9戦いの季節(その二)
「まさか、アルトが通るなんてな」
緑の肌の仔竜が口にした驚嘆に、隣で同じ物を見ていた少年もかぶりを振った。
「まだ信じらんねーよ。夢でも見てんのかな」
だが、目の前にそびえる濃緑の掲示板に記されたのは、ポテトだったはずの仔竜の名前だ。
「なんかインチキしてんじゃねえの?」
「かもな。そうじゃなかったら……」
「……あいつ、四年のときはトップだったんだ。滑走だけは」
素っ気なく言い放ち、赤い仔竜は掲示板に背を向けた。二人の取り巻きも後に続く。
「だからって、かないっこないよ、ダンには」
「それに、二次はレース形式だもんな。決勝に残れるのはブロックの一位だけだし」
「おい、チャーリー」
不機嫌そうな表情で振り返るダンに、チャーリーは首を傾げた。
「な、なんだよ」
「飲むもの買ってきてくれ」
「何がいい?」
「なんでもでいい」
緑の仔竜とヒューの少年が手近な売店を目指して歩き去っていく。赤い仔竜は込みあう会場に背を向けて砂浜を歩きだした。白く輝いていた日差しが少し弱くなり、消化されつつある二次予選の光景にわずかな影をそえている。
やがて、ラグーンレースの喧騒が遥か遠くになると、彼は砂地に腰を下ろした。
不機嫌な顔のまま服のポケットから何かを取り出す。透明な保護用スリーブに包まれた、一枚のカード。
「あんな奴に、あんたはもったいない」
ライルのカードを見つめて、ダンは呟いた。
アルトが彼のファンであることを知ったのは、ほんの偶然だった。いつも一緒にいるヒューの少年と、教室でカードをみて喜んでいた姿を見かけたのだ。
四年の授業の時、自分よりも滑走の成績が良かった青い仔竜。そいつが全く飛べなくなったこと、そして、自分が誰よりも好きだったプレイヤーの失踪が結び合わないはずの二つを結びつけた。
あんな奴がファンになったりなんかするから。
赤い仔竜は苦々しい思いと決意を込めて、誓った。
「それを、俺が分からせてやる」
実った果実が色付くように太陽が深紅に染まっていく。その移り変りに呼び込まれた風が、複雑に入り組んだ山を抜け、街を、海を洗った。
『……セドナ・ラグーンレース仔竜の部もいよいよ大詰、決勝戦に突入だ。厳しい予選を経て決勝に辿り着いた小さな英雄達を待つのは……』
情感たっぷりに沈黙が置かれ、突風がその空隙を埋める。
『アペン山地から吹き下ろす山風だ』
いつしか、雑踏から洩れる声はひそやかになっていた。海の彼方にそびえるポートを見つめる少年も、その傍らの太ったドラゴンも、口を開こうとはしない。
『成竜でも扱うのが難しいこの風を、彼らはいかに乗り切るか。それでは、決勝に残った八名を紹介しよう。まずは大会優勝の大本命ゼッケン百十二番、ダン・トリエスタ!』
沸き起こる歓声と拍手。しかし、テッドは眉一つ動かさない。
『一次、二次と、タイム順位共に文句なしで一番グリッド獲得だ。続いてゼッケン四十番フォロ・ヴィンセント……』
一人、また一人と名前が呼ばれていく。二人は息をひそめ、その時を待った。
『五番グリッドは本大会初登場! ゼッケン七十四番のアルト・ロフナー』
「アルトーぉっ! 頑張ってー!」
「負けんじゃねぇぞーっ!」
山風を追い越すほどに、二人は声を張り上げた。
『五番グリッドは本大会初登場! ゼッケン七十四番のアルト・ロフナー』
遠くからの実況が、霞んで届いてくる。それを耳に入れながら、アルトは救命具の確認を終え、辺りを見回した。
夕暮迫るポートの上は、あの時と変わりがない。ただ一つ違うのは、自分よりも大きな仔竜たちが、ダンを含めて七名いることだ。
「係員に救命具を確認してもらったら、自分のグリッドについて!」
次々と確認をすませて並んでいく仔竜たち。なるべく赤い姿を視界に入れないように、アルトは五番のスタートラインに立った。
決勝戦はそれまでと違い、一直線に陸へは飛ばない。セドナの山風を背中に受けつつ、一度沖を目指し、浮かべられたブイを回り込んでからゴールへ向かう。
『そこに、勝つ道がある』
ファルスの連れてきた黒い友人は、そう言って作戦を説明した。
『スピードを競うレースで、体が小さいってのは不利なんだ。翼の面積が小さいと風を受けにくいから速度は出ないし、どうしても勝ちに行きにくい』
『それじゃあ……』
『でも、君には二つの利点がある。今回教えたポップアップスタートと体の小ささだよ』
体の大きな者は、悪い意味でも風の影響を受ける。特に、旋回をする時の軌道は、体の小さな者よりも大きく取らざるをえない。急激に曲がろうとすれば失速して揚力を失い、墜落してしまう。
『もともと小柄なドラゴンはコーナリングの軌道が小さいし、プネウマが多い君は多少無茶をしても揚力を失って失速しにくい』
『つまり、コーナーで勝負するってこと?』
『そうだよ。君なら多少強引にインをせめても大丈夫。最初に、ポップアップで加速して引き離されないようにする。そして近くに来たら、できる限りポールに間近でコーナリングするんだ。体を斜めに倒して、ポールに寄り添うようなイメージでね』
それから今日に至るまで、アルトは毎日コーナリングを学んできた。もちろん、海の風にできるかぎり慣れるようにしていた。
あとは、全力を出し切るだけだ。
意を決した青い仔竜の脇に、すべての選手が並び終える。係員がピストルを高く差し上げ、身構えた。
「……位置について!」
係員の声を聞きながら、アルトは自然と落ち着いていた。スタートラインの端で同じように身構える赤い姿を見ても気持ちはざわめかない。
ざわめくよりも、強く脈打っている。
誰よりも、早く飛びたい。
「よーい……」
心が翼の先まで張り詰めたその瞬間、
思考を貫く破裂音が、アルトの心と体を空へと解き放った。
蹴りだした体が宙に飛び出し、上げ気味にした翼が風を切り裂いて全身が浮き上がる。その下を滑るように滑空していく色とりどりの仔竜たち。その先を行くダンの姿が見える。
甲高い音と吹きつける風に負けないよう、歯を食いしばる。本選は予選よりも二百メートルほど距離が長い。その分、プネウマの蓄積で失速落下する直前まで上昇する必要があった。意識を集中させて翼のすべてを感じ取る。
(来たっ)
翼に走る失速感。練習のときに何度も感じていたあの『落ちる』感覚を翼から受け取って、アルトは体をすばやく前傾させた。
音と風が加速して唸りを上げる。真下にあった先行集団の最後尾がみるみる近づく。その大きな背中たちの向こうに、追いかけるべき赤い姿が見えた。
先行集団よりも下に位置取り、下向きだった翼を水平に引き上げる。途端に感じる音と風が切り裂くような高い音色に変わった。先行するダンを追いかける集団は彼の右手後方から、打ち合わせたように追いすがっていく。
ドラゴンの翼が作り出した気流は、後方を飛ぶものにとっての乱流になる。それを避けると同時にコーナーを小さく回るために先行したダンの気流を受けない位置を取っているのだ。
赤い姿が先行してポールを回る。体を斜めに倒し、ブレイズのプレイヤーを思わせるコンパクトで見事なコーナリングで旋回。後続集団を大きく引き離し、あっという間にコーナーにも差し掛かっていないアルトの脇を飛びすぎる。その姿を見た瞬間、仔竜は胸の中でカウントダウンを開始した。
『相手との遅れは十秒以下に抑えないと勝つのは難しいよ。それ以上引き離されると、いくらスタートが良くても追いつくのは無理だろうね』
『十秒ってどのくらい?』
『……そうだな。そのダン君がコーナーを回ったあと、君が二十数える間にコーナーをパスできなかったら、そのぐらい時間が立っていると思ったほうがいいよ』
ダンがターンした瞬間からすでに十一秒。アルトも翼を前傾させてさらに加速、他の仔竜が大回りをしたためにがら空きになったインコースへ、青い体が突進する。
急速に近づいてくる縞模様のポールに、グレイの指導の声が再び脳裏に浮かぶ。
『近くに来たら体を斜めに倒して、ポールに寄り添うようなイメージでね』
『それならさ――』
素朴な疑問をアルトは口にした。
『ライルみたいにコーナーにぴたっと張り付いて回るのはどうかな』
『……確かにコーナーを最短距離でパスできるけど、揚力のコントロールが難しいから急には無理だよ』
『でも、試すぐらいはいいでしょ?』
グレイを説得して追加された特別メニュー。だが、あと少しというところで体のバランスが崩れ、きれいに回ることができなかった。だが、あの時の練習は、海の上に浮かんだ目印のブイを使ってやったものだ。今目の前にあるのは、ブレイズのものと良くにたポール。
もしかすると、今ならできるかもしれない。
逡巡は瞬く間だった。そして決断も一瞬。
ポールに張り付くようにターン。まるでライルのように。
何度も繰り返し見てきた動画のイメージにぴったりとあわせていく。全身の力を振り絞ってむりやり翼を、全身を捻らせる。
ポールと自分の距離感がゼロになろうとした瞬間、
爆発にも似た空気音を残し、アルトの体は大気を見えない螺旋を描いて抉りぬき、垂直に体を立ててポールを旋回した。




