192 冬の火種
翌日、シレリ教授が訪ねたのは、マクレイの生命構造学の研究室だった。
いつもなら補佐や助手たちが研究に励んでいるが、この時は、補佐が一人残っているだけだった。
隣接する教授室の扉を叩く音が聞こえた。
「……どうぞ」
マクレイは、落ち着いた声で応じた。
「マクレイ教授。シレリ教授がお見えです」
補佐が告げると、静かに一礼して部屋を出ていった。
マクレイは席を立ち、シレリ教授を迎えた。
「マクレイ教授。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「いえいえ。ご連絡をいただいた時には驚きましたよ。実は私もあなたのもとへ伺おうと思っていたところでしたから。どうぞ、お座りください」
シレリ教授が腰を下ろすと、マクレイも向かいに座った。
「本日のご用件は……」
「はい。先日の緊急会議での私の発言ですが……」
やはり、気づいたのだな……
「非常にバランスを欠いておりました。申し訳ございません」
シレリ教授の謝罪に、マクレイは意外な返答をする。
「シレリ教授…… 何をおっしゃいますか。医術院のことを、この国の事を思ってのご発言だったと、後になって私は理解致しました」
……そう。
「むしろ、私こそ謝罪しなければならない。あの場であなたを退けたこと…… あれこそ、バランスを欠いた行為でした」
当然、あなたも気づいているのね。学長の登院の裏に……
「お詫び申し上げます」
教授会を掌握する者が、蔑んでいた女性教授に頭を下げて謝罪した。
シレリ教授は、その姿を冷静に見つめていた。
でも、あなたたちは……
「これからも、ともにこの国のために尽力していきましょう」
顔を上げたマクレイの視線を、シレリ教授は光のない瞳で受け止めた。
「……はい。マクレイ教授。宜しく、お願い致します」
静かに頭を下げたシレリの表情は、冷淡そのものだった。
「きみ、いるかね?」
マクレイが声をかけると、隣の研究室の扉が開き、補佐が現れた。
「はい、マクレイ教授」
「シレリ教授に、研究室を案内してくれないか。最近の成果も見ていただきたい」
「かしこまりました」
補佐は一礼すると、シレリに向き直った。
「シレリ教授、こちらへどうぞ」
補佐に導かれ、研究室へと足を踏み入れた。
生命構造学の最新の成果、進行中の実験、そして将来の展望。補佐は次々と研究内容を説明していく。
だが、熱心に聞いているように装いながらも、シレリ教授の心は別のところにあった。
その口元には、かすかな微笑みが浮かんでいた。
前日。
シレリの教授室で、シンの推理を聞き終えた直後のことだった。
「だ、大丈夫ですか、教授」
小さく震え始めたシレリ教授を、セリンが心配して声をかけた。
「……ええ。大丈夫よ……」
シレリ教授は、放心したように虚空を見つめていた。
どうしよう…… 伝えるべきなのか、それとも隠すべきなのか。
視線を上げて、三人の補佐を見つめた。
「……みんな、聞いて」
全員の視線が、シレリ教授に集まった。
「私は明日にでも、マクレイ教授に謝罪に行くわ」
その言葉で、重い沈黙が部屋を包んだ。
すべてを話す必要はない。この二人なら……
シレリ教授は、セリンとアトリアを見つめた。
問題は、この二人。
視線の先には、シンとユウの姿があった。
遅かれ早かれ私は気づいていた。だけど、シンの推理から導き出されたのは間違いないわ。
そして……
「ねぇ。教授の乳って柔らかかった?」
シンに対するウノウの質問に、シレリは思わず微笑んだ。
「いえ、憶えてなくて……」
「嘘だー。さっき気にして、手を後ろに隠してたじゃん」
「いや、それは……」
ウノウが彼を連れて来てくれたおかげね。
「ねぇねぇ。正直にいいなさいよー。乳揉めて嬉しかった?」
そして、あなたならきっと大丈夫。ねぇ、ウノウ……
「いや、その……」
「ババァの乳だから、嬉しくなかったの?」
「……ねぇ。いったいどこの誰の話なのかしら、ウノウ……」
シレリの一言で、部屋の空気が凍りついた。
馬車はランセルの屋敷の重厚な石造りの門をくぐり、静かに止まった。
ふたりは書斎へと入り、向かい合って座った。
「今後、我々はどうすべきでしょうか?」
マクレイが問いかけた。
ランセルは立ち上がり、窓へと歩み寄った。
「この王国は、長い年月をかけて積み上げてきた秩序の上に成り立っている。貴族が学び支え、王が治める。それが、この国の根幹だ」
「……はい」
「リヴァス学長がどれほどの後ろ盾を持とうとも、その根幹を揺るがすことなど、できはしない」
「……」
「そう、だからこそ…… だからこそ、今は静観する」
マクレイは、何度も小さく頷いていた。
「学務次官という立場ではあるが、王位継承に関与するには、まだ時期尚早だ」
「仰る通りです」
「むしろ、私は総監に同情する」
マクレイは黙って耳を傾けた。
「総監の立場であれば、静観することなど許されない」
「……仰る通りです」
「王族の意向であれ、リヴァス学長の登院を許可した時点で、すでに退路はない」
マクレイは静かに頷いた。
「我々が権力や地位に目が眩めば、否応なく巻き込まれる」
恐ろしい……
「そこまで踏み込むべきではない」
ランセルは振り返り、マクレイを見つめた。
「……よいな」
「はい。承知しておりますとも」
マクレイは、深く同意した。
医術院に戻ったマクレイは、シレリ教授を除く各教授を個別に訪ねた。
柔らかなソファに腰を下ろしたセディリオは、ハーブティーを口に運びながら、フレンの話を聞いていた。
「というわけです。セディリオ様」
話し終えたフレンは、内心で期待していた。
セディリオは、きっと喜んでくれ、自分をかわいがってくれると……
しかしセディリオは、カップをゆっくりとソーサーに戻しただけだった。
「……そうか」
え……
「あ、あの…… お役に立てましたでしょうか?」
その言葉に、セディリオは小さく微笑んだ。
「もちろんだ。ありがとう」
よ、良かった。セディリオ様は、喜んでくださった。
フレンは自然と笑みがこぼれた。
「ひとつ質問がある」
「はい! なんなりと」
「このハーブディは、いつものと同じ物かな?」
「はい。そうです」
「そうか。ありがとう」
「は、はい……」
話が突然変わり、フレンは戸惑っていた。
「下がれ」
「はい」
フレンは一礼し、部屋を後にした。
フフ。モヒュランみたいな小者に従ってても、たかが知れている。セディリオ様こそが、僕が従うのにふさわしい。
けどね。
今ごろ、はらわたが煮えくり返っていることでしょうね、セディリオさーま。だから余裕を見せたくて話を急に変えた。意外に小者だなセディリオ様も。うっひゃひゃひゃー。
ソファーに深く腰かけているセディリオは、再びハーブティーを口に運んだ。
本当に、余計なことをしてくれた。
モヒュランたちの企みも、ルーナの不倫も、まだ答えを出すつもりはなかった。点と点を繋ぎながら、少しずつ輪郭を浮かび上がらせていく。それが僕の楽しみ。
なのにまさか、あの給仕が先に答えを持ち込んでくるとは。
興ざめだ。
……いや、これもなりゆき。そう思えば、このハーブティが当たりだったのも、納得がいく。とても、良い味がしている。
セディリオは、ゆっくりとカップを傾け、ハーブティの香りを静かに楽しんでいた。
凍りついた部屋の中で、シレリは気を取り直すように息を吐いた。
「まあいいわ。シン・ウースさん、ユウ・ウースさん。しばらくの間、ここの手伝いをしてもらえる?」
シンとユウは顔を見合わせた。
「もちろんです」
「はい」
「そう。良かったわ。庶務課には私から話をして許可はもらうから、心配しなくていいわ」
シレリ教授は続けた。
「今日はもう帰っていいわ。くれぐれも……」
「はい。わかっています。内緒ですね」
二人が席を立つと、ウノウに目を向けた。
「ウノウ」
「はーい」
「送ってあげて」
「了解です」
「送ったら、寄り道せずに直ぐに戻ってくるのよ」
「わかってまーす」
嫌よ。また探しに行くの。
また探さないといけないの……
セリンとアトリアは、同じ事を思っていた。
「それでは、失礼します」
三人が部屋を出ると、シレリ教授はアトリアに目を向けた。
「アトリア」
「はい」
「あの二人のことを、調べておいて」
「わかりました」
「セリン」
「はい」
「悪いけど、庶務課の方はお願いね」
「はい。お任せください」
アトリアとセリンはすぐに席を立ち、部屋から出ていった。
一人になった部屋で、シレリ教授はゆっくりと椅子に身を預け、天井を眺めた。
学長…… 私は、お力になれません。本当に、申し訳ありません。
そのまま、静かに目を閉じた。
研究室を後にした三人は、中庭を並んで歩いていた。
「ウノウさん」
「なにー?」
「シレリ教授って、良い方ですね」
「でしょう~。あーしは大好きなの」
大好きなのにババァとか言うんだ……
大好きなのにサラっと暴言を……
シンとユウは、同じことを思っていた。
「あの~。聞いてもいいですか?」
シンは申し訳なさそうにそう口にした。
「もう仲間だから、何でも聞いて。遠慮しなくていいよ」
「では、お言葉に甘えて。シレリ教授って貴族なんですよね」
「そうだよ~。けど、名ばかりの貧乏貴族って言ってた」
「やはり貴族でないと、教授とかになれない感じですか?」
「そうだよ~。貴族でもないのにこの医術院で教授になった人はいないよ~」
「じゃあ、ウノウさんも貴族なんですか?」
「うんにゃ。あーしは貴族ではないよ」
「へぇー。貴族でもないのに、補佐にまで」
「うん。珍しいみたいだね」
「もしかして、ウノウさんが初なのでは?」
「以前にもいたらしいけど、誰だったか忘れちゃった」
「へぇ~」
「あーしが補佐になれたのは、シレリ教授のおかげなんだよ」
ウノウは、少し遠くを見るような目をした。
「シレリ教授が拾ってくれなければ、あーしは今ごろ何してるのかな~って、時々考えるの」
「もしもって、考えちゃいますよね」
「たぶん…… 冒険者になっていたと思うの!」
その言葉に、ユウが食いついた。
「え!? 冒険者!?」
「うん。あーしにあってると思うの」
ど、どうかな……
ユウは心の中でつぶやいた。
「でも、どうして冒険者に?」
「それはだって、自由だからだよ」
「自由だから……」
「うん。稼ぐのも命を落とすのも、ぜんぶ自分しだい。こんな面白い世界はないと思うの」
「確かに…… そうですよね!」
ユウは目を輝かせていた。
「学師の社会は女性だと肩身が狭いけど、冒険者にはそれはないの」
「うんうん!」
「身分だってそう。貴族でも平民でも、たとえ貧民街で生まれてても関係ない。実力さえあれば」
ユウの胸に、じわりと熱いものが込み上げていた。
「そうですよね! 本当に、かっこいい世界ですよね!」
「あーしが憧れているのは、女性でありながらSランク冒険者になったー」
シャリィのことか……
シャリィさんのことだ……
シンとユウの頭に同じ答えが浮かんだ。
「……バリー!」
その名を聞いた瞬間、シンとユウはそろってずっこけた。
シレリ教授がマクレイ教授の研究室を後にしたその日の午後、医術院に一枚の通知が回った。
本日、ホールにて協議の場を設ける。参加は各自の意思に委ねる。
それは、学長の名で記されていた。




