「なんぢゃこりゃあああああ!?」
ぴちゃん、ぴちゃっ。
水のしたたる音が聞こえていた。台所の蛇口がゆるんでいるのだろうか。
狂宴が果てたのは、十二時ごろだったか。
フォルスタッフから徒歩十秒の佐々木さんと酒乱娘以外は、静香が運転する伊丹青果店のバンで送ってもらったようだ。胡桃沢夏美は意外にも、電車で一駅という近場に住んでいた。
ぴちゃん、ぴちゃっ。ぴちゃん……
締めに行きたいのだけど、ひたすら瞼が重い。少々飲みすぎたのかもしれない。それにしても寒いな……どうやら体が半分、布団からはみ出ているようだ。なんだかさっきから、花の香りがするのは、なぜだろう。花を飾った覚えはないし、そもそも花瓶ひとつ持っていないのに。
ぴちゃっ。
とにかく布団の中心へ移動しよう。締めに行くのはそれからだと考えて、左側へ寝返りをうった。噎せるような花のにおい。ふぅわりと柔らかなものに行く手をはばまれた。
「……うん」
甘い声。とても温かい吐息を、まともにあびた。驚いた拍子に、右手がなにやら充実した、やわらかいものをつかんでいた。ゴム鞠をおもわせる、懐かしい感触。
錆びた鎧戸をこじ開けるように、ようやく重い瞼を開いた。なかばぼやけた視界を、牧村美由紀の寝顔が占めていた。
脳裏で、血染めの手をかざした松田優作が絶叫した。
乳房をつかんでいた手を慌てて引っ込めた。
軽い寝息。うっすらと、唇に浮かぶ笑み。
あとほんの数センチ顎をつき出せば、お互いの唇が触れあうだろう……とかなんとか考えている状況ではない。とにもかくにも現状を分析せねばなるまい。起きよクイーン。目覚めよヴァンス。コーヒータイムだよムッシュ・ポアロ。
「まず確認すべきことは」
緊急脳内会議が始まり、フィロ・ヴァンスがさっそく口を開いた。
「ここはヨコマチ亨の部屋か。さよう。なぜなら、これはヨコマチ亨の小汚い布団だからである」
小汚いは余計であるが、すらりと姿勢を正して、エラリー・クイーンがあとを継いだ。
「電気が消えておるのに、真っ暗ではない。牧村美由紀の表情がはっきりわかるのは、すでに夜が明けているからであろう」
なるほど耳をすませば、すでに商店街は目覚めている様子。挨拶を交わす声が聞こえ、バイクのエンジン音が通過する。いつもなら、そろそろぼくが布団に入る時刻だろう。体も温まってきたし、それほどいやな状況ではないし。うっとりと目を閉じかけたところで、ムッシュ・ポアロが、ばん! と脳下垂体を叩いた。
「問題はそこではありませんぞ! 率直に申し上げて、問題はこの一点に尽きるのではありますまいか。すなわち……」
やったのか?
ぼくは目を見開いた。
記憶の引き出しをかき回してみたが、まったく身に覚えがなかった。ゆうべは……お開きとなり、客が帰り、簡単に後片付けをするため、ユキトと美由紀が残り、ぼくは先に二階へ引き上げた。それから独りで布団に潜りこんだのではなかったか。
だいいち、お互いに裸ではない。美由紀にいたっては、ゆうべのメイド服のまま。頭のひらひらまで、しっかりつけている。
「いやいや、世の中にはそういった趣味もありま……」
ポアロ氏の発言を強制終了させて、ようやく一つの結論を得た。ぼくの部屋は常に鍵がかかっていないし、昨夜、美由紀はたいして酒に強くないのに、けっこう飲んでいたというか、佐々木ユキに飲まされていた。それで酔っ払って、帰る部屋を間違えたにちがいない。
……ぴちゃん、ぴちゃっ。
真相が知れると、急に咽の渇きをおぼえた。
そっと布団を抜け出し、なんとなく枕元に正座した。被害者はこっちなのに、何でぼくが気を遣わなくちゃいけないのか。叩き起こそうかとも考えたが、あまりにもばか丸出し、いや、やすらかな寝顔なので、それも忍びない。
ぼくは台所へ向かった。汎用マグカップに水を満たし、ひと息に飲みほした。
ばん、と、マグカップが流しにぶつかる音が響いた。次の瞬間、ぼくは床の上で、文字どおり七転八倒していた。




