第8話 月灯狐ポルカ
白い狐は、俺の腕の中で小さく震えていた。
ふわふわの毛並み。
丸い体。
月明かりを閉じ込めたような白い尻尾。
その先だけが、ぽうっと淡く光っている。
「ぽう……」
弱々しい鳴き声が、夜の墓地にこぼれた。
鳴いたのか、光が漏れたのか分からない。
けれど、その声を聞いた瞬間、俺はこの小さな生き物を置いていく選択肢を完全に失った。
「かなり弱っています」
俺は月灯狐を抱え直した。
黒蛾に囲まれていたせいか、毛並みのところどころに黒い粉のようなものが付着している。
夜霧の塊だ。
触れるだけで指先が冷える。
セラが周囲を警戒しながら、俺の手元を覗き込んだ。
「黒蛾に呪いを吸われかけていたのかもしれない」
「呪いを吸うんですか?」
「黒蛾は夜霧を運ぶ魔物よ。人や獣の体温、気力、灯りを少しずつ奪う。普通の小動物なら、とっくに死んでいるわ」
「この子は普通じゃないから耐えた」
「たぶん」
セラは白い狐の尻尾を見つめた。
「月灯狐は、昔話では月明かりを食べて生きる狐だと言われているの。黒森で迷った人を、村まで導いてくれるって」
ガルム爺が花を供え終えた墓の前から、ゆっくり立ち上がった。
「わしの妻が好きだった話だ」
「奥さんが?」
「ああ。夜道で迷った子どもの前に、尻尾の光る白い狐が現れる。その狐を追っていくと、家の灯りが見える。そういう話を、子どもらによくしていた」
ガルム爺は俺の腕の中の月灯狐を見て、目を細めた。
「まさか、本当におるとはな」
月灯狐は、ガルム爺の声に反応したのか、ほんの少し顔を上げた。
金色の瞳が、墓石の方を見る。
そして、小さく尻尾を揺らした。
月送りの灯が、ふわりと明るくなる。
まるで、亡くなった誰かへ挨拶をしているようだった。
「……この子も、墓地の灯りに呼ばれたのかもしれません」
俺が呟くと、セラが頷いた。
「月灯狐の毛を使ったから?」
「はい。ミリアのお父さんが残した毛束と、この子の光が似ています。もしかすると、昔この村の灯りは、月灯狐と関係があったのかもしれない」
「黒森の魔物が、この子を狙っていた理由もそこかしら」
セラの声が低くなる。
「灯りに関係するものを消そうとしている?」
「可能性はあります」
俺は月灯狐の背に付着した黒い粉を、指先で慎重に払った。
狐が痛そうに身をよじる。
「ぽう……」
「すぐ楽にする」
俺はランタンを近づけた。
黒蛾はもう散ったが、呪いの残り香が毛の奥に入り込んでいる。
強い光を当てれば祓えるかもしれない。
でも、それではこの小さな体に負担が大きい。
ニナの寝室灯を作った時と同じだ。
怖がらせない灯り。
痛くない灯り。
眠りに落ちる時、枕元にそっと残る灯り。
「【小さな灯】」
俺の指先に、淡い金色の光が宿る。
それを、狐の背中へそっと落とした。
黒い粉が、じわじわと薄れていく。
狐の呼吸が少しずつ落ち着いた。
「ぽ……」
月灯狐は俺の手に鼻先を寄せ、ぺろりと舐めた。
くすぐったい。
それから、俺の腕の中で丸くなった。
セラがほっと息を吐く。
「助かりそうね」
「はい。ただ、ちゃんと休ませた方がいい」
「工房へ戻りましょう。ミリアなら何か分かるかもしれない」
「その前に、ガルムさんを村まで」
「わしは大丈夫だ」
ガルム爺はそう言ったが、墓地道はまだ危険だ。
月送りの灯は安定しているとはいえ、夜霧が完全に消えたわけではない。
俺たちはガルム爺を中心に、ゆっくり村へ戻った。
帰り道、ガルム爺は何度も墓地の方を振り返った。
悲しそうではあった。
でも、行きとは少し違う顔だった。
長く閉じていた扉を、ようやく一つ開けられた人の顔だ。
「ルカさん」
村の灯りが見えた頃、ガルム爺が言った。
「はい」
「妻に、村はまだ大丈夫だと伝えられた」
「……それは、よかったです」
「あの人は心配性でな。きっと向こうでも、村の夜を気にしておっただろう」
ガルム爺は小さく笑った。
「今夜の灯りを見たら、少し安心したはずだ」
胸の奥が温かくなる。
月送りの灯。
それは死者のためだけの灯りではなかった。
生きている人が、もう一度前を向くための灯りでもあった。
◇
工房に戻ると、ミリアが扉の前で仁王立ちしていた。
腕を組み、耳をぴんと立て、尻尾をぶんぶん揺らしている。
「遅い!」
「すみません」
「月送りの灯は!? ちゃんと点いた!? 道は通れた!? ガルム爺は大丈夫!? 黒霧は!? って、なにそれ!」
ミリアの視線が、俺の腕の中で丸くなっている白い狐に釘付けになった。
次の瞬間、彼女はものすごい勢いで距離を詰めてきた。
「月灯狐じゃん!」
「やっぱりそうなんですね」
「本物!? 本物なの!? え、待って、尻尾光ってる! かわいい! 小さい! でも弱ってる! 黒蛾にやられたの!? 許せない!」
感情の切り替わりが忙しい。
ミリアは興奮しながらも、すぐに作業台の上を片づけ、柔らかい布を敷いた。
「ここに寝かせて。乱暴にしないで。あ、ルカは乱暴にしなさそうだけど、念のため」
「分かっています」
俺は月灯狐をそっと布の上に下ろした。
狐はくるんと丸くなり、尻尾で自分の鼻先を隠す。
「ぽう……」
「鳴いた! 今ぽうって鳴いた!」
ミリアが胸を押さえる。
「落ち着いて」
セラが呆れたように言った。
「落ち着けるわけないでしょ! 月灯狐だよ!? 父さんが一生に一度だけ見たって言ってた伝説のモフモフだよ!?」
「モフモフなのは確かね」
セラも少し表情を緩める。
普段は村長代理として気を張っている彼女も、このふわふわには勝てないらしい。
ミリアは狐の毛並みを調べながら、眉を寄せた。
「黒蛾の粉が毛の奥に残ってる。ルカの灯りでだいぶ取れてるけど、まだ尻尾の根元が冷たい」
「どうすれば?」
「温める。普通の火じゃだめ。強すぎる。ニナ用の安眠灯、使える?」
「はい」
「それと月送りの灯の残り毛を少し。あとは……蜂蜜水。ロッテさんのところにあるかな」
「呼んでくるわ」
セラがすぐに動いた。
俺はニナ用に作った卓上ランプを工房の棚から取り出した。
まだ試作だが、柔らかい灯りを安定して出せる。
ミリアは白い布で小さな寝床を作り、その周囲にランプを置いた。
俺が【小さな灯】を少し足すと、ランプの光がふわりと広がる。
月灯狐の体から、黒い冷気がほんの少し抜けた。
「いい感じ」
ミリアが頷く。
「この子、ルカの灯りと相性いい」
「月送りの灯にも反応していました」
「そりゃそうだよ。月灯狐の毛を使ってるからね。でも、それだけじゃないかも」
「どういう意味ですか?」
ミリアは狐の尻尾をじっと見た。
「月灯狐は、月明かりを食べるって言われてる。でも、たぶん本当に食べてるのは光じゃなくて、夜の中にある優しい灯りなんだと思う」
「夜の中にある優しい灯り」
「うん。強すぎる聖光とか、魔石を燃やす光じゃなくて。道しるべとか、帰る家とか、誰かを待つ窓明かりとか。そういう光」
俺は言葉を失った。
それは、俺が【小さな灯】を使う時に思い描いているものと近かった。
暗い道を歩く人の足元。
眠れない子どもの枕元。
帰りを待つ家の窓辺。
小さくても、誰かのためにともる灯り。
「だから、俺の灯りに反応した?」
「たぶん」
ミリアは少し悔しそうに笑った。
「ルカの灯り、月灯狐好みなんじゃない?」
「好み……」
「よかったね。モフモフに好かれる灯火師」
セラがロッテさんと一緒に戻ってきた。
ロッテさんの手には蜂蜜水の入った小皿がある。
「あらまあ」
月灯狐を見た瞬間、ロッテさんの顔がふわっと緩んだ。
「なんて可愛いの」
「ロッテさん、蜂蜜水を少しだけ」
「ええ。薄めてあるわ」
ミリアが布を丸めて小さな匙のようにし、蜂蜜水を月灯狐の口元へ運ぶ。
狐は最初、眠ったまま動かなかった。
だが甘い匂いに気づいたのか、鼻先をぴくぴくさせる。
「ぽ……」
ぺろり。
一口舐めた。
それから、もう一口。
尻尾の光が少し強くなる。
工房にいた全員が、ほっと息を吐いた。
「食べた」
ミリアが小さく拳を握る。
「この子、助かるよ」
「よかった」
俺も胸を撫で下ろした。
月灯狐は蜂蜜水を少し舐めると、また丸くなった。
しかし今度は、さっきより呼吸が穏やかだ。
白い尻尾の先が、ぽう、ぽう、と一定の間隔で光っている。
まるで小さな灯台のようだった。
◇
その夜、月灯狐は工房で休ませることになった。
ニナは一目見た瞬間に完全に心を奪われた。
「かわいい! かわいい! この子、名前あるの?」
「まだないです」
俺が答えると、ニナは目を輝かせた。
「名前つけていい?」
「この子が嫌がらなければ」
「じゃあね、しっぽがぽうって光るから、ポルカ!」
「ぽうからポルカ?」
「うん!」
ミリアが腕を組んで頷く。
「悪くない。響きが丸い」
「響きが丸いとは」
「モフモフには大事なの」
よく分からないが、ミリアの中では大事らしい。
月灯狐は名前を理解したのかしていないのか、寝床の中で片目を開けた。
「ぽう」
ニナがぱっと笑う。
「ほら! いいって!」
「本当に?」
「いいって言った!」
子どもの判断は強い。
こうして、月灯狐の名前はポルカになった。
ポルカはしばらく眠っていたが、夜が深くなる頃、ふいに起き上がった。
工房の中には、俺、ミリア、セラが残っていた。
ポルカの容体を見るためでもあり、工房の灯りが安定するか確認するためでもある。
ロッテさんは宿へ戻り、ガルム爺も家へ帰った。
ニナは最後まで残りたがったが、老婆に連れていかれた。
「ん……?」
最初に異変に気づいたのはミリアだった。
「ポルカ?」
ポルカは寝床から出て、ふらふらと歩き出す。
まだ足元はおぼつかない。
それでも、何かに引かれるように工房の床を進む。
向かった先は、地下保管庫の入口だった。
俺のランタンが、勝手に淡く光る。
床下の灯路も反応した。
ポルカは保管庫の扉の前で止まり、尻尾を持ち上げた。
「ぽう」
尻尾の光が、床の灯路へ落ちる。
次の瞬間、工房の灯りが一斉に瞬いた。
「わっ!」
ミリアが驚いて工具を落とす。
壁に並んでいた修理途中の灯具。
作業台の上の試作品。
地下の芯灯。
それらが一瞬だけ、同じ調子で光った。
俺は息を呑む。
「ポルカが、灯路をつないだ?」
「そんなことできるの?」
セラが驚く。
ミリアはすでに目を輝かせていた。
「できるかも。月灯狐は灯りの道案内って伝承がある。もしかして、灯路の詰まりとか切れ目が分かるんじゃ……」
ポルカは、ふらふらと工房の入口へ向かう。
俺たちも後を追った。
外はすでに夜だった。
だが、広場の灯柱、井戸灯、ロッテさんの家の灯り、工房の灯りがあるおかげで、昨夜より少しだけ村の輪郭が見える。
ポルカは小さな体でとことこと歩き、広場の方へ向かった。
村人たちの家の窓から、いくつかの視線が覗く。
白く光る狐が夜道を歩いているのだから、驚くのも無理はない。
「ポルカ、どこへ行くんだ?」
俺が声をかけると、ポルカは振り返った。
「ぽう」
それから、北門の方角へ顔を向ける。
尻尾の光が、ふっと弱くなった。
セラの表情が引き締まる。
「北門?」
俺もランタンを握り直した。
北門の門灯は、昨日の夜に応急で起こしただけだ。
今日の昼に確認はしたが、完全な修理はまだできていない。
もし、あそこに何か異常があるなら。
「行きましょう」
俺たちは北門へ向かった。
ポルカは小さい体で先導する。
足取りはまだ頼りないが、不思議と道を間違えない。
尻尾の光が、地面に眠る灯路をなぞるように揺れている。
北門に近づくにつれ、空気が冷たくなった。
見張りの男が俺たちに気づき、顔を強張らせる。
「村長代理! ルカさん! ちょうど呼びに行こうと思っていたところだ!」
「何があったの?」
セラが聞く。
見張りの男は門灯を指さした。
「右の門灯が、さっきからおかしい。点いてはいるんだが、光が黒く揺れる」
俺は門灯を見上げた。
確かに、右の門灯が不安定に揺れている。
金色の光の端に、黒い影が混ざっている。
まるで、外側から何かが灯りを噛んでいるようだった。
ポルカが俺の足元で毛を逆立てた。
「ぽ、ぽう……!」
怯えている。
黒森の方を見て。
俺は門の隙間から外を見た。
暗い森。
夜霧。
そして、その奥に。
昨日の影狼よりもずっと大きな赤い目が、一つ。
ゆっくりと開いた。
見張りの男が震える声で言う。
「影狼じゃない……あんなの、見たことがない」
黒森の奥で、低い唸り声が響いた。
北門の灯りが、また黒く揺れる。
ポルカは俺の足元にしがみつくように身を寄せた。
俺はランタンを掲げる。
この村に来てから、灯りを一つずつ戻してきた。
けれどどうやら、夜の方もこちらに気づき始めたらしい。
「セラさん」
「ええ」
セラは短剣を抜いた。
ミリアも震えながら工具を握る。
俺は黒く揺れる門灯を見上げ、静かに息を吸った。
「北門の灯りを、作り直します」
黒森の奥で、巨大な影が動いた。




