第二十九話 新九郎の焦り
新九郎は、自分の踏み込みに迷ったことがなかった。
少なくとも、山本勘助が鹿島へ来るまでは。
右足で地を噛む。
腰を逃がさない。
相手の中心を割る。
木刀の先を遅らせない。
それだけを、何度も何度も体に入れてきた。
幼い頃から、周囲には「筋がよい」と言われた。
鹿島へ来ても、最初から他の者より動けた。
もちろん、塚原卜伝の前では自分など未熟者にすぎない。
それは分かっている。
分かってはいるが、それでも新九郎は、自分の強さに疑いを持たずに済む程度には強かった。
安西左馬助の重さに押されても、負けたままでは終わらない。
庄左の静かな間合いに惑わされても、次には踏み込める。
弥平の掃除の足が面白いと言われても、剣では自分の方がずっと先にいる。
そう思っていた。
だが、勘助が来てから、庭の土が少し違って見えるようになった。
自分の右足が、強すぎる時がある。
踏み込みが鋭いからこそ、外された時に戻りが遅れる。
相手を割るつもりで出た足が、足場によっては自分の体を外へ逃がす。
それを最初に言葉にしたのは、勘助だった。
そして、あの小さな相打ち。
倒されたわけではない。
負けたわけでもない。
だが、確かに崩された。
湿った土の端。
右足の踏み込み。
自分の強さの端。
そこを使われた。
あれ以来、新九郎は踏み込むたびに、一瞬だけ自分の右足を見るようになった。
見たくないのに、見えてしまう。
その日もそうだった。
朝の稽古で、新九郎は門弟の一人と向かい合っていた。
相手は体格のよい若者で、力任せに押してくる癖がある。
以前なら、新九郎は迷わず中心を割った。
相手の圧が来る前に踏み込み、木刀の先を喉元へ置く。
それで終わりだ。
今日も、そうすればよかった。
相手が前へ出る。
新九郎は右足を出す。
その瞬間。
湿った土なら。
外されたら。
戻りが遅れたら。
余計な考えが、一瞬だけ足に触れた。
踏み込みはわずかに鈍った。
ほんのわずか。
相手は気づかなかったかもしれない。
だが、卜伝は見ただろう。
安西も、もしかすると見た。
そして、勘助も。
新九郎の木刀は相手の肩口で止まった。
一本は取った。
形としては勝った。
だが、新九郎の腹の中には嫌なものが残った。
「新九郎」
卜伝の声が飛ぶ。
「はい」
「今、足が迷った」
やはり見られていた。
新九郎は頭を下げた。
「はい」
「勝ったと思うな」
「はい」
「勝った形で迷いを隠すな」
「はい」
短い言葉だった。
それだけで済んだ。
だが、新九郎には十分だった。
勝った形で迷いを隠すな。
胸の内を、真っ直ぐ指で押されたようだった。
稽古を終えたあと、新九郎は庭の端で自分の足跡を見ていた。
右足の跡は深い。
いつも通りだ。
だが、少しだけ向きが揺れていた。
踏み込みきる前に、自分が自分の足を疑った跡。
土は正直だった。
「足跡を見るようになったな」
横から声がした。
安西だった。
新九郎は顔を上げる。
「安西殿」
「山本の癖が移ったか」
「嫌な言い方をされますね」
「嫌なら見るな」
「見なければ、先生に言われます」
「なら見ろ」
安西は隣に立ち、足跡を見下ろした。
「迷ったな」
「見れば分かりますか」
「分かる」
「安西殿にも」
「俺にも分かる程度には」
新九郎は小さく息を吐いた。
それは褒め言葉ではない。
迷いが大きいという意味だ。
「山本が来てから、足元がうるさい」
「足元は前からあった」
「それは分かっています」
「見ていなかっただけだ」
安西の声は厳しいが、責めるだけではなかった。
「俺も同じだ。重さに頼れば、重さに食われる。山本に見られ、先生に言われ、ようやく少し分かる」
新九郎は安西を見た。
安西が自分の未熟を口にするのは、以前より増えた。
それも、勘助が来てからだ。
山本勘助。
醜い顔。
片目。
痛む足。
剣は弱い。
打ち込みも遅い。
正面からなら、今でも新九郎の相手ではない。
だが、その勘助が来てから、鹿島の庭に妙なものが増えた。
足跡を見る者が増えた。
水桶の置き場を気にする者が増えた。
掃除を笑い切れない者が増えた。
安西は背負うものを口にし、庄左は考えすぎる自分を少し外に出し、弥平は掃除の足を稽古へ持ち込むようになった。
新九郎自身も、自分の右足を見ている。
面白くない。
だが、無視できない。
「安西殿」
「何だ」
「俺は、弱くなったのでしょうか」
言ってから、新九郎は自分でも驚いた。
こんな問いを安西にするつもりはなかった。
安西は少しだけ目を細めた。
「なぜそう思う」
「以前なら、迷わず踏み込めました。今は、踏む前に見てしまう。右足が強すぎるのではないか、外された時に戻れるか、足場はどうか。そう考える一瞬がある」
「それを弱くなったと言うなら、弱くなったのだろう」
安西は容赦なく言った。
新九郎の胸が沈む。
だが、安西は続けた。
「だが、見えぬまま強いと思っていた頃へ戻りたいか」
新九郎は答えられなかった。
安西は足跡から目を離さずに言う。
「俺は戻りたくない」
「安西殿は」
「重さだけで押せば、いつか重さに沈む。先生はそれを前から見ていたのだろう。山本が来て、俺にも見えただけだ」
「山本が来て、ですか」
「不愉快だがな」
安西はそう言った。
だが、以前ほど刺々しくはなかった。
「山本は弱い。今でも弱い。だが、弱いから見えるものがある。俺たちは強いと思っていた分、見ようとしなかったものがある」
安西は新九郎を見た。
「それを見て弱くなるなら、一度弱くなればよい」
新九郎は黙った。
一度弱くなればよい。
簡単に言う。
だが、安西もまた、それを通っているのだろう。
家の名を背負い、強くなければならない男が、自分の重さを見ようとしている。
なら、自分だけが逃げるわけにはいかない。
安西は最後に言った。
「ただし、弱さに座るな」
「座る?」
「山本の悪いところだ。見つけた弱さの前で、すぐ考え込む。お前はそうなるな。見たら踏め」
新九郎は少し笑った。
「結局、踏むのですね」
「剣を学んでいるからな」
安西はそれだけ言い、去っていった。
午後の稽古で、新九郎は勘助を見る役になった。
勘助の肩はまだ万全ではない。
卜伝の命で、打ち込みは軽く、足運びと間合いを中心にする。
軽く、と言われても、勘助にとっては十分苦しい。
肩を庇う。
足が逃げる。
木刀の先が揺れる。
それを新九郎が指摘する。
「肩を庇った」
「はい」
「庇うなとは言わん。庇い方を見せるな」
「安西殿にも言われた」
「なら二度言われた。覚えろ」
「忘れる」
「忘れる前提で返事をするな」
「卜伝殿が、忘れると」
「先生の言葉を逃げ道にするな」
勘助は少し困った顔をした。
「難しいな」
「難しいから稽古だ」
「それも便利な言葉だ」
「便利でも正しい」
新九郎は木刀を構え直した。
「もう一度」
勘助が動く。
踏み込みではない。
次に生きる場所へ体を置く足。
弥平の掃除から拾った足だ。
速くはない。
鋭くもない。
しかし、以前より崩れが少ない。
肩の痛みがある分、逆に足を慎重に置いている。
ただ、慎重すぎて遅い。
新九郎は木刀の先を勘助の胸元へ置いた。
「遅い」
「はい」
「今のままなら、敵は待ってくれない」
「はい」
「だが、急ぐと崩れる」
「はい」
「なら、どうする」
勘助は息を整えた。
考え込む顔になりかける。
新九郎はすぐに言う。
「考えるな。いや、考え込むな」
「考えるのと考え込むの違いが難しい」
「俺も知らん。だが今のお前は考え込む方だ」
勘助は少し笑った。
「新九郎殿は、最近言葉が庄左殿に似てきた」
「嫌なことを言うな」
少し離れたところで庄左が言った。
「聞こえているぞ」
「聞かせました」
「そうか」
庄左は軽く笑った。
勘助はもう一度動いた。
今度は少し早い。
だが、木刀の先が揺れる。
新九郎はそれを払う。
「手が遅れた」
「はい」
「肩を意識したな」
「はい」
「肩だけで打つな。腹から持ってこい」
「腹が逃げる」
「逃がすな」
「簡単に言う」
「簡単に言う。やるのは難しい。だから稽古だ」
弥平が遠くで呟いた。
「本当に便利な言葉だなあ」
新九郎は無視した。
勘助は何度も繰り返す。
そのたび、新九郎は指摘する。
足。
腹。
肩。
息。
視線。
木刀の先。
勘助はひとつずつ直そうとして、また別のところが崩れる。
その姿は不格好だった。
だが、不思議なことに、新九郎はその不格好さを以前ほど苛立たしく感じなかった。
むしろ、勘助の崩れを見るたび、自分の崩れを思い出す。
右足。
踏み込み。
戻り。
強さの端。
勘助は弱い。
だから崩れが見えやすい。
新九郎は強い。
だから崩れを隠しやすい。
それだけの違いなのかもしれない。
稽古の途中、勘助がふと木刀を下ろした。
「新九郎殿」
「何だ」
「そなたの踏み込みを、もう一度見せてほしい」
「今か」
「はい」
「自分の稽古中に、俺を見る余裕があるのか」
「余裕はない。だが、見たい」
新九郎は少し顔をしかめた。
「何を見る」
「迷いを」
その言葉に、新九郎の胸がざらりとした。
勘助はすぐに続ける。
「言葉で触れるつもりはない。ただ、見たい。拙者は、強い者が迷った時にどう立て直すのかを、まだよく知らぬ」
以前なら、ここで新九郎は怒ったかもしれない。
何を分かったように、と。
だが、今は違った。
勘助は踏み込みすぎないよう、言葉を選んでいる。
そのことが分かった。
新九郎は木刀を握り直した。
「一度だけだ」
「はい」
新九郎は庭の中央へ立った。
卜伝も、少し離れて見ている。
安西、庄左、弥平も視線を向けた。
見られている。
新九郎はその視線を感じた。
以前なら、見られることは嫌ではなかった。
むしろ、自分の鋭い踏み込みを見せることに、どこか誇りがあった。
だが今は違う。
足元を見られている。
迷いを見られている。
そう思うと、右足が少し重くなる。
新九郎は息を吐いた。
逃げるな。
迷いを隠すな。
だが、迷いに座るな。
見たら踏め。
安西の言葉が浮かんだ。
卜伝の声も。
勝った形で迷いを隠すな。
ならば、迷いごと踏む。
新九郎は木刀を構えた。
右足に意識を置く。
置きすぎれば固まる。
相手の中心を見る。
足場を見る。
戻りを見る。
全部を見るのではない。
今、踏む。
その一歩。
地を噛む。
踏み込みは鋭かった。
だが、以前とは少し違った。
ただ前へ突き破るだけではなく、戻る道が残っている。
相手を割る足でありながら、自分を捨てきらない足。
新九郎は踏み込んだ後、すぐに戻った。
木刀の先は揺れない。
息も乱れていない。
だが、胸の中はざわついていた。
勘助が静かに言った。
「見事です」
「それは聞きたくない」
「では、別の言葉にする」
「いや、いらん」
勘助は少し考え、それでも言った。
「以前より、帰る道が見えました」
新九郎は息を止めた。
「帰る道?」
「はい。前の新九郎殿の踏み込みは、敵を割る道だけが強く見えました。今は、割った後に戻る道が少し見えます」
それは、褒め言葉なのか。
評価なのか。
新九郎には分からなかった。
だが、胸の奥にすとんと落ちた。
帰る道。
自分は、そんなものを考えて踏み込んだことがなかった。
打つ。
割る。
勝つ。
そこばかり見ていた。
だが、勘助は帰る道を見たという。
新九郎は木刀を下ろした。
「お前は、本当に妙なものを見る」
「すまぬ」
「謝るな。今のは……悪くなかった」
勘助は小さく頷いた。
「なら、よかった」
卜伝が静かに言った。
「新九郎」
「はい」
「今の足を忘れるな」
「はい」
「ただし、帰る道を残すことに酔うな」
「はい」
「帰る道ばかり見る者は、前へ出られぬ」
「はい」
やはり、卜伝は逃がしてくれない。
新九郎は深く頭を下げた。
夕方、稽古が終わったあと、新九郎は一人で庭に残った。
右足の跡を見る。
朝の迷った足。
午後の踏み込んだ足。
同じ自分の足なのに、跡が違う。
土はよく覚えている。
勘助の言葉が浮かぶ。
帰る道が見えました。
新九郎は木刀を握り、もう一度踏み込もうとした。
だが、今度はあえて止めた。
ただ闇雲に繰り返せば、また形に逃げる。
まず見る。
自分が何を怖がっているのか。
弱くなることか。
迷うことか。
勘助に見られることか。
卜伝に見抜かれることか。
あるいは、自分が思っていたほど真っ直ぐではなかったと認めることか。
新九郎は苦く笑った。
「面倒な男だな、俺も」
「それ、俺がよく言われるやつです」
背後から声がした。
勘助だった。
肩に布を巻き、木刀を持たずに立っている。
「帰ったのではなかったのか」
「水を取りに来ました。新九郎殿が見えたので」
「また見たのか」
「見えました」
「お前は本当に……」
新九郎は言いかけて、やめた。
勘助は少し離れて座った。
近づきすぎない。
以前なら、距離も考えずに横へ立ったかもしれない。
だが今は、ちゃんと間を取っている。
人との間合いも、少しずつ学んでいるのだろう。
新九郎は木刀を膝に置いた。
「山本」
「はい」
「俺は、強いと思っていた」
「強いです」
「そういう返しではない」
「すみませぬ」
「謝るな」
新九郎は空を見た。
夕方の赤が、竹林の向こうに沈んでいる。
「俺は、少なくとも門弟の中では上の方にいると思っていた。実際、そうだった。新しく来た者に教える側で、先生にもよく見てもらっていると思っていた」
「はい」
「だが、お前を教えるようになってから、自分の足ばかり見える」
勘助は黙って聞いている。
今日は口を挟まない。
「お前の崩れを直そうとすると、自分の崩れも見える。お前に右足が強すぎると言われてから、踏むたびに右足がうるさい。安西殿の重さを見れば、自分には重さが足りないと思う。庄左の静けさを見れば、自分には静けさが足りないと思う。弥平の掃除の足を見れば、自分は足元の水や苔を軽く見ていたと思う」
新九郎は苦笑した。
「先生を見れば、全部足りない」
「はい」
「足りないものばかりだ」
勘助は、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、ありがたかった。
以前なら、何か見えたことを言葉にしたかもしれない。
しかし今は、ただ聞いている。
新九郎は続けた。
「焦る」
短い言葉だった。
言ってしまうと、胸が少し軽くなり、同時に恥ずかしかった。
「俺は、焦っている」
勘助は静かに頷いた。
「はい」
「それだけか」
「今は、それだけ聞きました」
新九郎は少し驚いた。
「何か言わないのか」
「言うと、触れすぎるかと」
「……安西殿の一件で、少し学んだな」
「少しだけ」
「なら、一つだけ言え」
安西と同じことを言っている。
そう思って、新九郎は少し笑いそうになった。
勘助はしばらく考えた。
「新九郎殿」
「何だ」
「焦っていると聞いて、少し安心しました」
新九郎は眉をひそめた。
「安心?」
「はい。新九郎殿の踏み込みは、拙者には遠すぎます。鋭く、強く、届かない。だから、そなたは迷わぬ人なのだと思っておりました」
「そんなわけがない」
「今は、そう思います。ですが、最初はそう見えました」
勘助は庭の足跡を見た。
「迷う人が、それでも踏み込む。焦る人が、それでも教える。強い人が、それでも自分の足跡を見る。その方が、拙者には学びになります」
新九郎は黙った。
勘助は続けた。
「迷わぬ新九郎殿より、迷いを見た上で踏む新九郎殿の足の方が、今は遠く見えます」
「……褒めているのか」
「はい」
「やめろ。受け取り方が分からない」
「すみませぬ」
「謝るな」
二人は少し笑った。
夕方の庭に、木刀の音はない。
ただ、足跡が残っている。
新九郎はぽつりと言った。
「俺は、お前に教えているつもりだった」
「教わっております」
「だが、俺も教わっている気がする」
「拙者から?」
「腹立たしいがな」
勘助は真面目に首を横に振った。
「拙者からではありませぬ」
「では誰からだ」
「新九郎殿自身の足から」
新九郎は目を瞬いた。
勘助は続けた。
「拙者は、見るきっかけになっただけです。教えているのは、新九郎殿の足跡です」
新九郎は足元を見た。
土に残った跡。
確かに、そこにある。
強さも、迷いも、戻る道も。
「……本当に妙なことを言う」
「すみませぬ」
「だから謝るな」
新九郎は木刀を持って立ち上がった。
「山本」
「はい」
「肩が治ったら、また相手をしろ」
「拙者でよいのですか」
「お前でいい」
「すぐ負けます」
「分かっている」
「では、なぜ」
「俺の足がうるさい時、お前はたぶん見る」
新九郎は少しだけ笑った。
「腹立たしいが、役に立つ」
勘助も立ち上がり、頭を下げた。
「役に立てるなら」
「言っておくが、調子に乗るな」
「乗りません」
「乗らない顔ではない」
「どんな顔ですか」
「見返したい顔だ」
勘助は少し驚いた。
そして、自分でも笑った。
「少しあります」
「正直すぎる」
「腹に置きます」
「ならいい」
新九郎は木刀を肩に担ぎかけて、やめた。
きちんと下ろして持つ。
勘助はその動きを見た。
新九郎が眉をひそめる。
「今、何を見た」
「木刀を肩に担ぐのをやめたところです」
「見るな」
「見えました」
「お前は本当に……」
新九郎は呆れたように言ったが、声には以前ほど刺がなかった。
その夜、新九郎は一人で短く稽古をした。
踏み込む。
戻る。
踏み込む。
戻る。
強さを失わず、帰る道を残す。
それは思ったより難しかった。
戻ることを考えすぎると、踏み込みが鈍る。
踏み込むことに集中しすぎると、戻りが死ぬ。
卜伝の言う通りだ。
帰る道ばかり見る者は、前へ出られぬ。
前だけ見る者は、帰れぬ。
新九郎は息を吐いた。
焦りは消えない。
むしろ、見えるものが増えた分、焦りは深くなった。
だが、その焦りの中で踏む足は、以前とは少し違っていた。
強さは、疑わないことで保つものではないのかもしれない。
疑った上で、踏む。
迷った上で、戻る道を残し、それでも前へ出る。
それを知った。
新九郎は木刀を下ろし、庭の土を見た。
足跡がある。
今日の自分が、そこに残っている。
明日には弥平が掃き、雨が降れば消えるだろう。
だが、消える前に見ればいい。
そして、また踏めばいい。
「……山本のせいで、足跡を見る癖がついた」
新九郎は小さく呟いた。
不満のようでいて、どこか納得している声だった。
鹿島の夜は、静かに更けていく。
山本勘助が来てから、道場は少し面倒になった。
だが、その面倒さの中に、確かに稽古がある。
新九郎はそれを認めざるを得なかった。
焦りは消えない。
けれど、焦りを抱えたまま踏み込むことも、鹿島の剣なのだろう。
そう思いながら、新九郎は最後にもう一度だけ踏み込んだ。
今度の足跡には、迷いも、戻る道も、どちらも残っていた。




