第7話 秘密の特訓
深夜の巨大テント内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
魔石のランプもほとんどが落とされ、わずかな月明かりだけが天幕の隙間から差し込んでいる。その薄暗い空間で、アリシアは一人、頭上高くに設置された空中ブランコを見上げていた。
王都での大公演を控え、極度のプレッシャーが彼女の細い肩にのしかかっている。それに加えて、夕方にスパーダから「馴れ合うつもりはない」と冷たく線を引かれた痛みが、胸の奥でまだズキズキと疼いていた。
シルヴィに施されたメイクはとうに落とし、動きやすい練習着に着替えている。
「……練習、しなきゃ」
アリシアは自分に言い聞かせるように呟き、プラットフォームへと続く縄梯子に手を伸ばした。夜のテントでひたむきに居残り練習をするのは、不安を打ち消すための彼女なりの儀式でもあった。
しかし、空中ブランコの練習を一人で行うのは極めて困難だ。タイミングに合わせて滑車を動かし、命綱を調整するサポート役がいなければ、大技の感覚を掴むことはできない。それでもアリシアは、ただ無心に宙を舞う感覚だけを求めて高所へと登っていった。
冷たいバーを握り、深呼吸をして虚空へと身を投げ出そうとした、その時だ。
「こんな夜更けに、非効率な練習をして何になる」
暗がりから響いた低く冷たい声に、アリシアはビクッと肩を震わせた。
見下ろすと、テントの入り口にスパーダが立っていた。彼は漆黒の外套を羽織り、鋭い眼光で高所のアリシアを見上げている。
「スパーダ、さん……どうしてここに」
「機材の最終確認だ。明日倒れられて興行に穴を開けられては困る。とっとと降りて寝ろ」
相変わらずの小言に、アリシアはキュッと唇を噛んだ。夕方の冷たい態度を思い出し、少しだけ声が震えてしまう。
「……少しだけです。王都の公演を成功させるためには、もっと完璧に感覚を掴んでおかないと、みんなの居場所がなくなってしまうから」
反論するアリシアを見据え、スパーダは小さくため息をついた。そのまま背を向けて帰るのかと思いきや、彼は外套を脱ぎ捨て、腕まくりをしながら舞台裏の滑車装置へと歩み寄った。
「飛べ」
「え……?」
「俺が下でロープを引く。お前のタイミングで飛べと言っているんだ」
アリシアは目を丸くした。査察官である彼が、居残り練習のサポートをしてくれるというのだ。
「で、でも……タイミングを合わせるのは、初心者には危険です! もし少しでもズレたら……」
「昨日と今日の公演を見てだいたい覚えた。無駄口を叩く暇があるなら、早く跳ぶんだ」
その有無を言わせぬ迫力と、どこか絶対的な自信に満ちた声に押され、アリシアは「はいっ」と返事をし、強くバーを握り直した。
一拍の静寂の後、アリシアは思い切り宙へと身を投げ出した。
風を切る音と共に、彼女の体が振り子の軌道を描く。そして頂点に達した瞬間、空中で手を放し、回転技へと入った。
通常ならば、ここで下のサポート役が滑車を絶妙な力加減で引き、次のバーを手の届く位置へと送り出さなければならない。少しでもズレれば、空振りして落下してしまう。
――ガツン!
アリシアの手は、空中でピタリと正確な位置に現れたバーをしっかりと捉えていた。
「すごい……!」
アリシアは歓喜の声を上げた。スパーダのサポートは、長年連れ添った相棒のように完璧だったのだ。彼はこちらの呼吸、筋肉の動き、視線の先までを完全に読み切り、寸分の狂いもなくロープを操っている。
口では厳しいことを言いながらも、その手際とサポートはあまりにも完璧で、アリシアは何度も何度も、夜空に見立てた暗いテントの天井を舞い続けた。スパーダが下で自分を支えてくれているという絶対的な安心感が、彼女の演技をさらに高く、美しく昇華させていく。
まるで、二人でひとつの舞台を作り上げているような、不思議な一体感だった。
一時間後。
心地よい疲労感と共にプラットフォームから降りてきたアリシアは、肩で息をしながらも充実した笑顔を浮かべていた。
「ありがとうございました、スパーダさん! こんなに思い通りに飛べたの、いつぶりだろう!」
スパーダはロープから手を放すと、無言で傍らの木箱から清潔なタオルと、水が入った水筒を手に取った。そして、それらをアリシアの胸元へポンと軽く押し付けた。
「……汗を拭け。風邪を引かれて公演中止は、あってはならん」
言葉こそ素っ気ないが、アリシアにタオルを差し出すその手つきは、昼間突き放された時の冷たさとは打って変わって、非常に優しかった。
アリシアがタオルで顔を拭っていると、スパーダがふと手を伸ばし、彼女の乱れた前髪を避けるように、そっと額の汗を拭った。
「えっ……」
「しかし、無茶ばかりするなあ。君が倒れれば、あの騒がしい連中が悲しむだろうが」
過酷な練習の後に向けられた、その過保護なまでの甘い眼差しと優しい労いの言葉。
アリシアは心臓が跳ね上がるのを感じた。
シルヴィの言葉が頭をよぎる。
『アンタ、あの役人に恋する乙女の顔になってるわよ!』
スパーダの端正な顔が月明かりに照らされ、彼が自分だけに向けてくれるその眼差しに、アリシアはもう、自分の気持ちを誤魔化すことができなかった。
彼は嫌な役人を演じているけれど、本当は誰よりも優しくて、不器用なだけなのだ。
静まり返った夜のテントの中で、アリシアの鼓動だけが、甘く、そして激しく鳴り響いていた。




