森伸一
今日の講義が終わり、K大学付属病院の廊下を歩いていると誰かが自分を呼ぶ声がし、耳を澄ました。
「伸一君、森伸一君。少しいいですかね?」
そう聞きなれた犬飼先生の声にと自然と体が犬飼先生の方にと向き、顔を合わせて「どうかしたんですか」と俺は返した。
犬飼先生は、K大学付属病院の教授であり姿こそは六十代前半に見えるのだが先生曰く「七十はとうに超えていますよ」と言っている。
どんな時でも忙しそうな先生が俺なんかに声を掛けてくるとは何か自分はやってしまったのか、あるいは何か良からぬことでもあったのだろうか。
「伸一君は確か裕文君と仲が良かったですよね?」
裕文、それは俺の学科違いの友の名だ。裕文とは一年の頃に論文会に向けての論文に頭を悩ましていた頃に出会い、俺に助け舟を出してくれた奴だ。それ以降学校のテラスでコーヒーなどを飲みながら雑談や医学界での世間話などや、時には一緒に遊びに行くなどをする友人となった。担当学科こそは違うが、彼のゼミの顧問は犬飼先生だ。そのため先生はきっと裕文のことを出してきたのだろう。
「えぇ、知り合ったのは一年の頃ですが仲はいいですよ。裕文がどうかしたんですか?」
すると先生の顔が少し曇り、少し迷った後に口を開いた。
「いえ―――実は裕文君が最近ゼミに来ていなくて、それだけならいいのですが講義にも無断欠席していまして。彼の携帯に電話しても出ないので。伸一君なら何か知っているかと思いまして、その様子では知らなかったのですね」
確かにこの最近裕文と顔を合わせていないと思ったがまさかゼミどころか講義にすら無断欠席しているとは思っていなかった。休むにしても生真面目なあいつのことだから必ず先生に連絡をするはずだ。ましては俺と裕文は互いに三年の後半で進級に大事な時期なのだから無断欠席なんて以ての外だろう。それなのに裕文が来ていないとなると何か事件に巻き込まれたのだろうか。
ここで俺が慌ててしまってもただただ先生をも慌ただせてしまいかねないためここはわざと落ち着いた素振りをすることにしよう。
「そうなんですか、分かりました。俺の方でも裕文のこと探してみます、友人が丁度裕文と同じ学科で裕文とも仲が良いんで」
「そうですか、それであれば問題は無いでしょう。では、何かあったら教えてください」
そう言い、先生は俺に背を向けて歩き始めて行った。
この場合での友人は唯だ。唯とはサークル友達であり、彼女と知り合ったのはサークルでの時だが、本格的に一緒に遊んだり飲んだりし始めたのは裕文と出会ってからだ。なんでも彼女は裕文と同じ学科であり講義も被ることがあるらしい。それで唯は裕文と仲が良くなり、その流れで俺とも仲が良くなったわけだ。
最初こそは、まさか裕文に女の友達ができるとは予想外だったのだが、唯に話を聞かされてなぜそうなったのかが理解できた。なんでも唯は裕文のことが好きらしく、唯が俺に相談してきたことがあった。その時俺は「告白しちまえばいいんじゃないか」とだけ言ったが、いまだに唯は裕文に告白をしていないようだ。
俺はズボンのポケットに入っているスマホを取り出し唯にと電話を掛けた。
『もしもし、唯です。どうかしたの、伸一君?』
スマホの奥からはいつも通りの唯の声が聞こえてきた。俺はとりあえず端的に短くまとめて言うことにした。
「裕文についてなんだが、裕文の奴最近大学に来てないらしいんだよ。唯は知らないか?」
『やっぱり――私もここ最近裕文君に会ってないの、大体一ヵ月前のことだと思うのだけど。それに、ここだけの話なんだけど裕文君のお父さん、和彦先生が行方不明らしいの』
彼女が言う和彦先生とは八ノ瀬和彦教授のことだろう。直接は会ったことは無いが裕文からの話では確か細菌学だかの教授らしい。裕文がこの大学を選んだのも父である和彦教授からの勧めだと言っており、父がいるから選んだとは言っていなかった。それに裕文の学科は創薬化学であり和彦教授とは学んでいる物が違う。そのため裕文自身もあまり和彦教授について話をしないし、話をしたがらない様子であった。そのため裕文に仲が悪いのかと聞いたこともあるが裕文は別段と、さも不快感も無く「ただプライベートと学校での区切りをしているだけさ。それに、母が死んでからは僕のことを育ててくれたし、暇な時には僕の学科外の細菌学について教えてくれる自慢の父だよ」と言っておりむしろ仲が良さげだった。もしかしたら裕文は父を探しており学校に来られないのではないのだろうか。
『ねぇ、伸一君、伸一君。大丈夫?黙っちゃって』
唯の言葉で考えていた霧がスッと消え、考えていた意識が唯の声にと向いた。俺はから返事をして唯にと、大丈夫だと伝えて腕時計を見た。時間は昼の一時半であった。今から裕文のいる家に行っても大丈夫そうだと思い電話の向こうにいる唯にと言った。
「俺は今から裕文の家に行ってみる、唯は何も気にしなくていいから安心しろ」
俺は保証もない「安心しろ」との言葉を言って少しでも唯の不安を拭ってあげた。『分かった』との唯の声を聞き俺は電話越しの唯に別れを告げて電話を切りスマホをポケットにと閉まった。
「まったく、友人や先生にも困らせてあいつはどこでどうしてるんだよ」
俺はいもしない裕文にと言うように頭をかきながら自分の車が置いてある駐車場にと向けて足を動かせた。