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21 水面

 夏が終わろうとしていた。私は上機嫌だった。何故なら、夏が終われば暑さで寝苦しくなることが少なくなるし、屋敷の庭の改修工事が終わって、作業員たちが次の日にはいなくなることが分かっていたから。


 そして、そのときはやってきた。


 私の記憶が正しければ、あれは夜の十一時頃の出来事だった。私はベッドの上で、髪を梳いていた。階上から複数の足音が聞こえてきた。作業員の男たちであることは分かっていた。最後の見物にやってきたのだろうけど、でもそのとき、私はきちんと服を着ていた。


 きっとすぐに引き返すだろう。そう思って髪を梳く手を止めなかった。男たちはまっすぐベッドに近づいてきて、一人が突然私の肩を押してのしかかってきた。


 あまりにも迷いのない動きだったので、自分の身に何が起こっているかしばらく理解できなかった。


 口を塞がれたときに、ようやく彼らの行動の目的を理解した。


 やっぱり彼らは分かっていなかったようだ。私がどれだけ、彼らの行いのせいで追い詰められていたか。いつかこうなるかもしれないと、予測するほどに。


 突然だけど、ランドルフの辞書から思いがけず転がり落ちてきた銀貨を、私たち家族が何に使ったかお話ししよう。


 皆で夕食を食べたときに飲んだお酒。パパの痛み止めの薬。家族全員分の靴(全員、靴底に穴が開いた靴を履いていた)。


 残ったお金を、パパとママは私の手に握らせた。何でも好きなものを買いなさいと言って。私はそれで笛を買った。何のためかって? こうするため。


 私は口を塞いできた男の手を思いきり噛んだ。口が自由になった瞬間、首から紐で吊るしていた笛をくわえて、思いきり吹いた。


 肺活量には自信があった。死んでもこれだけは離すまいと笛を握りしめて、何度も何度も吹いた。男たちが怒鳴っていた。何か私に向かって命令しているようだったけど、おあいにくさま。私は彼らが話す言葉が理解できなかったから、どんな言葉で脅されたって震え上がることはなかった。


 階上から複数の足音が降りてきた。うるさいとか、静かにしろとか、そういうことを言われていることは何となく分かった。


 降りてきたのは屋敷の従僕二人と、私の上司である女中頭。


 三人と作業員たちはしばらく何かを言い争ったあと、全員の視線が私に集まった。私はまだベッドの上に仰向けに倒れたままだった。


 女中頭が、厳しい口調で何か言ってきた。


 言葉の内容は詳しく分からなかったけど、罵倒されていることは分かった。


 何が起こっているかは、大体察していた。恐らく私が作業員の男たちを誘惑したということになったのだろう。


 私はボタンを引きちぎられた服を何とか整え、物置に詰めかけてきた者たちを押しのけて、階段をのぼった。そのまま厨房に向かい、裏口から外に出た。


 外は涼しい風が吹いていて、爽やかな空気に満ちていた。でも、だからどうだというの。


 真っ暗でよく前が見えなかったけど、裸足で歩き続けた。しばらくして、ランプをぶら下げた馬車が行き交う広い往来にたどり着いた。


 これ以上何かを考えることは危険だと思った。家族が悲しむとか迷惑な行為だとか、そういう言葉は私の罪悪感を今よりもっと大きくすることはあっても、希望にはならないと分かっていた。


 往来の真ん中に進み出た。勢いよく馬車が行き交っていた。


 何を考えていたかって? 何も考えていなかった。


 終わらせなければと、ただそういう気持ちだけが心の中にあった。


 突然誰かに腕をつかまれて、強く引っ張られた。


 私はバランスを崩して地面にしりもちをついた。目の前を勢いよく、馬車が突っ切っていった。


「*****!? *****!」


 私の腕を引っ張ったのは見知らぬ女性で、彼女は私の肩をつかんで何かを必死に語りかけてきた。


「ごめんなさい、言葉が分からないの」


 私が違う国の言葉を発したので、女性は困ったように眉尻を下げた。何事かと、周囲に人が集まってきた。


 女性は集まってきた人々に、何かを説明しているようだった。周囲の人々は口々に私に話しかけてきた。でもやはり、何を言っているかさっぱり分からなかった。


「《何事だ? 事故か?》」

「《神父様。あの女性が馬車に轢かれそうになって、間一髪助かったらしいですよ》」


 理解できない言語が飛び交う中で、唐突に二人の人物の会話が耳に飛び込んできた。


 見ると、黒い服を着た男性二人が、向き合って話している姿が見えた。あれは聖職者の祭服だ。私はぼんやりしながら考えていた。あんなに苦手だった古代語を、こんな状況でも聞き取れるなんて。やっぱりランドルフは優秀な家庭教師だった。彼は離れ離れになってからも、私にたくさんのものをくれた。それにひきかえ私は、この人生で、彼に何をあげられただろうか。




 突然、往来を行き交う馬車が恐ろしく思えてきた。




 何て馬鹿なことを。


 私のことを愛していると言ってくれた彼を、(けが)すようなことを。彼が私に与えたものが、私の中でまだ生きているというのに。それを道連れにしようだなんて。


 私は必死で、ランドルフが教えてくれたことの数々を記憶の底から引っ張り出そうとした。古代語を話すことができれば、どの町でも、どの国でも聖職者に一目置いてもらえる。役に立つのだと彼は言った。その言葉を信じることは、息をするよりも簡単だった。だって彼は私がずっとずっと想い続けてきた人だから。


 もう三年も古代語から離れていた。


 自信がない。


 だけどやるしかない。


 思い出せ!


 思い出せ!




「《助けてください!》」




 突然叫んだ私を、人々は驚いた顔で見下ろした。祭服を着た二人が、顔を見合わせたのが見えた。


「《神の教えに従うことを誓ったのに、力ずくで奪われそうなのです! どうか私の信仰をお守り下さい。神の元へお導きください。それが叶わなければ今、教えを破り自ら命を絶っても同じことなのです!》」


 少し、発音を間違えていたかもしれない。だけどやれることはやった。これ以上は、他にやりようがなかった。


 数秒間呆気に取られていた聖職者らしき二人は、人だかりをかき分けゆっくりと私のそばに歩み寄ってきた。


「《あなたはどこの、どなたですか?》」


 私は雇い主である地主の名前を何度も何度も繰り返し告げた。周囲にいた人々はその名を聞いて、私に同情するような視線を向けてきた。

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