序章 2
空港に到着すると、三人はのんびりとした足取りでロビーへと向かった。
大きなキャリー・バッグを引くケファの後ろに、口を閉ざしたまま黙々と歩を進める三善、そしてそれを困った様子で見つめるホセが続く。居心地の悪い、妙にぎこちない空気が流れていた。
もちろん三善はその原因が自分にあるということも気づいてはいたが、今さら明るく振る舞うことも、前回のように悲しげに振る舞うこともできずにいる。そうすることで『何が起こるのか』、『どこに波及するのか』が全く想像できなかったからだ。
車中でずっと考えていた。
前回ターニングポイントとなった事象がいくつかあるが、そうなった経緯を改めて考えると、きっかけはほんのささいなものばかりだった。バタフライ効果とはよく言ったものだ。蝶が羽ばたく程度のごく僅かな出来事が予期せぬ効果をもたらすなど、当時の自分は微塵も考えなかった。
とはいえ、今のように黙り続けていることも今後どこかで何らかの影響を与えるという可能性は捨てきれない。これほどまでに行動を起こすのが怖いと思ったことはなかった。改めて、三善は自分が行った『時間遡行』の重みを実感した。
そしてこうも思う。これを一〇〇九三回も行ったヨハネスは一体どういう神経をしていたのだ、最終的にあらゆる感覚が麻痺していたのではないか、と。
そう考えていると、ケファが足を止めた。
はっとして、三善も足を止める。空港にいる間、彼がこんな風に足を止めたのはたったの一度きり。彼は振り返り、己に別れを告げるはずだ。
三善は奥歯を強く噛みしめ、脳裏にフラッシュ・バックする『あの日』の幻想を断ち切ろうとする。
――大丈夫。
そして一度、自分自身に強く言い聞かせた。
――もう失敗しない。
「それじゃあ……俺は行くけど」
そう言いながらケファは振り返る。彼は初めにホセに、それから三善に視線を移す。
赤銅の瞳に映った三善は無表情だった。何を思ったのだろう、ケファは慌てた様子で三善のふわふわした灰色の髪を撫でる。
いつもならそれを嫌そうにかわそうとする三善だが、今回は違った。されるがままとなり、そのままゆるゆると瞼を閉じている。
「……、なんて顔してるんだ、三善」
三善はだって、と小さく呟いたが、すぐに頭を横に振り、まっすぐにその赤い瞳を彼に向けた。
「ケファ」
「会おうと思えばいつでも会えるだろ。こういうときにそういう顔をしろだなんて、俺は一度も教えたことねぇぞ」
「うん。……そうだね。知ってる」
三善はゆっくりと頭の上にあるケファの手に触れ、何かをためらっているような、そんな様子でいる。
胸の内が凍り付くようだった。しかし、立ち止まってばかりもいられない。ただそれだけの思いで、三善は口を開く。
――ここがひとつめの分岐点。
「……やっぱり怖がってばかりじゃあ始まらない。ケファ、」
そして三善はがばりとこちらを見つめるケファへと向き直る。その行動に驚いたのか、ケファは珍しく瞠目していた。
「飛行機に乗らないで」
その一言に、ケファはきょとんとした。数拍の間ののち、彼は「なんだそんなこと」と言わんばかりの様子で微笑む。
「さみしいならさみしいって言っていいんだぞ。俺だって、」
「そうじゃない」
彼の優しい声色すらも三善はばっさりと切り捨て、再び強い口調で切り返す。
「頼むから乗らないで」
その必死な声色に、ケファの表情から穏やかさが消えた。そしてじっと口を閉ざし、何かを考えている様子で己の唇をなぞる。
「ヒメ君、ケファを困らせては――」
この期に及んで駄々をこねだしたのかとホセがたしなめようとするも、今度はそれをケファが遮った。
「いや、ホセ。俺が聞く」
三善、とケファがその名を呼び、三善の目線の高さまで身体をかがめた。そしてケファは、確かめるようにゆっくりと口唇を動かした。
「……、『俺』はいま飛行機に乗ってはいけない。そうだな?」
「うん。『あなた』が飛行機に乗る。その行動がいけない」
「じゃあ、どうすればいい」
「分からない」
でも、と三善は続ける。「これだけは言える。おれは、……『僕』は、あなたを迎えに来た。どうか一緒に来てほしい。あなたが帰るところも、行くところもひとつだけだ」
三善の言い分の意図が分からずに、ホセは首を傾げるばかりだった。
しかしケファは違った。暫しの逡巡ののち、ケファは三善にもうひとつ尋ねた。
「『二一七六日』。それは合っているか」
「うん。あなたの計算は正しい」
それはケファにとって想定範囲内の回答だったのだろう。しかし、俄かに信じられないという様子で数回大きく瞬きをして見せた。
いや、でも、まさか……とケファが歯切れの悪い調子でなにかを呟くものだから、三善は小さく息をつき、それからこのように言った。
「『あなたなしには生きられない』。これでどう?」
その一言に、ケファだけでなくホセまでもが反応した。まるで石になったかのように身体を硬直させ、まさかと言わんばかりに目を剥いている。前回ケファ、もといヨハンが「ホセに対しても有効」と言っていたが、それが本当のことだったと証明された瞬間でもあった。
初めに動いたのはケファだった。三善の目の前で声にならない声を上げながらその場にしゃがみ込み、両手で頭を抱えている。
「あああ、もう……! ヒメ、それ、俺から聞いたの?」
「うん」
「なんで言っちゃうかなぁ、俺は。ただのバカだろ、バカでしかない……」
そしてケファはその体勢のまま声を上げる。「ホセ!」
その声を耳にし、硬直していたホセがようやく我に返った。妙に上ずった声で、
「な、なんでしょう」
「俺、ドイツに行くのやめる。帰るぞ」
そしてケファはきっぱりとそう言い放ったのだった。
そんな彼の行動に驚かない訳がなかった。ホセは「はっ?」と間の抜けた声をあげ、咄嗟に来た道を戻ろうとするケファの腕を掴む。
「いきなり何を言い出すんですか。もう辞令は降りているんですよ」
「ここに残る理由ができた。だから行かない」
「そんな無茶な理由で……!」
「大事な教え子が『未来』からわざわざ戻ってきた。俺にとっては十分すぎる理由だ」
は、とホセが息を飲む。ケファがなにか、とんでもないことを言った気がするのは気のせいだろうか。そんな胸の内がはっきりと聞こえてくるようだった。
――普通はあり得ないことをしているのだから、当然か。
三善は小さく息をつき、無意識に指にはめる金のインタリオリングに触れる。
そしてケファははっきりと言った。
「そこにいるのは今から『二一七六日』後――約五年後の三善だ」




