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第31話 小さな灯火網

 黒聖灯が、王都中の灯りを焼き切ろうとしていた。


 広場の街灯が赤黒く燃える。


 下層の橋灯が揺れる。


 祈り火室の小さな灯りが、悲鳴のように震える。


 黒い芯の中で、俺は金色の大聖灯芯の前に立っていた。


 外からは、セラの声が聞こえる。


 ミリアの声が聞こえる。


 ポルカの鳴き声が聞こえる。


 王都の人々が、自分の小さな灯りを守ろうとする声が、遠く水の中のように届いていた。


『全旧式灯路を焼き切れ』


 ヴァルハインの声が、黒い空間に響く。


 赤黒い火が、無数の蛇のように走った。


 橋灯へ。


 店灯へ。


 祈り灯へ。


 宿灯へ。


 屋台の火皿へ。


 そして、ノクスヴェイルからつながる灯火網へ。


 黒聖灯はもう、王都だけを飲もうとしていない。


 王都につながったすべての小さな灯りを、ここで焼き切るつもりだ。


「させません」


 俺はランタンを掲げた。


 けれど、内側から見る黒聖灯は巨大だった。


 黒い水のような空間の底から、黒燭の塊がゆっくりと起き上がる。


 無数の黒蝋燭が絡み合い、顔のない獣のようになっている。


 その全身に、食われた灯りの名残がこびりついていた。


 誰かの家の窓灯。


 祈りの火。


 店の吊り灯。


 子どもの枕元の小灯。


 それらを燃料にして、黒い獣は笑っている。


『小さな灯りは弱い』


 黒い獣が言った。


『守ろうとすれば、痛む。分け合えば、薄まる。揺らげば、人は不安になる』


「それでも」


『大きな灯りに従えば楽だ。何も考えなくていい。疑わなくていい。自分で守らなくていい』


「それでも」


 俺は金色の芯へ一歩近づいた。


「誰かに灯りを預けきったら、その誰かが黒くなった時に全部失う」


 大聖灯の金色の芯が、かすかに震えた。


 それは、後悔のようにも見えた。


 長い間、王都は大聖灯だけを見上げてきた。


 下層の灯りを忘れ、祈り火を忘れ、店の灯りを忘れた。


 大聖灯自身も、自分が小さな灯りを受け取っていたことを忘れていた。


 だから、黒い芯を入れられた。


 だから、人々は黒い昼を救いだと思いかけた。


「戻りましょう」


 俺は金色の芯に言った。


「大きな灯りとしてではなく、皆の灯りを受け取る灯りとして」


 金色の芯が、静かに光った。


『……受け取る』


「はい」


『命じるのではなく』


「はい」


『照らすのではなく、返す』


「そうです」


 大聖灯の芯が、ゆっくりと目覚める。


 黒い膜の奥で、金色が広がり始めた。


 すると、黒い獣が咆哮した。


『否。人は戻らぬ。恐れは甘い。諦めは深い。大きな黒い火を求める心がある限り、我らは消えぬ』


「消えなくてもいい」


 俺は言った。


「夜も、恐れも、不安も、なくならない」


 黒い獣が動きを止める。


「だから灯りが必要なんです」


 ランタンの中で、【小さな灯】が揺れる。


「夜があるから、足元を照らす。怖いから、誰かと灯りを分ける。帰りたいから、窓辺に火をともす」


 閉じ込められていた小さな灯りたちが、少しずつ俺の周りへ集まってくる。


 ひび割れた灯り。


 黒く濁った灯り。


 消えかけた灯り。


 どれも完全ではない。


 けれど、まだ生きている。


「恐れをなくす灯りじゃない。恐れても歩ける灯りです」


 俺はランタンを金色の芯へ重ねた。


「【小さな灯】」


 光が広がった。


 大きな炎ではなかった。


 黒い獣を焼き尽くす光でもなかった。


 ただ、小さな灯りを一つずつ結ぶ光。


 橋灯は橋灯として。


 祈り火は祈り火として。


 店灯は店灯として。


 宿灯は宿灯として。


 屋台の火皿は火皿として。


 ニナの安眠灯は安眠灯として。


 リオのランプはランプとして。


 誰かの家の窓灯は、その家の窓灯として。


 それぞれの役目を取り戻しながら、金色の線でつながっていく。


 黒い獣の赤黒い火が、その網に触れた。


 燃やそうとする。


 だが、燃え広がらない。


 一つを食おうとすると、隣の灯りが支える。


 隣を食おうとすると、別の灯りが支える。


 一本の大きな芯ではない。


 無数の小さな灯りの網。


 黒燭が最も嫌うもの。


『やめろ』


 黒い獣が初めて、焦った声を出した。


『小さな火が群れるな。大きな芯に従え。ひとつになれ。ひとつになって、黒く染まれ』


「ひとつにはなりません」


 俺は静かに言った。


「みんな違う灯りです」


     ◇


 外側の広場では、黒い火が暴れていた。


 街灯の黒い炎が、広場の人々へ伸びる。


 職人たちが配った携帯小灯が、次々に揺れる。


 黒聖灯は、もう隠すつもりもない。


 人々の目の前で、小さな灯りを食い尽くそうとしている。


「灯りを下ろさないで!」


 セラが叫んだ。


 彼女は裁き台の上で、黒燭商会の男たちを押し返していた。


 短剣は抜いている。


 だが、人を斬るためではない。


 黒燭を弾き、黒縄を切り、捕らわれた灯番たちを逃がすために使っている。


「黒聖灯を見るな! 自分の灯りを見るの!」


 広場の人々は震えながらも、小さな灯りを掲げ続けていた。


 マーサ婆さんは祈り灯の小灯を胸に抱き、歯を食いしばっている。


 ユーベルは靴直し屋の吊り灯を掲げ、周囲の人々の足元を照らしている。


 屋台の女性は火皿を守り、その隣で見知らぬ少女が自分の守り灯を重ねていた。


 貴族街の婦人も、いつの間にか黒聖灯ではなく手元の小灯を見ていた。


「これ、本当に……温かい」


 彼女の呟きに、隣の荷運び男が頷く。


「灯りって、そういうもんだろ」


 ミリアは黒聖灯の根元に張りつき、受け皿を塞いでいた黒蝋を必死に削っていた。


 ティナとバスクも加わっている。


「王都式の受け皿、細かすぎ!」


「辺境式の補強、荒っぽすぎ!」


「今それ言う!?」


「今だから言うのよ!」


 三人の職人が、怒鳴り合いながら手を止めない。


 灯具職人の手が、王都と辺境の違いを越えて動いている。


 黒蝋が割れる。


 古い受け皿が少しずつ露出する。


「ポルカ、そこ押さえて!」


「ぽう!」


 ポルカが白い尻尾を広げ、黒い煙を押さえ込む。


 小さな体が震えている。


 それでも、逃げない。


 ノインは聖灯局の点検灯を掲げ、広場の旧灯路を記録していた。


「黒糸の流れ、中央芯から各街灯へ。旧式灯路を逆流させています!」


「記録なんてあと!」


 ミリアが叫ぶ。


「いえ、今必要です!」


 ノインは震える手で点検板に記録を書き込む。


「黒燭の侵食経路を示せれば、聖灯局内部の人間にも証拠になります!」


 セラが一瞬だけ彼を見る。


「なら、記録して。全部」


「はい!」


 その時、裁き台の上でグレゴールが怒鳴った。


「愚民どもが!」


 その声は、もう聖灯局長の威厳ではなかった。


 仮面の剥がれた怒りだった。


「誰のおかげで王都が守られてきたと思っている! 大聖灯だ! 聖灯局だ! お前たちの小汚い灯りではない!」


 広場が静まり返る。


 グレゴールは黒聖灯の黒い光を背に、両手を広げた。


「お前たちは大きな灯りの下にいればいい。疑うな。考えるな。従え。それが安全だ」


 その言葉に、人々の顔がまた揺らいだ。


 大きな灯りに従えばいい。


 その甘さは、確かにある。


 自分で守らなくていいなら楽だ。


 考えなくていいなら楽だ。


 怖い時ほど、人は大きな声に頼りたくなる。


 だが、広場の端で、小さな声が上がった。


「でも」


 屋台の少年だった。


 彼は小さな火皿を抱きしめ、黒聖灯ではなく、グレゴールを見た。


「黒聖灯がともってから、母ちゃんの屋台灯は消えた」


 グレゴールの眉が動く。


「下がれ、子ども」


「黒聖灯は、うちを守ってくれなかった」


 次に、マーサ婆さんが言う。


「祈り灯が消えた日、わたしは息子を待つ場所をなくした」


 ユーベルが続く。


「店の吊り灯を食われた。黒燭を置けと言われた。あれは守りじゃない」


 ティナが叫ぶ。


「灯具職人を捕まえておいて、灯りを守ってるなんて言わないで!」


 声が一つずつ増える。


「うちの宿灯も黒くなった!」


「子どもが黒燭を怖がった!」


「橋灯が戻って、やっと道が見えた!」


「黒聖灯を見ると、考えられなくなる!」


 グレゴールの顔が歪む。


「黙れ」


 声は止まらない。


「黙れ!」


 黒聖灯が黒い火を広げる。


 だが、その火は人々の小さな灯りに触れた瞬間、前より鈍くなった。


 疑いが生まれている。


 自分の灯りを思い出した人々は、もう完全には黒い昼へ戻らない。


 ヴァルハインが低く笑った。


「局長殿。民衆演説は失敗のようだ」


「貴様、何を笑っている」


「言ったでしょう。人は灯りを信じる心を食われる。だが、もう一度自分で灯りを持てば、黒燭の味は落ちる」


 ヴァルハインの声は楽しそうだった。


「だから最初に、下層の灯りを完全に消すべきだった」


「黙れ、ヴァルハイン!」


 グレゴールが叫ぶ。


 ヴァルハインは肩をすくめ、細長い黒蝋燭を掲げた。


「では、仕上げだけは私が」


 黒蝋燭の火が、白銀と黒に揺れる。


 月守狐から奪った汚れた光。


 それが黒聖灯の芯へ流れ込もうとした。


 その瞬間、広場の南側から白銀の光が走った。


「ぽうううっ!」


 ポルカではない。


 もっと深く、もっと大きな月の声。


 王都の城壁の向こう、遠く巡灯路の方角から、白銀の光が細く届いた。


 月守狐だ。


 ノクスヴェイルの森から、巡灯路を通じて、王都の小さな灯火網へ力を送っている。


 ヴァルハインの黒蝋燭が大きく揺れた。


「月守狐……まだそこまで!」


 ポルカが胸を張った。


「ぽう!」


 まるで、自分が呼んだと言わんばかりだった。


 白銀の光が黒蝋燭に触れる。


 汚された月守狐の光が、黒から白へ戻ろうと震えた。


 ミリアが叫ぶ。


「ルカ! 今! 月守狐の光が戻ってる!」


     ◇


 黒聖灯の芯の中で、俺にもその光が届いた。


 白銀の月明かり。


 ノクスヴェイルの黒森で見た、月守狐の光。


 それが黒い空間の底へ差し込み、黒燭の獣を照らした。


 獣が苦しげに身をよじる。


『月の守り手……余計なことを』


 黒い獣の体にこびりついていた白銀と黒の火が、剥がれ始めた。


 月守狐から奪われた光だ。


 俺はランタンを掲げ、その光へ手を伸ばす。


「帰りましょう」


 白銀の火が震える。


「あなたも、元の灯りへ」


 金色の灯火網と白銀の月明かりが重なった。


 黒い獣が咆哮する。


 だが、その体はもう巨大な一つの塊ではいられなかった。


 食ってきた灯りが、内部からほどけていく。


 閉じ込められていた小灯たちが、一つずつ離れていく。


 黒い獣の体が、穴だらけになる。


『なぜだ』


 獣が言う。


『人は恐れる。夜を恐れる。失うことを恐れる。ならば、黒き灯りを求めるはずだ』


「恐れても」


 俺は答えた。


「誰かが灯りをともして待っていてくれたら、帰れます」


 ニナの安眠灯。


 リオのランプ。


 ロッテさんの宿灯。


 祈り灯。


 橋灯。


 店灯。


 全部が光る。


「灯りは、恐れを利用するものじゃない。恐れる人の帰り道になるものです」


 大聖灯の金色の芯が、強く輝いた。


『思い出した』


 その声が、黒い空間全体に響く。


『我は、王都の上に立つ灯りではない。王都の灯りを受け取り、返す灯り』


 金色の芯から、無数の細い光が伸びた。


 閉じ込められていた灯りたちへ。


 そして外の広場へ。


 下層へ。


 巡灯路へ。


 ノクスヴェイルへ。


 小さな灯りの網が、黒聖灯の内側から外側へ広がっていく。


 黒い獣が崩れ始めた。


『まだだ。夜は消えぬ。我らはまた生まれる』


「夜は消えなくていい」


 俺はランタンを胸に抱いた。


「そのたびに、灯りをともします」


 金色の光が、黒い空間を満たした。


     ◇


 広場で、黒聖灯の芯が割れた。


 大きな音はしなかった。


 ただ、黒い硝子に入ったひびのように、中心から金色の線が広がった。


 黒い火が内側からほどけ、そこに閉じ込められていた小さな灯りたちが外へ飛び出す。


 店灯の光。


 祈り火。


 橋灯。


 宿灯。


 手灯。


 数え切れない小さな光が、広場の空へ舞った。


 人々は声もなく、それを見上げた。


 黒い昼の膜が破れる。


 本物の青空が戻る。


 太陽の光が、王都の白い石畳へ落ちた。


 黒聖灯だったものの中心に、金色の大聖灯が再び灯る。


 ただし、以前とは違った。


 上から一方的に照らす巨大な光ではない。


 広場にともる小さな灯りを受け取り、柔らかく返す光。


 人々の手元の小灯が、大聖灯の光を受けて少しだけ明るくなる。


 大聖灯もまた、人々の小さな灯りを受けて静かに揺れる。


「戻った……」


 誰かが呟いた。


「大聖灯が戻った」


 歓声は、すぐには上がらなかった。


 皆、何が起きたのか理解できず、ただ自分の灯りと大聖灯を見比べていた。


 やがて、一人の子どもが笑った。


 屋台の少年だ。


「温かい」


 その言葉をきっかけに、広場に息が戻った。


 人々が泣き、抱き合い、自分の灯りを確かめる。


 黒い縄で縛られていた職人たちは解放され、灯番たちは膝をついて祈った。


 ミリアは黒聖灯の根元に座り込み、ぜえぜえと息を吐いていた。


「……直った?」


 ティナが笑った。


「応急処置としてはね」


「王都の大聖灯相手に応急処置って、あたしすごくない?」


「すごいわよ」


「もっと褒めて」


「あとでね」


 ポルカはその横で、ふらふらしながらも胸を張っていた。


「ぽう……」


 セラは裁き台の上で、グレゴールへ短剣を向けている。


 グレゴールは顔面蒼白だった。


 黒聖灯の黒い光を失い、ただの男としてそこに立っている。


「なぜだ……」


 彼は呟いた。


「王都には大きな灯りが必要だった。民は従うだけでよかった。私が、私が王都を導くはずだった……」


「導くのと、奪うのは違う」


 セラが冷たく言った。


「あなたは灯りを守ったんじゃない。人々から自分の灯りを奪っただけ」


 ノインが記録板を抱え、前へ出た。


「局長。黒燭による旧式灯路侵食、灯具職人および灯番の不当拘束、下層灯路図の廃棄計画、すべて記録しました」


 グレゴールがノインを睨む。


「下級職員風情が……」


「はい。下級職員です」


 ノインは震えながらも、目を逸らさなかった。


「だから、下層の灯りを見ました」


 その言葉に、グレゴールは何も返せなかった。


 だが、ヴァルハインの姿がない。


 俺は広場へ目を走らせた。


「ヴァルハインは?」


 ミリアが顔を上げる。


「さっきまでそこに……」


 裁き台の裏に、黒い蝋の跡だけが残っていた。


 逃げた。


 黒聖灯は戻った。


 グレゴールは失脚するだろう。


 でも、黒燭そのものは完全には消えていない。


 黒い獣が言っていた。


 夜は消えぬ。


 我らはまた生まれる。


 その言葉が、胸に残る。


 その時、金色に戻った大聖灯の中から、柔らかな光が降りてきた。


 俺の体が、ふっと浮くような感覚に包まれる。


 次の瞬間、俺は広場の根元に倒れ込んでいた。


「ルカ!」


 セラとミリアが駆け寄ってくる。


 ポルカも俺の胸の上に飛び乗った。


「ぽうっ! ぽうっ!」


「重い……です」


「ぽう!」


 怒られた。


 でも、その重さが現実に戻ってきた証のようで、少し笑ってしまった。


 ミリアが涙目で俺の肩を掴む。


「笑ってる場合じゃない! 中に引き込まれたんだよ!?」


「すみません」


「謝るのも違う!」


 セラは膝をつき、俺の顔を覗き込んだ。


「戻ってきたのね」


「はい」


「本当に?」


「はい」


「なら、よかった」


 それだけ言って、セラは深く息を吐いた。


 大聖灯の金色の光が、広場全体を包んでいる。


 黒い昼は終わった。


 人々は自分の灯りを見つめ、大聖灯を見上げ、また手元へ視線を戻している。


 それでいい。


 大きな灯りだけを見上げるのではなく、自分の灯りも見る。


 その両方があれば、王都はきっと前より強くなる。


 だが、安心するにはまだ早い。


 グレゴールの裁き。


 聖灯局の立て直し。


 黒燭商会の追跡。


 ヴァルハインの逃亡。


 やるべきことは山ほどある。


 それでも今だけは、俺は空を見上げた。


 黒くない空。


 本物の昼。


 そして、その下でともる小さな灯りたち。


 追放された広場に、俺は戻ってきた。


 今度は、一人ではなく。

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