第70話 残された時間
「飲んでよ、容保」
大地が容保に向かって、お酒の入った竹の水筒を差し出した。
日が沈むころに始まった西軍の鶴ヶ城西出丸付近に対する攻撃に、会津兵はどうにか持ちこたえることができた。少なくない被害が出ていたが、敵の城内への侵入を許すことなく、どうにか落ち着きを取り戻した。
天守閣西側の広場では片づけが続いていた。死線を切り抜けた緊張から解放されて笑顔を見せるものも何人かいた。
その片隅の目立たない場所で赤べえの牛車が停まっていた。八重がこの場所なら大丈夫と言ってここまで連れてきてくれた。
牛車のなかは狭いが、今夜容保たちはここで休む。
容保は杯を大地に向けて差し出した。
「受けよう」
大地が酒を少しだけ注いで、容保はそれに口を付けた。
容保は初めて大地に会った夜のことを思い出していた。
あのときの大地は容保に対するあからさまな敵意を見せていた。
殿さまと呼ばれる立場の容保には、会ったこともない人間に、思い当たる節のない憎しみを買うことがよくある。全部を気にしていたら身が持たない。
あの夜の容保は、大地のことをそんな大勢の中の一人とみなしていた。
いまは違う。
大地がいら立っていた理由が少しわかるし、もっと理解してみたい。
できることなら好かれたいとすら思う。
「なににやついてんのさ」
容保に向けてそう言う大地も、表情は柔らかい。
「大地がいつだったかわたしに言ったのだぞ? わたしが民の顔を見ていないと。だからわたしは見てきた。そして今も見ている」
「ふうん」
容保は竹筒を受け取り、何か言いたそうな顔の大地の杯に酒を注いだ。
決着をつける。
容保と照が時空の渦に巻き込まれたとき、容保は大地に向けて言った。
自分たちは決着をつけなければならないのだと。
世界の崩壊を防ぐという大本の目的は同じでも、そのあとの目指す結論が、過去からきたかわひらこと未来から来た兎奇子では違う。
そして同様に、容保と大地でもまた違うのだ。
壊れかけた時空で、世界はいま二つに分かれている。
容保たちにはそのどちらかを選択する力がある。
ひとつは会津戦争が起こった未来、今いる世界の延長線上。会津は衰退しているが、そこでは大地と岬が夫婦として共に生きている。
もうひとつは会津戦争が起こらなかった未来。会津は繁栄しているが、岬は他の男性と結婚してしまうらしい。
容保は会津の繁栄を願い、大地は岬との幸せを願う。
どちらかしか願いが叶わないその結論が出る時は、きっと迫っている。
体調に不安を抱える容保がお酒をあまり飲まないのはいつものことで、また、照がたらふく飲むのもいつものことだった。彼女は楽しく酔っている。いいことだ。
「のう弟よ、あれをどう思います?」
照が容保の耳元でささやいた。
照の見ている先には大地と岬がいた。
二人は隣り合って座り、何かを語り合い、笑い、盛り上がっている。
「楽しそうですね」
「あのふたり、あんなに仲が良かったでしょうか?」
「夫婦なのだから、ああいうものでは?」
「むー」
照は容保の答えに納得がいかないご様子。
「このまえまではだいぶギクシャクしていましたよ。二人は違う世界から来ているのでしょ? 知っている人のようで中身は別。岬殿は何度も言っていました『ニセモノ』と」
容保は、大地と岬をもう一度よく眺めた。
「きっと、あらためて恋をしたということなのでしょうね」
「……まあ、そういうことですかねえ」
照がなおも、何かを容保に言いたそうだった。
「姉上、わたしがこんなことをいったら奇妙ですか?」
「そんなことはありません。わたしはただ、わたしたちが巻き込まれたこの出来事の不思議について考えていました」
「ええ、大人になってからは、姉上とこのようにゆっくりとした時間を過ごせることなどなかった」
「わたしの願いが叶いました。……気が済んだとも言える」
お酒の酔いで赤く染まった照の表情に、何か淡いものが浮かんだが、その意味を容保が察することはできなかった。
容保はひとつ気になっていたことを、大地の隣の岬にたずねた。
「岬殿は『この世界の』わたしがどこにいるかを知っているのか?」
「一番安全だとされている場所にいます。鉄門の内側」
しばらく語らいが続いた後で、牛車の中のほのかな明かりを消して、眠ることにした。
あとから思えば、容保と大地が酒を酌み交わしたのは、この夜が最後だった。
容保は夜中にそっと牛車を抜け出して、表を歩いた。
この時間でも戦場であるこの城に完全な静寂が訪れることはない。
どこかで断続的に砲弾の音が聞こえる。眠らずにいる兵もいる。
容保は兵たちが自分に気づかないよう、陣笠を深くかぶって歩いた。
少し行くと、兎奇子が立っていることに容保は気づいた。
兎奇子は夜空を見上げている。
「お前は休まぬのか?」
呼びかけに振り返った兎奇子の顔には不安が浮かんでいた。
「どうも気になってな。うちは未来の陣営から抜け出してしまった。あっちからしたら良くない戦況や。次の手を打ってくる気がする」
「猶予はあるのだろうか。せめてあと一日」
「一日……どうやろ、なんとも言えんな。どうして一日?」
容保は問いに答えなかった。
(そうか……やはり時間はないのか)
兎奇子と別れて、容保はもう少し歩き天守閣のすぐそばまで来た。
天守閣を見上げる。西側はまだあまり砲弾による損傷がない。
容保は聖刀『白虎』を腰から抜いた。
高くかざすと白く光り出す。そして容保の身体が浮かび上がった。
ゆっくりと容保の身体は登っていく。
思いつめた眼差しで赤い瓦を眺めて、そして彼は五層の天守閣の最上階までたどり着いた。
宙に浮いた容保は中へと漂い、進んでいく。
そこには誰かがいた。灯りがなく、互いに顔がよく見えない状況で、容保は語り掛けた。
「なんとなくお前はここにいるような気がしたよ。……同じ自分だから、考えることがわかるのだろうな」
それはもう一人の容保、この世界で籠城戦の指揮をとる松平容保だった。




