7裏切りの世界(その三)
ボートが鈍い音と共に桟橋へ横付けされると、アルトはようやく体から力を抜いた。そんなこちらの姿を尻目に、ダンは慣れた身ごなしで渡り板の上に飛び上がる。
「ほら、早く来いよ!」
「う……うん」
係員に手伝ってもらいなんとか揺れる船から這い登ると、仔竜は陸の方に向き直った。
五百メートルという言葉が信じられないくらいに砂浜が遠く感じられる。しかも、ここにくる間に風が強くなり、波も大きくうねりだしていた。
「なに、もたもたしてんだ! やる気がないなら不戦敗にするぞ!」
「い、今行くよ!」
高圧な物言いのダンに怒鳴り返すと、アルトも最上階への階段を登り始めた。
潮騒に混じって聞こえる風の音。骨組みだけで構成された櫓を揺らしていくそれは、今まで感じたことのない強さを含んでいた。
「う……わあ……」
そして、辿り着いた場所で仔竜は息を飲んだ。
薄い鋼板を載せただけの足場は仔竜が百名は座れるぐらいの広がりがあり、その周りに申し訳程度のフェンスが巡らされている。隅の方に監視員の座る場所と、救命具らしい道具が置かれているだけで他にはなにもない。
自分を取り囲むようにして広がる海は沈んでいく夕日に染め上げられて、赤と橙の絨毯のように見えた。
「めずらしいからって、見とれてるんじゃないぜ」
すでにスタート地点の前に陣取っていたダンが、からかうように声を掛けてくる。
なんとか平静を取り繕うと、アルトは同じようにスタートラインの描かれたポートの端まで歩いた。
「君、救命具の確認をして」
「は、はい」
係員に言われるまま、仔竜は胸に付けたライフジャケットの結び目や、止め具を確かめにかかった。
「大丈夫かい?」
「えっと……はい」
「おい、ちょっとまて」
突然、赤い指がアルトの脇の下にのびた。
「何するんだよ!?」
「うるせえな! ここがちゃんと締まってないんだよ」
付け直された止め具はわずかに肺を締め付けるようだが、肉厚の救命具は以前よりも体に密着したようだった。
「あ……ありがとう」
「これから海に落ちることになるんだ。救命具の確認はしっかりしとけよ」
嫌味たっぷりの返答にむっとしながら、アルトは少しだけダンの行為に感心した。
「実際のレースじゃピストルが合図だ。今は練習だから係員に頼んで合図をやってもらう」
「分かった」
赤い仔竜が目くばせすると、すでにスタートラインの端にいた係員が片手を挙げる。
「二人とも、位置について」
鋼板に印された白線の前につくと、仔竜達は互いの翼を広げて幅を確認した。
「スタート五秒前、四、三」
カウントが進んでいくうちに、言い知れない不安がこみあげてきた。風が、練習用ポートの上よりも強いように感じる。
「二、一、スタート!」
迷いを振り払うようにアルトは足場を蹴って、大気の中へ飛び込んだ。
次の瞬間に待っていたのは、裏切りだった。
「うわああっっ!?」
真っすぐに進むはずの体が左に押しながされていく。あわてて右へ傾けようとするものの、まったく思う様にいかない。
「じゃあな! ポテトには塩水の中がお似合いだぜ!」
嘲弄を残して、波乗りでもするようにダンが飛び去っていく。その背中に追いすがろうとアルトは必死に体勢を立て直そうとした。
だが、もがけばもがくほど、吹き付ける風に体力が奪われていく。
「……あれ?」
唐突に風が弱まった。先を行くダンが体を上げ気味にして、揚力重視の姿勢になっているのが見える。
今のうちに差を挽回しよう、アルトは体を陸の方に向き直らせ、首を下げた。
そこに、この日最後の破綻が訪れた。
「うわあっ……」
セドナの街を囲む山々、その谷間から吹き下ろす風が一つになり、濁流のように仔竜の体に襲いかかった。圧力に耐えきれなくなった翼から力が抜け、体が海へと急激に崩落していく。
アルトは理解した。
なぜダンがあの姿勢を取ったのかも、そして救命具を確認した本当の理由も。
冷たい海水に飲み込まれながら、仔竜は自分の完全な敗北を悟った。
落ちてからそれほど時を置かずに、アルトは待機していたボートに引き上げられた。
「海の上は難しいんだよ。練習場は壁や防風林なんかで守られているけど、ここではどんな方向からでも風が吹くからね」
やさしく諭してくれる救護係の言葉も、今の自分には虚ろな響きに過ぎない。
呆然としたまま、仔竜は近付いてくる港を眺めていた。
『それなら、今年のラグーンレースで勝負しようぜ』
初めからこちらに勝算が無いと分かっていたから、あんな提案をだしたのだ。万が一飛べるようになっても、海の風を知らなければ話にならない。
「ちくしょう……」
知らないうちに噛み締めていた口から、悔しさが漏れた。
「おーい! 大丈夫かー!」
「アルトーっ!」
聞き慣れた声に、アルトは勢い良く顔を上げた。
船着場で手を振る姿に、冷えかかっていた心が再び活力を取り戻す。自分にはまだ望みがある、きっとファルスなら何とかしてくれる。
「おじさーんっ! テッドーっ!」
ボートが接舷するかしないかのうちに、アルトは桟橋をよじ登ってファルスの大きな体へと走り寄った。
「おじさん! 僕……」
「分かってる」
まだ乾き切っていないこちらの姿に太ったドラゴンは苦笑いを浮かべた。
「会ったら説教してやろうと思ったが、その様子じゃ必要なさそうだな」
「おじさん、海の上ってどうやって飛ぶの!?」
「おいおい……」
ため息をつくと、彼は少し困ったように首を傾けた。
「やる気があるのはいいが、世の中には情熱だけじゃどうしようもない事もあるって、知っておいたほうがいいぞ」
「ど……どういうこと?」
水平線の彼方に太陽が沈んでいく。そして訪れる夜の気配が、アルトの中に言い知れない不安を呼び起こした。
「多分、お前は海の上にも何かコツがあるんじゃないかって思ってたろ」
「う、うん」
「しかも、俺がそれを知ってるんじゃないかってな」
「……違うの?」
ファルスはそっと、首を横に振った。
「俺の友達もラグーンレースに出たことがあったそうだ。でも、結果は三位入賞が精一杯だ」
「いきなりで三位!?」
「言っとくが、あいつは毎日竜便をやって、かつ自然の風相手の競技をしていたからだ。お前とあいつじゃ経験が違いすぎる」
「じゃあ! 今から練習したらどうかな!」
その問い掛けに答えず、ファルスは道路の方へ歩き始めた。慌ててアルトは後を追い、テッドがそれに続く。
「ねえ! おじさんてば!」
「少なくとも半年」
「そ、そんなに……」
「早くて、な」
そう言いながら振り返るファルスの顔には、いたわりというより苦しみのような表情が浮かんでいた。
「とにかく、今年は諦めろ。練習していけば来年にはなんとかいい勝負に……」
「それじゃダメなんだよ! 今年じゃなくちゃ!」
「いい加減にしろっ!」
驚くほど強い怒声に、アルトは身を竦ませた。
「悔しいのは分かるが、無理すれば命にも関わるんだぞ!」
「でも……」
「なんだって、今年なんだ」
語調を和らげるとファルスは腰を屈めて、こちらと同じ高さまで顔を下げた。
「一年待てない事情でもあるのか?」
「……取られてるんだ」
「取られてるって、何を」
「ライル・ディオスのカードを」
言ってから、アルトは少し後悔した。ファルスはかすかに口を開き、自分を穴が開くほど凝視している。
「おじさんにはバカみたいに思えるだろうけど、僕は今でもライルが好きなんだ。カードだけじゃなくてポスターもビデオも、インタビュー記事の載った雑誌だって持ってる」
彫像のように動きの凍り付いた相手に、仔竜はさらにまくしたてた。
「それに、ダンはライルが帰ってこないって言ったんだ! でも、僕は帰ってくるって信じてる! だから、あいつに勝って……」
「もうやめろ」
呟くように、それでいてはっきりと、ファルスは告げた。
「ダンの言う通りだ。ライル・ディオスは現役復帰できない」
「お……おじさん?」
「ライルは……俺も知ってる。失踪して二年経ったのも」
不気味なくらい表情を無くした藍色の顔は、淡々と続けた。
「事故で一年飛べなかった奴の復帰率は、約四十パーセントと言われてる。それに、復帰したとしても、以前のようなプレイは望めないのが普通だ」
「でも! ライルなら……」
「ライルなら、なんだ」
ファルスの押し殺した声が、それ以上の言葉を止めさせる。
いきなり背を向けると、大きな体は振り返りもせずに歩き始めた。
「自然相手に無茶をすれば命に関わる。それに……お前が勝ったからって、ライルが帰ってくるわけじゃないだろ」
「な……」
一瞬、アルトは混乱した。
相手の態度と発言が唐突すぎて、理解が追い付かない。
「なんで……なんでそんなこと言うんだよ!?」
「全部、お前のためだ」
背中越しに届いた声は、驚くほど冷たかった。
「ダンとの勝負は諦めろ。事故にあったくらいで逃げ出すような、根性なしのプレイヤーのために、お前が体を張ることはない」
耳の奥で、憤りが轟いた。
裏切りにも等しいファルスの発言に、アルトの内側が怒りで充満する。
「ライルは、根性なしなんかじゃない!」
その一声が、立ち去ろうとしていたファルスの足を止めた。
「絶対、帰ってくるんだ!」
「いい加減に……」
うるさそうに振り返った太った姿が、滲んだ視界の先で歪む。
「おまえ……」
勝手に伝い落ちていく涙が、相手の言葉を詰まらせる。その脇を、アルトは逃げるように駆け抜ける。
夜の気配のように深まっていく絶望を感じながら、アルトは家へ向かって走っていった。




