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春、変わりゆく身体

第一章 春、変わりゆく身体


 冬の終わり、教室の窓に射し込む午後の陽射しは、どこか白く霞んで見えた。

 卒業式を目前に控えた教室では、進路の話や思い出話が入り混じり、どこか浮き足立っていた。

 だが、その中で俺だけは、妙な違和感を覚えていた。


 ――身体が、どこかおかしい。


 息を吸うたびに胸の奥が重く、夜になると微熱が続いた。

 筋肉の張りが抜け、声も日に日に高くなっていく。

 ただの疲れだと思い込もうとしたが、鏡に映る自分の顔が少しずつ変わっていくのを、

 見ないふりはできなかった。


 卒業を目前にしたある日、母に連れられて病院を訪れた。

 血液検査、ホルモン検査、画像診断。

 白衣の医師がカルテを閉じる音が、やけに大きく響いた。


 「――後天性性転換症候群、という診断になります。」


 聞き慣れない言葉だった。

 医師の説明によると、ある種のホルモン異常が原因で、

 ゆっくりと身体が女性的な形質に変化していくという。

 自然治癒は見込めず、外科的な介入をしない限り、この変化は止まらない。


 頭の中が真っ白になった。

 冗談のような診断名に現実感はなく、

 「そんなはずがない」と口にしたが、声は裏返っていた。


 ――声まで、変わってきている。


 医師は淡々と告げた。

 「このまま進めば、来春ごろには身体的にも女性の特徴が顕著になります。」

 春。大学の入学式。

 すべてが動き出す季節に、俺は“自分の体”を失おうとしていた。



---


病室の窓の外


 検査入院の夜、天井の白い光がやけに冷たかった。

 手首の点滴が重く感じられる。

 寝返りを打つたび、胸のあたりが柔らかく沈む。

 ついこの前まで平らだったはずなのに。


 「……俺、どうなるんだろうな。」


 呟いても、答える者はいない。

 静かな病室で、機械の電子音だけが規則的に鳴っていた。


 翌朝、母が病室に来てくれた。

 泣き腫らしたような目をして、何かを言いかけては飲み込む。

 その沈黙の中で、俺は初めて現実を受け入れざるを得なかった。


 「……大学、どうしよう。」

 「説明すれば、きっと分かってもらえるわ。」


 母の声は優しかったが、どこか遠く聞こえた。

 “分かってもらえる”という言葉の中に、

 “もう戻れない”という意味が隠されている気がした。



---


制服の違和感


 退院してからの日々、身体の変化はますます顕著になった。

 制服のワイシャツが胸のあたりで張り、ネクタイが締めづらくなる。

 肩幅がわずかに狭まり、ズボンのウエストが緩んだ。


 鏡の前に立つと、どこかアンバランスな人間が映っていた。

 顔の輪郭はまだ少年のままだが、首筋から胸元にかけての線は柔らかい。

 手の甲の骨ばった感じも薄れ、爪が少し丸みを帯びている。


 「……これが、女の子の手?」


 そうつぶやいた瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。


 友人たちは誰も気づかない。

 いや、気づいていても触れないようにしているのかもしれない。

 卒業式の日、クラス全員が笑顔で写真を撮る中で、俺はただスーツの襟を握りしめていた。

 笑うことも、泣くこともできずに。



---


彼女との再会


 卒業式の帰り道、校門の前で声をかけられた。

 「ねえ、大丈夫?」

 振り向くと、クラスメートの佐伯沙月が立っていた。

 いつも明るく、誰とでも自然に話せるタイプの子。

 だが、その瞳は真剣で、冗談の余地はなかった。


 「前から気になってたの。最近、元気なさそうだったから。」


 どこまで話すか迷ったが、彼女の真っ直ぐな視線に耐えきれず、

 気づけばすべてを打ち明けていた。


 彼女は驚くどころか、静かに頷いた。

 「……そっか。大変だったね。」

 その一言に、張り詰めていたものがほどけた。


 「大学、どうするの?」

 「行くよ。先生にも話した。事情を理解してもらえたから。」

 「そっか……。じゃあ、私も同じ大学だよ。」


 思わず顔を上げた。

 「え?」

 「学部も一緒。だから、これからもよろしくね。」


 その瞬間、胸の奥で何かが温かく灯った気がした。



---


女の子の服


 入学説明会の案内が届いた頃、母がクローゼットを開けて言った。

 「これからのことを考えて、少しずつ準備しておきましょう。」


 中にあったのは、見慣れない衣服――

 柔らかなピンクのキャミソール、淡いレースのブラウス、スカート。


 「……俺が、これを?」

 「あなたの身体に合う服が、もうこっちなのよ。」


 言葉に詰まった。

 恐る恐る手に取ると、生地は驚くほど薄く、指の熱がそのまま伝わる。

 布が軽い。風を含むような、繊細な質感。

 袖口には小さなリボン、裾には波のようなレース。


 「柔らかいけど……落ち着かないな。」

 「最初はそうよ。でも、少しずつ慣れていけばいいの。」


 その夜、試しに部屋でブラウスを着てみた。

 鏡の前で自分の姿を見ると、心の中に“他人”が立っているような気がした。

 けれど、袖を通した瞬間に感じたあの「温度」だけは、確かに本物だった。



---


入学式の朝


 春。

 桜の花びらが風に舞う朝、俺は鏡の前で息を整えていた。


 黒のスーツ。

 けれど、それはもう男性用ではない。

 女性用のジャケットは肩が丸く、ウエストラインが絞られている。

 ブラウスの襟元には控えめなリボンタイ。

 裾には薄いレースが光を受けてほのかに透けた。


 「……大丈夫、かな。」


 鏡に映るのは、どこか中性的な姿。

 体つきは女性に近づいているが、表情にはまだ迷いが残っている。


 玄関で靴を履くとき、手が震えた。

 パンプスの感触が足に馴染まず、歩くたびにかかとが鳴る。

 階段を降りるたび、スカートの裾がふわりと揺れ、太ももに触れた。

 ――たったそれだけで、心臓が跳ねた。



---


入学式


 講堂前の広場には、色とりどりのスーツを着た新入生たちが集まっていた。

 その中で、俺はひときわ所在なげに立っていた。

 視線が怖い。

 誰も俺を見ていないはずなのに、自分の姿が浮いて見える。


 そのとき、後ろから声がした。

 「おはよう。隣、いい?」

 振り向くと、佐伯沙月が微笑んでいた。

 彼女は淡いベージュのワンピースに薄いストールを羽織っている。

 レースの裾が風に揺れ、春の光を透かしていた。


 「……沙月。」

 「緊張してる?」

 「少し。」

 「少しじゃない顔だよ。」


 彼女は笑いながら俺の腕を軽く引いた。

 「大丈夫。ほら、私の隣にいれば平気。」


 そう言って、彼女は俺のジャケットの襟を直す。

 その指先が優しく触れた瞬間、胸の奥がかすかに震えた。


 講堂の席に並んで座ると、周囲のざわめきが遠のいていく。

 黒いスーツの群れの中で、彼女の明るい色が灯のように見えた。

 俺はその影に隠れるように身を縮めたが、

 ふと、袖口のレースが陽の光を受けて輝くのが目に入った。


 「……案外、悪くないかも。」

 「何が?」

 「この服。」

 「でしょ?」


 彼女が微笑む。

 桜の花びらが舞い込み、俺たちの膝の上にひらりと落ちた。

 レースの上に落ちた一枚の花びらが、

 やけに自然に見えて――そのとき、初めて心から春の訪れを感じた。



---



 式が終わり、校門を出たとき、俺は深く息を吸った。

 花の香りと、柔らかい布の匂いが混ざり合う。

 まだ不安は消えていない。

 けれど、隣で笑う彼女の存在が、それを少しだけ軽くしてくれる。


 「これから、どうする?」

 「分からない。でも……歩いてみるよ。」


 スカートの裾が春風に揺れ、

 リボンが光を跳ね返す。


 ほんの少し前まで、男として生きていた俺が、

 いま、女の服を着て、新しい季節を迎えている。


 変わってしまった身体。

 けれど、それを「生きる」ことを、

 この春、ようやく受け入れ始めたのかもしれない。


〈i1040385|48765〉

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