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俺でありたいのに



第十一章 俺でありたいのに


 朝、鏡の前に立った。

 ブラウスのボタンを留めながら、思わず息をつく。

 今日も、沙月に言われるまま服を選んだ。

 淡いベージュのブラウスに、薄いグレーのフレアスカート。

 裾には小さなリボンとレースが縫い込まれていて、陽に透けると柔らかく光を返す。


 ――似合ってしまう。

 それが、いちばん怖い。


 俺は男だ。

 昔からそう言い聞かせてきた。

 けれど鏡の中の“俺”は、もうどこか違って見える。


 肩の線が少し細くなったせいかもしれない。

 肌の色がわずかに明るくなったせいかもしれない。

 けれどそれ以上に、身につけている“布”の感触が、俺の意識を揺らす。



---


1 服の重みと軽さ


 ブラウスは薄手で、指先が少し透けるほど柔らかい。

 胸元の小さなリボンが、風に揺れて微かに擦れるたび、

 その音が心臓の鼓動に重なってくる。


 スカートは軽くて、歩くたびに布が肌をなぞる。

 布が擦れる「しゃら」という音が耳に届く。

 それがどうしてこんなに気になるのか、自分でも分からない。


 男の服には“守るための厚み”がある。

 女の服には“見せるための軽さ”がある。

 その違いを、今になってようやく理解した気がした。


 でも――理解したくなんてなかった。



---


2 沙月の視線


 「今日の、よく似合ってるね」

 教室の隅で、沙月が微笑んだ。

 俺は眉をしかめて「やめろよ」と言う。


 「本気でそう思うのに」

 「……俺は男だっての」

 「分かってる。でも、似合ってることに変わりはないでしょ?」


 その言葉が、胸の奥に沈んでいく。

 反論できない。

 ただ否定の言葉を繰り返すしかない。


 俺は男だ。

 スカートを履くのは、女の子の真似をしてるだけだ。

 そう言い聞かせても、彼女の笑顔を見ていると、

 どこか“認められた”ような気がしてしまう。


 ……それが一番、厄介だ。



---


3 レースの感触


 放課後、沙月の部屋。

 今日の“女の子レッスン”は、ブラウスの合わせ方だった。


 「このブラウスね、袖のレースがすごく繊細なの」

 そう言って、沙月は俺の腕を取った。

 指先が生地をなぞる。

 薄い布越しに、体温が伝わってきて、妙に意識してしまう。


 「……触るなよ」

 「え? ほら、ほつれてないか見てただけ」

 「そういう問題じゃなくて」


 彼女が笑う。

 俺は顔をそむけた。

 自分でもわかる。頬が少し熱い。


 ブラウスの生地が肩にすれるたび、女物を着ている現実が突きつけられる。

 なのに――不快ではない。

 むしろ、肌が呼吸しているようで、心地いい。


 だからこそ、怖いのだ。



---


4 帰り道、夜風の中で


 部屋を出て、スカートを脱ぎ、ジーンズに履き替える。

 靴を履くと、足首にかかる硬さが重くのしかかる。

 ブラウスからシャツに着替えると、肌がざらりとした布に包まれた。

 あの柔らかさは消えた。


 「……これが普通だ」

 そう言い聞かせながら歩く。


 夜風が吹き抜ける。

 ジーンズの裾が足にまとわりつく感触が、重い。

 心のどこかで、スカートの裾が揺れる軽さを思い出してしまう。


 ポケットの中には、沙月にもらった髪留め。

 桜色のリボンが、指先で触れるたびにカサリと音を立てた。


 “似合ってる”と言われた時の彼女の顔が、何度も浮かんでくる。



---


5 俺は男だ


 帰宅して鏡の前に立つ。

 シャツの襟を直し、髪を整える。

 けれど、どうしても“違和感”が残った。


 この服の中にいる“俺”は、本当に俺なのか。

 それとも、あの柔らかな布に包まれていた“俺”の方が、本当の姿なのか。


 思考がまとまらない。

 頭の奥で何かがぶつかり合って、形を失っていく。


 「……馬鹿か、考えるな」

 俺は頭を振る。

 俺は男だ。

 沙月が面白がってるだけ。

 ただの遊び。そうに決まってる。


 でも――指先に残るレースの感触が、

 その言葉を、簡単には信じさせてくれなかった。



---


6 夜の小さな痛み


 ベッドに入っても眠れない。

 枕元に置いた髪留めが、月明かりを受けて光っていた。


 あの桜色の小さなリボン。

 光沢を帯びた布が、静かに呼吸しているように見えた。


 「俺が、これをつけてるなんてな……」

 小さく笑ってみても、胸の奥は苦いままだ。


 もし明日、また沙月に会ったら。

 また何か新しい服を渡されるだろう。

 俺はそれを拒めるのか。

 それとも、また着てしまうのか。


 自分の中の“男”と“何か別のもの”が、ゆっくりとせめぎ合っている気がした。

 服のやわらかさを知ってしまったせいで、

 もう、あの頃の自分には戻れない気がして――

 それが、怖かった。



---


第十一章 俺でありたいのに 完


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