第35話 潮見坂の灯柱
北方灯台へ向かう道は、海霧に沈んでいた。
白帆宿を出てすぐ、潮の匂いが強くなる。
草に覆われた巡灯路は、ところどころ濡れていて、靴底に湿った土がまとわりついた。
遠くでは、黒い灯台が回っている。
ごぉん。
ごぉん。
低い音が、海の奥から響く。
そのたびに、霧の中で黒い光が揺れた。
本来なら灯台の光は、船に帰る方向を教える。
だが、今あの黒い光は逆だ。
帰ろうとする船を、岩礁へ誘っている。
白帆宿で倒れた船乗りカイルの言葉が、耳に残っていた。
『あの黒い光を見た船が、港じゃなく岩礁へ向かう』
早く灯台を止めなければならない。
けれど、焦って進めば、こちらも霧に飲まれる。
だから俺たちは、一つずつ灯りを起こしながら進んだ。
白帆宿の帰り灯から伸びる青白い線。
王都から持ってきた小さな火種。
ノクスヴェイルの灯火網。
それらを結灯環で受け、足元の巡灯標へ流していく。
光は細い。
だが、霧の中でよく見える。
海沿いの灯りは、陸の灯りとは違った。
強く照らすのではなく、霧の中で消えずに残る。
風に煽られても、芯が乱れない。
潮に濡れても、火種が腐らない。
小さいが、しぶとい灯りだ。
「面白いな」
ミリアが歩きながら、巡灯標の金具を観察している。
「王都式とも、ノクスヴェイル式とも違う。海の灯具って、光を遠くへ飛ばすだけじゃないんだ。霧の中で“ここにある”って残る形をしてる」
「灯台も同じ構造ですか?」
ノインが点検板を見ながら答える。
「記録では、北方灯台は三層構造です。下層が帰港灯路、中層が沿岸警戒灯路、最上層が海上導灯。灯台守は最上層の灯室を管理します」
「つまり、最上層を黒くされたら?」
「船を偽の港へ導けます」
ノインの声は硬かった。
「でも下層の帰港灯路が生きていれば、近海の船には本来の港灯を届けられるかもしれません」
「じゃあ、下から起こす」
ミリアが即答した。
「大聖灯の時と同じ。でっかい灯りへ正面からぶつかるんじゃなくて、下の小さい灯りから戻す」
「はい」
俺は頷いた。
そのためにも、まず潮見坂の灯柱を戻さなければならない。
白帆宿と北方灯台の中間にある、海沿いの重要な巡灯柱。
そこが沈黙しているせいで、灯台へ向かう巡灯路が途切れている。
セラが先頭で足を止めた。
「霧が濃くなった」
確かに、数歩先が見えないほどだった。
ただの白い霧ではない。
黒い筋が混じっている。
霧の奥から、かすかな声が聞こえた。
港はこっちだ。
灯りが見える。
帆を向けろ。
岩じゃない。
帰れる。
その声は、まるで海の上から聞こえてくるようだった。
ポルカが俺の肩で毛を逆立てる。
「ぽう……!」
「黒燭の声ですね」
「ぽう!」
怒っている。
ミリアも顔をしかめた。
「嫌な声。帰りたい気持ちを餌にしてる」
「はい」
黒燭はいつもそうだ。
怖いものだけを見せるのではない。
会いたい人。
帰りたい場所。
安心したい心。
そういう大切なものを、黒い火の餌にする。
だからこそ、厄介で、許せない。
「皆さん、黒い光を見続けないでください」
俺は言った。
「足元の巡灯標と、白帆宿の帰り灯を意識して」
セラが頷く。
「帰る場所を先に決めてから進む。迷ったら戻る。いい?」
「はい」
「うん」
「分かりました」
「ぽう」
俺たちは再び進み始めた。
◇
潮見坂は、急な坂道だった。
左手には黒い海。
右手には崖。
坂の上に、灯柱が立っているはずだった。
だが霧が濃すぎて、輪郭すら見えない。
ごぉん。
黒い灯台の音が響く。
その瞬間、霧の中に無数の灯りが浮かんだ。
青白い灯り。
黄色い灯り。
赤い灯り。
まるで港町の灯りが、霧の奥に並んでいるように見える。
ノインが息を呑んだ。
「港……?」
「違います」
俺はランタンを強く握った。
「あれは偽物です」
だが、分かっていても目が吸い寄せられる。
人の心は、帰る場所の灯りに弱い。
まして海の上ならなおさらだ。
疲れた船乗りが、霧の中であの灯りを見れば、港だと思って舵を切ってしまうだろう。
セラが短く言った。
「見ないで。足元」
彼女の声で、俺たちは視線を下げた。
足元にあるはずの巡灯標は、黒い霧で見えない。
だが、結灯環の中で白帆宿の帰り灯が揺れている。
それを頼りに、俺はランタンを低く掲げた。
「【小さな灯】」
金色の光を、地面へ薄く流す。
霧の下に、青白い線が浮かんだ。
巡灯路だ。
偽の港灯とは違う。
弱く、地味で、足元にしかない光。
けれど、こちらが本物だ。
「こっちです」
俺たちは足元の光を辿った。
霧の中の偽灯りは、なおも揺れている。
母親の声。
宿の笑い声。
港の鐘。
帰ってこいという囁き。
その全部を、見ないようにして進む。
やがて、霧の向こうに黒い影が見えた。
潮見坂の灯柱だった。
だが、ひどい状態だった。
高さは人の三倍ほど。
本来なら坂道と海岸の両方を照らす青白い灯柱のはずが、今は黒い蔓のような蝋に巻きつかれている。
灯具の硝子は煤け、反射板は海側へ曲げられていた。
その先に、偽の港灯が浮かんでいる。
「これ、灯柱が偽灯りの投影に使われてる」
ミリアが怒りを押し殺した声で言った。
「本来は道を示す灯柱なのに、逆向きにされてる」
「戻せますか」
「戻す。絶対戻す」
ミリアは工具袋を開いた。
だが、灯柱へ近づこうとした瞬間、黒い霧が濃くなった。
霧の中から、海水で濡れた影が現れる。
人の形。
だが顔はない。
体は黒い霧と海藻のようなものでできている。
手には、短い黒燭。
「海霧の影……?」
ノインが後ずさる。
影は一体ではなかった。
二体、三体、四体。
坂道を塞ぐように現れる。
黒い灯台の音がまた響いた。
ごぉん。
影たちの黒燭に、赤黒い火がつく。
セラが短剣を抜いた。
「灯柱は任せる。こっちは止める」
「セラさん、一人では」
「一人じゃないでしょ」
そう言って、セラは笑った。
次の瞬間、ポルカが肩から飛び降りる。
「ぽう!」
白い月明かりが霧を裂いた。
海霧の影たちの足元が見える。
セラはその隙を逃さない。
低く踏み込み、黒燭を持つ手を狙って短剣の柄を打つ。
一体目の黒燭が落ちる。
俺がランタンの光を飛ばし、黒燭を割る。
影が霧へ戻る。
「効きます!」
「なら続ける!」
セラが二体目へ向かう。
ノインも震えながら点検灯を掲げた。
「黒燭の火、灯柱と連動しています! 影を倒せば黒蝋が弱まります!」
「なら助かる!」
ミリアは灯柱の根元に膝をついた。
「ルカ、火を細く! ここの硝子、黒くなってるけど割れてない!」
「はい!」
俺は灯柱へ光を入れた。
しかし、黒い蔓蝋が強い。
こちらの光を海側へ曲げ、偽の港灯へ流そうとしてくる。
少しでも気を抜けば、俺の光まで偽灯りの材料にされる。
「嫌な仕組みですね……!」
「同感!」
ミリアが灯柱の反射板へ工具を差し込む。
「反射角を戻す。黒蝋を剥がすより先に、光の向きを変える!」
「それで偽灯りを弱めるんですね」
「そう!」
彼女の手は速かった。
潮で錆びた金具。
黒蝋で固まった軸。
曲げられた反射板。
それらを見極め、必要な場所だけを動かしていく。
無理に壊さない。
灯具本来の動きを思い出させるように。
俺はその手元へ細い光を送り続けた。
背後でセラが影を押し返している。
ポルカが霧を払う。
ノインが黒糸の流れを読み上げる。
「右上から黒糸! 灯柱上部へ!」
「ポルカ!」
「ぽう!」
ポルカの白い光が黒糸を止める。
セラが黒燭を弾く。
俺が光で割る。
ミリアが反射板を戻す。
少しずつ、灯柱の青白い硝子が本来の色を取り戻していく。
その時、霧の向こうから別の音が聞こえた。
波を切る音。
木が軋む音。
人の叫び声。
「船です!」
ノインが青ざめた。
坂の下、黒い海の霧の中に、小さな船影が見えた。
帆船ではない。
沿岸を走る小型漁船だ。
船首が、岩礁の方へ向いている。
そして、その先には偽の港灯が浮かんでいた。
「まずい」
セラが息を呑む。
「このままだと岩にぶつかる」
カイルの仲間かもしれない。
あるいは別の漁師たちかもしれない。
どちらにせよ、今この灯柱を戻せなければ、船は砕ける。
「ミリア!」
「分かってる!」
彼女は歯を食いしばり、最後の黒蝋金具へ工具をかける。
「固い……! 海水で膨らんで、黒蝋が噛んでる!」
「俺が内側からほどきます」
「強くしすぎないで。潮硝子が割れる!」
「はい」
俺は深く息を吸った。
灯柱の役目を思い描く。
海から見た時、ここが港ではないと知らせる灯り。
坂を上る人へ、宿が近いと示す灯り。
岩礁と道を分ける灯り。
強く叫ぶのではなく、間違った道へ行かないように、静かに示す灯り。
「【小さな灯】」
金色の光が、灯柱の芯へ細く入る。
その光が潮硝子を通り、青白く変わる。
ミリアが叫ぶ。
「今、反射板戻す!」
ぎぎ、と金属が鳴った。
曲げられていた反射板が、本来の角度へ戻る。
灯柱の光が、海ではなく坂道と岩礁の境へ向いた。
同時に、偽の港灯がぐにゃりと歪む。
霧の中に浮かんでいた無数の灯りが、黒い煙となってほどけていく。
小型漁船の上から叫び声が聞こえた。
「灯りが変わった!」
「岩だ! 舵を切れ!」
「左へ! 左だ!」
船がぎりぎりで進路を変える。
黒い波が岩礁へ叩きつける。
船体は大きく揺れたが、砕けなかった。
潮見坂の灯柱が、青白い光を海へ一度だけ強く瞬かせる。
それは、港はこちらではない、という警告の灯りだった。
漁船が霧の奥へ逃れていく。
船上から、かすかな声が聞こえた。
「白帆宿の灯りを見ろ!」
「帰れるぞ!」
胸の奥が熱くなった。
白帆宿の帰り灯。
潮見坂の灯柱。
二つの灯りがつながったことで、一隻の船が岩を避けた。
大きな勝利ではないかもしれない。
だが、確かに一つ、帰り道を守った。
◇
海霧の影たちは、灯柱が戻ると急速に薄れていった。
偽の港灯を失い、形を保てなくなったのだろう。
最後の一体が黒燭を掲げようとしたが、セラが素早く手元を打ち、俺が光で黒燭を割った。
霧が少し晴れる。
潮見坂の上から、北方灯台が見えた。
まだ遠い。
だが、さっきよりはっきり見える。
岬の先にそびえる大きな灯台。
その最上層で、黒い光が回っている。
灯台の下層は暗い。
中層には黒い霧が巻きつき、最上層だけが異様に脈打っている。
まるで、巨大な黒い目が海を睨んでいるようだった。
ノインが点検板を見ながら言う。
「潮見坂の灯柱が戻ったことで、灯台下層の帰港灯路に反応があります」
「下層はまだ完全に死んでいない?」
「はい。ただし、黒い光に押さえられています。灯台守の小屋まで行けば、灯台内部の副灯路へ接続できるはずです」
「行きましょう」
俺が言うと、ミリアが灯柱から手を離し、ふらりと立ち上がった。
「待って。灯柱に、一つ変なのがある」
「変?」
彼女は灯柱の裏側を指さした。
黒蝋で隠されていた部分に、小さな刻印がある。
灯台守の印だろうか。
そこには、細い針で文字が彫られていた。
『黒い光は上を見るな。
足元の潮灯を辿れ。
灯室に閉じ込められても、下層灯路はまだ生きている。
リーネ』
「リーネさんの伝言……」
ノインが声を震わせる。
灯台守リーネは、ただ閉じ込められていただけではない。
黒い灯台の中で、外へ向けて道を残していた。
足元の潮灯を辿れ。
下層灯路はまだ生きている。
それは、灯台を取り戻すための手がかりだ。
セラが灯台を見据えた。
「灯台守は生きている。しかも戦っている」
「はい」
俺はランタンを握った。
「なら、こちらも下から行きます」
黒い灯台の最上層では、ヴァルハインが待っているだろう。
だが、灯台の下にはまだ生きている小さな灯りがある。
白帆宿の帰り灯。
潮見坂の灯柱。
そして、リーネが残した足元の潮灯。
道はつながった。
その時、黒い灯台がひときわ大きく鳴った。
ごぉぉん。
海がざわめく。
霧の向こうで、複数の船影が揺れた。
ノインが青ざめる。
「満潮が近い……。黒い光の届く範囲が広がっています」
ミリアが工具袋を担ぎ直した。
「あと一刻くらい?」
「おそらく」
セラが短く言った。
「急ぐわよ」
俺たちは潮見坂の灯柱に小さな火種を残し、灯台守の小屋へ向かった。
背後では、青白い灯柱が霧の中で静かにともっている。
偽の港ではない。
本当の道を示す灯りとして。




