8弱い者、強い者(その二)
薄暗い部屋の中でファルスの太った体が限界まで縮こまる。それでも、恐怖の記憶を追い出すことはできなかった。
「う、ぐっ」
こみ上げた吐き気が洗面所に追いたて、押し込んだ食物が盛大にぶちまけられる。洗面台が汚物で汚れ、それでも胃液が、苦痛がこみ上げるのが止まらない。
ファルスは顔を上げた。
ガラスの向こうから、だらしなく膨れた男が涙目で見返してくる。口元も上着も汚物と食べかすで汚れ、苦痛と悲鳴にまみれた荒い息を吐き出すデブ。
『ライルは、根性なしなんかじゃない!』
洗面台のふちについていた両腕ががくがくと震えた。その振動が痺れになって全身を包み、体の力を奪っていく。膝を突いたファルスの脳裏に、涙目の仔竜の叫びが容赦なくリフレインし続ける。
『帰ってくるって信じてる!』
「……うるさい」
『ダメなんだよ! 今年じゃなくちゃ!』
「やめろ……」
『僕は今でもライルが好きなんだ』
「おねがいだから」
『絶対、帰ってくるんだ!』
「やめて、くれ」
最後の言葉は形にならなかった。振り絞った苦悶は湿った音にまみれて、胃液と一緒に吐き出されていた。
外には夏特有の、鋭利に尖った刃物のような金属質な光が満ち溢れていた。すっぱい匂いと悪夢の詰まった部屋からさまよい出たファルスの体が、熱気を含んだ大気に一瞬たじろぐ。
その心の隙に、地獄の記憶が滑り込んだ。
『全身の三分の二に重度の火傷、翼肢を始めとする十数箇所の骨折……実際生きているのが不思議なくらいですよ』
眠っていると思ったのか、ベッドのそばで医者はそう語った。
見舞いにきていたチームのクルーが洩らす、安堵と失意の混じった溜息。
『……委員会は、あれを危険行為として処分するそうだ』
『これで……今年は終わりですね……』
病室から誰も居なくなり、体が痛むほど強く噛み締めた奥歯。それは、絶対の再起を誓った一瞬でもあった。
言い渡された安静期間を一月も短縮して、リハビリは強行された。
飛ぶどころか、動く事さえままならない体を待っていたのは、補助具を使っての歩行訓練だった。病気や怪我をした者、レッドカードで処分を受けた者に混じって行なう作業に、焦燥と屈辱が降り積もっていく。
全てのプログラムが終了し、ようやく馴染み深い場所に帰ってきたのは、事故から半年も経ってからだった。
『いきなりで大丈夫か?』
『シーズンまで三ヵ月を切ってるんだぜ。もたもたしてたら新人に叩き出されちまう』
笑顔をつくろい、フェイスガードでそれ以上の本心を覆い隠す。自分より少し前に立つ、真新しいスーツの集団を見る目が自然ときつくなる。
『意外に早かったな、ライルの復帰』
『でも、噂じゃまだあちこちガタついてるらしいぜ。それにあんだけの大事故だ、しばらくは前みたいな飛びは無理さ』
『その隙に実力を見せつけて、次のレギュラーに俺がなるってわけだな』
『なに言ってんだか。俺に決まってんだろ』
冗談じゃない。そう毒付くとスタートラインに立ち、カタパルトに足を掛ける。たった半年いなかったぐらいで、ケツから殻も取れていないようなガキに舐められてたまるか。
だが、彼方に揺らめくジェットスポットを眺めたとき、小さな違和感がよぎった。頭を軽く振るとホームストレートに滑り降りる。加速していく世界の果てに、銀色の箱型が次第に大写しになっていく。
以前のように体を持ち上げ、ジェットスポットの息吹に体をさらそうとした瞬間――
『うわあぁっっ!!』
喉から絶叫ほとばしっていた。気が付いた時には体はコース外のネットに抱き留められ、呆然としたまま空から降りてくる救護班の姿を見つめていた。
『パイロ……フォビア?』
呆然としたこちらの復唱に、医者はゆっくりと頷いた。
『火炎恐怖症は、ブレイズのプレイヤーが罹る<病気>としては、それほど珍しいことではありません。スポットでの事故を起こした者の場合、大体二割程度がこの症例を』
『そんなことはどうでもいいんだよ! 薬でも催眠療法でも何でもいいから、今すぐ治して俺を空に戻してくれ!』
医者がゆっくりと首を振る。その瞳には同情も哀れみもなく、冷たい事実を突きつける光があるだけだった。
『この症例に関しては根気強い治療と、何より時間が必要です。残念ですが、あなたを魔法のように空に戻す方法はありません』
その一言が終わるよりも先に胸倉を掴み、殴っていた。そんなことが何の手立てにもならないと、心が認めてしまうまで罵り続けた。その行動すべてが陳腐で、ありきたりな抗いだったとしても。
心の疵は肉体の傷以上に、癒しがたかった。
幾度となくスポットに向かい、その度に体は拒絶した。繰り返されるカウンセリングと、あきれるほど好転しない病状。やがて拒絶はスタートポートに立った瞬間に嘔吐を催すほど、深く進行していた。
『仕方がない、今シーズンは諦めろ』
『な……なに言ってるんだよ!?』
発した声は抗議や怒号ではなく、悲鳴と哀願だった。
『俺は大丈夫なんだ! だから……』
『引退しろとは言ってない。だが、今のお前はレースには出せん』
さえぎるように発された言葉が、酷薄な響きで胸に突き刺さる。
『チームは、お前だけのためにあるんじゃないんだ』
その日から、ポートへ近づく機会は急速に失せていった。マスコミの追求を振り切るためにホテルを転々とする毎日。チームに連絡することも少なくなり、耐えられない孤独感の中、無駄なカウンセリングが続いていく。
『お泊りでしたら、ここにサインをお願いします』
書き付けたのは自分のものではない名前。半ばやけくそになって書いたFALES(偽り)という名前。ニセモノを意味するその言葉が、本名を書きつけた数を越えていく。
そして、
『ライル・ディオス選手を、当チームから除名することに決定しました』
一人のプレイヤーがブレイズの世界から消えた。
本人不在の記者会見。何度も呼び出しを受けながらエージェントに会わず、チームの誰とも一切連絡を取らなかった末の、結果だった。
気が付くと、ファルスはぐったりと道の端の木陰に座り込んでいた。全身から汗をだらしなく流し、熱と追憶の苦しみで痛む頭を幹に押し付けて。行き交うヒューやドラゴンが、怪訝そうに眺めすぎていく。
まるで、自分の体に充満したウソを暴こうとするように、じっと。
その視線を避けようと、太った体が身じろぎした。
違う、違うんだ。
俺は、
「おい」
「っ!?」
声にならない悲鳴を上げて声のする方を振り返ると、不安そうな表情でこちらを伺う友人の姿があった。
「……グレイ」
「ひどい顔だな。何があった?」
「なんで……ここに」
「あんな電話が掛かってくれば、全速で来るに決まってるだろ!」
覚えが無かった。ゆっくりと首を振ると、グレイは携帯電話の着信履歴に自分の名前があることを示し、それから言った。
「とにかく、まずは落ち着こう」
やってきた喫茶店の中に客はいなかったが、二人はあえて奥まった席を選んで座った。程よくかかった冷房に、乱れていた感情がほんの少し和らぐ。
「俺は、なんていってた」
「……『助けてくれ、グレイ』」
絶句してしまったこちらの顔を見てグレイは慌てたように口を開き、結局何も言わずにメニューを手にした。
「何か食うか? 大急ぎで来たからメシもまだ」
「グレイ」
「……なんだ?」
「新しい家を、探してくれ」
メニューを置くと、黒いドラゴンはこわばった体をほぐすように吐息をついた。
「家を探すのは構わないけど、理由くらいは聞かせてくれよ」
「理由なんてない」
「……じゃあ、よそに移る理由もないだろ?」
反射的に友人を睨み付けるが、相手は穏やかな視線のままこちらの返事を待っている。
やがて言葉は、自然と口を突いた。
「アルトがな……好きなんだとさ」
「……誰を?」
「ライル・ディオス」
グレイの表情が、微かな動揺と当惑を張りつけて固まった。掛けるべき言葉を見付けられない友人に先んじて言葉を継ぐ。
「ポスターも、インタビューの記事も、みんな持ってるって言ってたよ」
「……」
「あいつが俺に飛び方を教わった本当の理由、何だと思う?」
押し殺した声の内側に宿る焼け付くような痛み。知らない間に、体が震えていく。
「ライルのカードを取られて、バカにされたからだと。絶対に、ライルなら帰ってくるって……言ったんだよ」
注文を取りにきたらしい店員が、只ならぬ気配を察して去っていく。グレイは無表情に近い顔で、こちらを見つめていた。
「仔供ってのは恐ろしいよな。そいつが今どこに居て、どんな姿なのかなんて想像もしないんだから」
涙でにじんだ仔竜の顔が、胸を締め付ける。
「俺はもう、あいつの前に現われたくない。だから頼む、どこか遠くに……あいつの知らないところに、家を見つけて欲しいんだ」
告白を終えると、彼は友人の返事を待った。
グレイは黙ったまま時が移ろうのに任せ、やがて口を開いた。
「一つ、聞かせてもらえるか?」
「……何だ?」
「どうして、お前がいなくなる必要があるんだ?」
茫然と口を開けて、グレイの落ち着いた黒い顔を覗き込んだ。
「だって……俺は……」
「お前は、ファルスだろ」
淡々とした言葉が、太った体をその場に縛り付ける。それでも必死にもがいて逃げ出そうとする自分に、友人は言葉を続けた。
「確かに、俺にはブレイズをやってた友達がいた。でも、あいつはもういない。レース中の事故でジェットスポットに落ちて死んだ……」
「グ、グレイ……」
「……あの時、お前はそう言ったよな」
そう告げた瞳には、一切の皮肉も揶揄もない。あるのは、全てを透徹するような意志の光。
「お前が本当にファルスなら、その仔がライル・ディオスを好きだからって、どうってことないはずだろ」
返事をするべく、口は開かれた。
そして、そのままの姿勢で凍り付くより他に為す術のない自分がそこにいた。
「……ウソに、決まってるだろ」
うつむく体をテーブルで支えて呟く。
「俺は、生きてるんだぞ。生きて、全部覚えてるんだぞ。忘れるなんて、できるかよ」
『……お前、もういい加減にやめとけよ』
薄汚れたアパートの一室でジャンクフードをむさぼっている自分。長い運動不足と、ストレスが原因の過食によって、その体はすでにスポーツ選手のものから逸脱しつつあった。
『現役復帰はどうするんだ。チームから除名されたって、まだ……』
『もう、いいんだ』
フライドチキンと一緒に胸からこみ上げてくる苦しみを飲み込むと、ファルスはグレイに笑いかけた。
『正直、空を必死になって飛ぶのは飽きてたんだ。節制もトレーニングもうんざりなんだよ』
『それで、いいのか?』
『ブレイズプレイヤー、ライル・ディオスはもう死んだ。あの時スポットに落ちた時にな。俺は、ファルスだ』
自分が太って来たことも、不摂生が止まらないことも分かっていた。治療の効果は上がらず復帰もできず、そんな毎日が嫌でしょうがない。だからまた食って、家に閉じこもる。
今はまだ、誰もこのことを知らない。目の前にいる気のいい友人以外は誰も。
このまま消えてしまえば、ライル・ディオスは数ある『失踪した有名人』の名簿の中にしまわれてしまう。そうすれば誰も、無様に醜く太った自分がライルだとは気付かない。
『俺はもう、ファルスでいいんだ』
そうして自分は別の存在になった。はずだった。
その偽りをアルトが全部暴いてしまった。自分が未練たらしく過去にしがみついている臆病者だということを。両腕をテーブルに付き、崩れ落ちそうになる体を支えながらファルスは声を絞り出した。
「なぁ、グレイ、俺は、どうしたらよかったんだ? 何を聞いても同じようなことしか言わないカウンセラーに神経を削られて磨り減っていればよかったのか? それとも、本当にあのままスポットに落ちて焼け死んでれば良かったのか!?」
一言口にするたびに、惨めが内側から染み出てくるようだった。誰にも見せないように隠し続けていたものが、とめどなくあふれ出る。
「どんなにやっても、ダメなんだ。……怖いんだ。思うだけでも怖いんだ。大丈夫だって思って、もう一度戻ろうと思っても、あそこに立つたびに怖くなるんだ。意地張っても、ごまかしても、思い込んでもダメなんだ。怖くて……怖いんだ」
吐き出すたびに自分が小さく萎んでいく。無価値が頭を押さえつけて、体がぐったりと座席に沈み込んでいった。
「でも、そんなこと言えなかった。誰にも知られたくなかった……そんなこと知られたら、俺は、二度と戻れなくなっちまう……」
誰にもいえなかった一言。チームの人間にも、カウンセラーにも、目の前の友人にすら。
「俺は……」
「分かったよ」
握り締めた青い拳に黒い手を置いて、友人は言った。
「家は探しておく。ただ、すぐには無理だから、ちょっと待っていてくれ」
その一言で全身の緊張がほぐれていく。自分の体の素直すぎる反応を恨めしく思いながら、ファルスは呟いた。
「……なぁ」
「なんだ?」
「俺のこと、根性なしだと思うだろ」
「……ああ。そうだな」
率直な返事に自嘲の笑みを浮かべて顔を上げると、グレイはじっとこちらを見つめていた。
「でも、そんなことはどうでもいい。……お前がファルスになった日、俺は言ったよな。『お前が誰になろうが、俺はお前の友達だ』って」
「……ああ」
「お前がブレイズのプレイヤーでなくなろうと、根性があろうとなかろうと、それは変わらない。そのことだけは、忘れないでくれ」
知らずのうちに、深く息をついていた。
胃の不快感が消えていく。抱えて続けてきた重いものが、恐怖が、呼気と一緒に体から抜けていくような、そんな気分だった。
「ありがとう、グレイ」
感謝の言葉に、黙って友人が頷く。
ファルスは、もう一度深いため息をついた。その一呼吸はが、自分にとって久しぶりに吸う空気であるかのように。




