんか?」

 痛み、だったのだろうか。あの洗濯機で内臓を掻き回されるような感触は。痛みの上空五万光年を飛び越えて、未知の反物質的エネルギーと第三種接近遭遇したような感じだった。強いて例えるならば、それは陣痛に似ていたかもしれない。むろん、現在過去未来、ぼくが陣痛を覚えることなんかあり得ないのだが。

「平気みたいだ」

「お粥作ってるんですけど。食べられそうですか」

 なかば無意識にお腹をさすると、ごろごろという音が返ってきた。あたかも彼女の質問に直接、返答したように。

「うん。むしろお腹が空いているくらいだ。飯にしましょう、ご主人」

「ご主人?」

「あ、いや……きみがそんな恰好をしているもので、つい……」

 自分の意志とは無関係に、変なセリフが口をついて出た。そんな感じがした。美由紀はけれど、寝ぼけているとでも思ったのだろう。まったく気にかける様子もなく、腕組みをして頬をふくらませた。

「まったくもう、びっくり仰天ですよ。『八つ墓村』の映画があるじゃないですか。寅さんが金田一耕助をやってる。あれの最初のシーンを思い出しましたよ」

 老人が青酸カリで毒殺されるシーンである。金田一といえば石坂浩二だった当時、渥美清が演じているのは、東宝の石坂版への、松竹の挑戦だった。あの田中邦衛すらザコキャラ扱いの、超豪華キャスト。気合の入りまくった映画である。

「そういえば、ほかの連中は何ともないのか」

「確認済みです。問題ないみたい。もう二日たちますから、だいじょうぶでしょう」

「二日も!?」

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