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第1話 松平容保公と徳川慶喜公、開陽丸にてもののけの襲撃を受ける①



「わたしはどうしてここにいる?」


 冬の海の波音にかき消されそうなほどの小さい声で、彼はつぶやいた。

 黒い羽織姿の、色白く美しい顔立ちをしたお殿様。彼の名は松平容保公。


 彼の命令で、陸の上ではたくさんの侍たちが激しい戦いを繰り広げた。もしかすると今この時も。


 容保の役目は自分の家来たちの戦いを見届けることであり、もし残念ながら負けるときは、彼が戦いを終わらせなければならないはずだった。

 それなのに彼は船の上。こんなにとおく離れてしまったら、なにもできない。


 容保が乗る軍艦開陽丸は大坂湾に浮かんでいた。


 大きな戦いがあったのは京の鳥羽・伏見周辺。


 それは目の錯覚であったかもしれないが、戦場の残り火で向こうの空が、まだかすかに赤く照らされているように、容保公には感じられた。



 徳川慶喜公は容保の隣で同じように京の方角の空を見つめていたが、やがて顔をそらした。

「容保、こんな寒いところにいたら体に良くない。なかで休んでいた方がいいぜ」

「上様、わたしたちは本当にこれでよかったのですか?」


 慶喜は徳川幕府の第十五代将軍だった。日本の武士の中で頂点に立っていた人。このときはもう違う。

「これがいちばんよい方法だ。我らが大坂にとどまっていたら、取り返しのつかないことになっていた」


 戦場から離れることを決めたのは慶喜公だった。


 容保は慶喜に顔を向ける。

「一番良い方法……。本当にそうなのでしょうか。わたしにはわかりません。古来わたしたちのような将がいたのか。少なくともこれはわたしたちが願った結末ではない」


「まだなにも終わってはいない。ここからできることを探すのだ。立て直すぞ」

 慶喜は船室のなかへと戻った。自分の決めたことを悔いる言葉を、彼が容保に向かって口にすることは決してない。


「立て直すぞと言っても……。わたしたちは、家臣たちに命令する権利をいまだ有しているのだろうか? 結局、あの方の考えを正しく理解して支えることが、わたしにはできなかったということか……」

 残された容保はもう一度京のほうの夜空を眺め、そしてうつむいた。


 誰も彼の問いに答えてはくれない。波風の音が容保を包むだけ。


「この国を平安に導きたかった。そしてもし不幸にも戦いが始まってしまったならば、将として力をふるってみたかった。……どちらも全くかなわずに、ここで何をやっているのだろう」


 ここでもし、荒れる海のように感情を外に向かって爆発させることができるくらいだったら、彼の人生にはもうすこし安らぎがあったのかもしれない。けれども容保はそういう人間ではなかった。


 しかし、誰にも見せなかっただけで、大きな心の揺らぎが彼の中にだってあった。それは当たり前のこと。

「悔しいなあ……」


 そうつぶやいたとき、不意に何かが弾けたような、異常な気配を容保は感じた。

耳鳴りかとも思ったが、何かが違う。


 暗い水面の上に、人の姿。若い男性のようだ。

 見たことのない装い。中空に彼は浮かんでいる。


 いつのまにか容保自身も闇の中に浮かんでいることに気づいた。


 若者は何も言わずにじっと容保を見つめている。


 風に紛れて、途切れ途切れの言葉が聞こえてきた。


『……やはりここが特異点でおじゃる』


 容保はあたりを見回した。

『……人の心と宇宙は同じような構造なのね。……それは哲学的な意味ではなく』

『……照姫さまのお力を借りるしかないでおじゃるな』


 気づくと若者の姿は消えていた。容保は何もなかったかのように甲板の上にいた。

 

 そして彼の背後に立つものがあった。


「心中お察しします。容保さま」

 突然の声に容保が驚きつつ振りかえると、そこにいたのは知らない女性だった。


 髪は短く、紫色の着物に藍色の義経袴。着物は白襷でまとめられている。その手には、彼女の背よりも高い薙刀が握られていた。


 右手を腰の刀に置いて身構える容保を見て、女性は手にしていた薙刀を自分の前に置いた。刃が容保のほうを向かない置き方。これは敵意がない証。


 彼女は膝をつき、両手のこぶしを甲板について、深くお辞儀をした。

「ご無礼をお許しください。わたしはあなた様のお力を借りたく参上仕りました」


 容保は少しの間彼女の様子を眺めて、それから構えを解いた。


「そなたの名は?」

「岬ともうします。そしてこちらはかわひらこ」


「え?」


 岬と名乗った女性の背後の暗闇から、もう一人が現れた。小柄な男。年の分かりづらい容貌で、緑色の烏帽子をかぶっている。その姿は貴族のようにも見えた。

「容保さま、お初にお目にかかりまする。あなたはわたしによって驚いたでおじゃるか?」


 風鈴のような軽い声。


 どこか愛嬌のある歩みでかわひらこは岬の隣まで来て、そして彼女と同じように膝まづいた。


「引き裂かれてふたつになってしまったこの世界を正しき姿に戻すことがわたしの役目。そのためには容保さまの助けが必要なのでおじゃる。あなたに重要な選択をしていただきたい」


 容保にとって、かわひらこの言葉の意味は、理解することが難しいものだった。


「それは……、どういうことなのか。今この日の本の国は、いくさによって二つに分かれようとしている。それを言っているのだろうか?」


「恐れながら、そのとおりであり、違くもあるだろうという、無礼な答えしかわたしは持ちませぬ。口ですべてを伝えることができる類の話ではないのでおじゃる。あなた様に実際に見ていただかなければ」


「なるほど。しかし、わたしはここを離れるわけにはいかぬぞ。この船にいる今の状態がそもそも良いことではないというのに、その上そなたたちとどこかへ赴くなどとは、そのようなこと……」


 容保が「上様が許さぬ」と言おうとしたその時、船室の扉が開いた。


 慶喜。彼らの話し声を察したのだろうか。逆光で表情は良く見えない。


「上様」

「容保、そこにいるのは何者だ?」


「……この二人が何者なのか、わたしにもわかりませぬ。話を聞いていたところです」


 慶喜は扉から進み出て、近づいてきた。そして乾いたまなざしで、岬とかわひらこを交互に眺めた。


「お前たちも確かに怪しいな。が、わしが言ったのは向こうの連中のことだ」


 慶喜の視線を送った先。容保がそちらを振り向くとそこにいたのは4人の大きな人影。


 岬が置いてあった薙刀に手を伸ばして立ち上がる。


「あちゃー、巻いたつもりだったけどな」


 呟く彼女の薙刀が、ほのかな赤い光を帯び始めた。

第2話 松平容保公①

2026年6月1日18:30頃投稿予定

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― 新着の感想 ―
歴史物はあまり馴染みが無いのですが、幕末はかなり良い時代チョイスだと感じます! 戦国時代等同様、色々な思惑が巡っている感じがしますよね。 高評価&ブックマークしました!
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