ホーリーワールド
勝利を告げる音楽が、モニターの光だけに照らされた小さな部屋に鳴り響いていた。
画面の中央には、金色の大きな文字が浮かんでいる。
『THE END』
その文字が消えると、ゲームの開発に携わったスタッフたちの名前が次々と流れ始めた。
エイデンは大きく息を吐き、椅子の背もたれに体を預ける。
「……やっとクリアした」
ここ一週間ほど、空いた時間のほとんどをこのゲームに費やしていた。
最初から最後まで、文句のつけようがないほど満足できる作品だった。
ストーリーは面白い。
キャラクターも魅力的だ。
世界には確かな息遣いが感じられる。
そして何より、エンディングまで気持ちよく終わってくれた。
「今年最高のゲームって言われるだけあるな」
エイデンは机の上に置いてあった缶飲料を手に取り、プルタブを開けると一気に飲み干した。
モニターの隅に表示されたデジタル時計は、23時48分を示している。
「明日も仕事か……」
凝り固まった首を軽く回す。
そろそろパソコンの電源を切ろうとした、そのときだった。
普段使っている掲示板アプリから通知が届いた。
【トレンドの話題】
『Holy Worldが再び話題に』
エイデンは小さく笑った。
「またHoly Worldか?」
あのゲームは、いつも何かと話題になる。
別に出来が悪いからではない。
むしろ逆だ。
Holy Worldは、これまで発売されたオープンワールドRPGの中でも最高傑作の一つだと、ほとんどのプレイヤーが認めていた。
世界は途方もなく広い。
サブクエストは数千にも及ぶ。
NPC一人一人に独自の生活パターンが設定されている。
さらに、プレイヤーの選択によって一部のストーリー展開まで変化する。
つまり――
ほぼ完璧なゲームだった。
「……ほぼ、だけどな」
問題は、たった一つ。
エンディングだ。
エイデンは掲示板を開いた。
一番上に表示されていた投稿が、真っ先に目に飛び込んでくる。
『100時間もプレイした結果が、仲間に刺されて終わりとかマジ?』
その下には、
『開発、Holy Worldのエンディングを完全にぶち壊しただろ』
さらに、
『今までの旅、全部意味なかったじゃん』
コメント欄は不満の声で埋め尽くされていた。
怒っている者。
失望している者。
開発会社が新しいエンディングを追加してくれることを願っている者までいる。
エイデンは薄く笑った。
「俺はそこまで行ったことないけどな」
Holy World自体は数か月前に購入していた。
だが仕事が忙しく、プレイできたのは序盤だけだった。
セーブデータも、未だにチャプター1で止まっている。
それ以来、ゲームには触れていなかった。
とはいえ、結末が気にならなかったわけではない。
好奇心に負け、ネットでネタバレを調べてしまったのだ。
そこでエイデンは、Holy Worldの結末を知った。
魔王を倒したあと――
勇者パーティーの一人が、主人公を裏切る。
裏切り者は仲間たちを次々と殺し、最後には自分こそが世界を救った英雄だと名乗る。
何百万人ものプレイヤーを激怒させたエンディングだった。
「考えてみれば……」
エイデンは頬杖をついた。
「主人公も可哀想だよな」
最初からずっと戦い続け、
魔物を倒し、
多くの人々を救った。
それなのに最後は、仲間に刺されてあっさり死ぬ。
「ひでぇ話だ」
エイデンは掲示板を閉じた。
「さっきクリアしたゲームが、こんな終わり方じゃなくてよかったよ」
パソコンの電源を落とす。
それまでモニターの光に照らされていた部屋が、一瞬にして暗闇に包まれた。
窓の外から差し込む街灯の光だけが、かすかに室内を照らしている。
エイデンは大きなあくびをした。
「もう寝るか」
ベッドに体を横たえる。
眠気が訪れるまで、そう時間はかからなかった。
ゆっくりと――
まぶたが閉じていく。
意識が遠のいていく。
しかし――
しばらくして。
何かがおかしいことに気づいた。
軽い。
体が、異様なほど軽い。
まるで自分の体から重さそのものが消えてしまったかのようだった。
「……ん?」
半分眠ったまま、目を開けようとする。
暗い。
何もない。
空もない。
地面もない。
光さえ存在しない。
エイデンの体は、果てしない虚無の中を漂っていた。
「これ……夢か?」
手を動かそうとする。
動かない。
足も。
動かない。
全身が、目に見えない何かに押さえつけられているようだった。
次第に不安が込み上げてくる。
叫ぼうとする。
しかし、声が出ない。
やがて――
遥か前方に、一つの光が現れた。
最初は小さな点だった。
だが、徐々に大きくなっていく。
そして、どんどん眩しさを増していった。
ついには視界のすべてが光に飲み込まれ――
「――っ!」
エイデンは荒い息を吐きながら目を覚ました。
「はぁ……はぁ……」
心臓が激しく脈打っている。
勢いよく上半身を起こし、胸元を押さえた。
「夢……」
だが、その言葉は途中で止まった。
目の前にある天井は、自分のアパートのものではなかった。
木造の天井。
むき出しになった梁。
ところどころ、長い年月によって傷んでいる。
「……は?」
エイデンは何度か瞬きをした。
右を見る。
白いカーテンのかかった木製の窓。
その下には小さな机がある。
反対側には簡素なクローゼット。
部屋の内装は、ほとんどすべて木でできていた。
テレビもない。
エアコンもない。
パソコンもない。
「どこだ……ここ?」
エイデンは慌ててベッドから降りた。
足をつくと、木の床が小さく軋む。
その音は、あまりにも生々しかった。
「夢じゃ……ない?」
自分の腕をつねる。
「痛っ……」
痛い。
今度は少し強くつねってみる。
さらに鮮明な痛みが返ってきた。
ありえない。
夢なら、こんなにも現実的なはずがない。
エイデンはゆっくりと部屋を見回した。
ベッド。
机。
クローゼット。
数冊の本が並んだ小さな棚。
どれも、中世の村にある家のような造りだった。
「なんで……」
「なんで俺がこんなところに?」
必死に記憶を辿る。
最後にしていたことは――
寝た。
それだけだ。
事故にも遭っていない。
トラックに轢かれたわけでもない。
病気だったわけでもない。
ただ――
眠っただけ。
「それだけ……だよな?」
考えれば考えるほど、意味が分からない。
そのとき。
部屋の隅に置かれたある物に目が止まった。
姿見だった。
古びた木製の枠。
鏡面は少し曇っている。
なぜだろう。
エイデンの心臓が、再び速く鼓動し始めた。
胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。
まるで――
あの鏡を見てはいけないと、本能が訴えているようだった。
それでも、好奇心が恐怖に勝った。
一歩。
二歩。
三歩。
鏡の真正面に立つ。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「…………」
時間が止まったような気がした。
鏡の中に立っている人物は、自分ではなかった。
これまで見慣れてきた二十代の男ではない。
そこにいたのは、十六歳ほどの少年だった。
短い黒髪。
青い瞳。
まだ幼さの残る顔立ち。
以前よりも細い体。
エイデンは反射的に自分の頬へ触れた。
鏡の少年も、同じ動きをする。
口を開く。
鏡の少年も口を開いた。
「違う……」
一歩後ずさる。
「そんな……ありえない……」
この顔を――
知っている。
いや。
よく知っている。
「これ……」
「俺のキャラだ……」
数か月前、自分で作ったキャラクター。
あるゲームのチャプター1までしか使わなかったキャラクター。
何百万人ものプレイヤーからエンディングを酷評されたゲーム。
そのゲームの名は――
Holy World。
エイデンの体が固まった。
頭の中が真っ白になる。
キャラクターを作成したときの記憶が、一つずつ蘇ってきた。
髪型を選んだ。
瞳の色を変えた。
身長を調整した。
そして最後に、名前を入力した。
――Eiden。
エイデンはもう一度、鏡の中の自分を見つめた。
今度は、じっくりと。
間違いない。
見間違えるはずがない。
これは本当に、自分が作ったキャラクターだ。
喉が乾く。
ありえないはずの一つの可能性が、頭の中に浮かび上がった。
もし、この顔が自分の作ったキャラクターのものなら。
もし、この家が主人公の初期地点にある家と似ているのなら。
もし、今起きていることすべてが現実なのだとしたら――
考えられる可能性は、一つしかない。
信じられないという思いを滲ませながら、エイデンは小さく呟いた。
「……まさか……」
「……俺、本当にHoly Worldの中に入っちまったのか?」
その言葉だけが、静かな部屋に残った。
そして、生まれて初めて――
エイデンは自分の予想が外れていてほしいと、心の底から願った。




