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永禄元年

天文てんぶんが終わり、弘治こうじをすっ飛ばして、一気に永禄えいろくに突入ですw


この回で幕府がどうなるか、尾張の兄弟喧嘩はどうなるか


そして長宗我部家への…… というお話になります。


永禄元年(1558年)3月




━━平手右京大夫政秀 齢67【見目年齢48】 山城国 洛中 四条大宮 平手屋敷 ━━



 13代将軍、足利義輝の上洛が決まった。

 総勢3万の軍での山城入りとなる。それでも東美濃と遠江には、それなりの兵を割かねばならなかったがな。


 昨年、弘治三年の10月に六角攻めを行った。

 不破関より4万の兵を、鈴鹿関より2万の兵を、伊賀国から5千の兵を、日数を調整して山城国に先入りさせていた5千の兵……計7万の兵軍で南近江を攻め込んだ。

 蒲生家、平井家、甲賀望月家に対し、


「織田家に来ない?優遇するよ?今なら所領安堵に加増も付けちゃうよ?」


 と返事を数年に渡り、六角家も含め各所に送っておったからな……いつ裏切られるんじゃないかと、疑心暗鬼に陥っておったのは滑稽じゃったわいwそのように仕向けたんじゃからな。

 その上で「剛力よろしく」と言うのをわかりやすく、六角義賢に渡るようにもしたし。

 攻め込む半年前にも、六角家の主だった家臣に送り付けたからな~。もう統制を取ろうにも、疑心暗鬼で不協和音な状態w


 簡単に書くとこうじゃ


 弘治元年、南近江への進攻準備をする。

 弘治二年、関係各所に伝達し、武具兵馬の輸送を開始。

 翌弘治三年10月、南近江に計7万の兵軍で進攻、南近江を一月ひとつきで織田領にする。


 こんな感じじゃなwおかげで観音寺城と周りの支城を楽々落とせたわいw

 甲賀に逃げようにも、そちら側からも攻めておるから、逃げて潜伏することも出来ず、六角義賢は討ち死にすることになった。

 浅井家には書状を送り、『六角攻めのため兵を通らせて』と書状を送ったぐらいじゃ。

 あ、儂は参戦しておらんぞ、させて貰えんかったが正解じゃが……稲葉山の件を未だに引きずってくれとるからの~。

【稲葉山の件=電磁投射砲をぶっ放した事】



 上洛後、相国寺の南側に新築した将軍御所こと『室町第』に無事、足利義輝は入ることが出来た。

 弟の一乗院覚慶は還俗げんぞくし、義秋よしあきと名乗り、副将軍として兄の義輝とともに上洛した。


「副将軍として上洛した弟の義秋……ありゃ~確実に、腹に黒い物を抱えておるな……」


 兄、義輝に成り代わるつもりか?


 まあ、二人には現在の地方情勢や状況、少しずつではあるが、東海畿内、中国九州、四国近畿と一勢力に纏まりつつある事は、嫌と言うほど学校で教え込んだ、そして刷り込んだ。

 足利の時代はもう終わりだと言うことを……

 上洛の際、旧幕臣達も参じてかつての役職にて権勢を振るおうとしたが、街並みが整備され建物がそこかしこと現在も建てられている光景を見て、一部の者は意気消沈とおのが役目は何もないことを悟ったらしい。

 この事は政所執事の伊勢貞孝いせさだたか殿から伝え聞いたものだ。


 朝廷の方も内裏と大内裏を、かつて平安時代に在ったとされる建物を一部だが再現され、力も取り戻してきたのもあってか、幕府の形骸化は加速の意図を辿るのだが、13代将軍の義輝殿より征夷大将軍の座を大々的に返還する書状が朝廷に届いた。

 そして、抜け目無く「いずれ『大政奉還』を行う。その後は世話になるぞ」とも、したためてあった。

 そう言えば以前、塚原卜伝殿とそのお弟子さん達が尾張に立ち寄ったおり、卜伝殿から剣術をならい教えがいが有ると言われ、秘剣と言われる『ひとつ太刀たち』を授かっておったからな。剣術家として後世を生きていくのかの……。



 この件を契機に、山城国は織田領へと、入ることになった。



 山崎の地に蒸留酒の製造所の建設に着手した。酒好き連中に少量でもかなりの人気になるだろうな。高濃度の酒精は消毒液にも使えるから一石二鳥?にもなるじゃろうて。まあ、情報の蓄積はないから、試行錯誤の失敗ばかりになるじゃろう。だがその失敗があるからこそ、成功があるのじゃからなw樽用の木材の選定しなければw


 そして、京の都では洛中を囲む御土居おどいがようやく完成に至った。洛外側の土盛りには桜を植え桜林おうりんとし、洛中側には竹を植え竹林とした。

間の堀は秀吉の作った堀幅と同じ約20mにし、深さに至っては最大で5mになった。

 羅城門の再建案に関しては用地の確保と習得が出来なかったため再建はされていない……。

 本当の理由は材料の確保が出来なかっただけなんじゃがな。



 尾張では、盛大な兄弟喧嘩が……起こることはなかった。だって未だ信秀様がご存命だもんよw

跡目争いなんて起きようはずもない。その為の学校でもあるのだからの。

織田領全域に、跡目は『織田三郎信長』と言うことも、活字印刷等を利用した『瓦版』で広めたから、反旗を起こそう物なら、謀反人一直線じゃw

 だがこの活字印刷を利用した弊害も起こった。『腐の伝道』の加速が顕著に現れてしまった。誰が得するというんじゃ?『儂x信秀様』本って……そして他多数も刊行された。

 版権元は誰じゃ?



 そして、今年こんねんの5月に彼の『桶狭間の戦い』が起きるのだが、歴史改編しておるから、此の戦いはこの世界では存在しないことになる

 存在はしないのだが、歴史の修正力が何処で働くかがわからんからの。




 そんなことを心配しながらも、約2か月後の永禄元年(1558年)5月の事だった。

 長曽我部家と三好家との戦が四国の地にて始まった。

 三好家の劣勢は確実の物だったのが、長曽我部家のガレオン船と備え付けられた大量の大砲による攻撃だった。

四国の地より、三好家は追い出され、飯盛山城を基点に戦ってはいるのだが、木津川口、播磨、紀伊からの3方面から、石山本願寺も攻撃を受けて、大打撃を受けたそうだ。


 その更に2か月後の永禄元年(1558年)7月末、石山本願寺・三好連合は長曽我部家に大敗を喫し、本願寺顕如殿は打首、三好長慶殿は切腹、松永殿は土佐に送られたらしい。




永禄元年(1558年)8月15日 四条大宮 平手屋敷


「あのガキンチョめ!一向宗を壊滅させたのは良いとしよう。その後の後始末はどうするつもりじゃ!?生き残った一向宗信者共どうしろと言うんじゃい!加賀と安芸にでも送れとでも言うのか?大々的に四国の寺々に流言流布してやろうか!」


 どうせなら、加賀と安芸の一向宗と合流してもらい、『石山がどのように滅んだのか』を喧伝してもらうのが良いかもしれんな。

 遺体の回収等は無理だが、死んでいった者達の冥福を祈る事は出来る。

 水無瀬川近くに『後鳥羽上皇水無瀬宮』の跡地が合ったはず……許可をもらって、その跡地の近くに寺院を建立するとしよう。

 この世界での後の『水無瀬神宮』になったという。


 それからさらに1ヶ月後、配下の伊賀者達からの報告も上がった。

 長慶殿の嫡男・義興殿と実弟の実休殿の所在が判明した。山城国内で保護し山城国相楽郡の寺で匿っているそうだ。状況によっては、木津川沿いを遡り伊賀街道【笠置街道】を通り伊賀に避難させることも可能だと知らせを受けた。

 対価に『実休光忠』での貰うとするかの。



あの戦の後、大和の筒井家から保護【従属】の使者がやって来たぐらいだ。

 島清興しまきよおき【島左近の事】と筒井順慶が共に使者として来た時は、びっくりしたがな。

 筒井家の保護【従属】を認め、この二人に、大和の豪族『柳生』家の紹介もしてもらった。

柳生家厳やぎゅういえよし』と『柳生やぎゅう 宗厳むねよしこと柳生石舟斎やぎゅうせきしゅうさい』の二人だ。

 塚原卜伝殿の剣の教えを受けた北畠具教殿が居るので、この時のために作った『竹刀』で勝負してもらったのだが、お互い感銘を受けたのか、互いに剣術の腕を気負うようになり、酒も酌み交わすようになっていった。



 さてと、山城国は織田領となったし、大和国も有力国人や幾つかの豪族も織田家の傘下に入ってもらえた。


 山城を基点に、大和の普請や若狹と北近江への進攻を考えねばな……



さて……次話の内容どうするか……

あ、次話から『若狭・大和の章』にするんだった。

うっかり忘れてたぜw


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