「リターンマッチはこれからだ。」Ⅴ
夜の闇にふたりの影が消えていくのを見送ると、ノブ子はヤレヤレと肩をすくめ、片手を腰に当てて、おどけたポーズを取った。
(んふ、若いわねぇ~。現役だった頃を思い出すわぁ……)
口元の笑みには、懐かしさと、ほんの少しの寂しさが混ざっている。ネオンの光が街路の水たまりに反射して、ピンクや紫が揺れる。まるで、かつて自分がステージで浴びていたライトみたいだ。
「んふぅ……もう少しピチピチだった昔のアタシなら、後ろからついて行っても面白かったかもねぇ。でも、今は店もあるし、やることもあるわねぇ。」
ため息混じりの声に、夜風がカラカラと看板を揺らす。
あのふたり──進道ちゃんとサルタナちゃん。どっちもクセの強い子たちだ。
(イケメンのロシア人、サルタナちゃん……女装させたら絶対ウチで人気出るわねぇ……事が終わったら『ラブリー・エンジェル』に勧誘しようかしらぁ)
顎に指を当て、唇に妖艶な笑み。筋肉のつき方、彫りの深い顔立ち。少し化粧すれば舞台映えは間違いなし。
「いらっしゃいませ♡」
って言った日には──
(んふふふ、常連さん、鼻の下伸ばしちゃうわねぇ♡)
妄想に浸りつつ、ノブ子は自分で開けた店の扉を引いた。
ギィ……と軋む音と共に、暖かな光が店内に漏れる。
散らかった店内。ガーゼや包帯、消毒液の瓶が無造作に転がり、小さな血の跡が点々と残る。ネオンに照らされ、赤い染みが妖しく光る。まるで、夜そのものが血を吸って笑っているみたいだ。
「んもぉ……開店前にこんな汚しちゃって、ほんと大変なんだからん……」
苦笑しながらモップを取り、しゃがみ込んで血の跡を拭く。指先に伝わるぬめり。消毒の匂いと鉄の香りが鼻をつく。
ふと手を止め、磨かれた床に映る自分の姿を見つめる。
裏の世界では情報屋、表ではオカマバーの女将。
裏も表も関係なく、誰にでも平等に接する。それがアタシのオカマ道。
「んふふ……生き方って、ほんと舞台みたいねぇ」
呟きながら照明を少し上げ、カウンターを整える。
ミラーボールの光が天井をくるくる回り、色とりどりの影を壁に投げる。
その光景を眺めて、ふと手が止まった。カウンターの上に置かれたガラスのコップが目に入る。
その瞬間、思い出した。
先日、情報収集をしていたときのこと——
アタシの愛娘、世里奈ちゃんが部下の進道ちゃんと付き合い始めたという噂を耳にしたのだ。
最初は「まさかねぇ」と笑い飛ばそうと思った。
でも、確かめてみたらどうも本当らしい。
世里奈ちゃん。
けれど芯の強さは、誰にも負けない。
アタシとハニーの間に生まれた可愛い娘。あの子を泣かせるような真似は、絶対に許さねぇ。
進道ちゃん……いや、進野郎は年の離れたダチ公で、若いのに筋が通ってて、どこか不器用で真っ直ぐな男。
(世里奈ちゃんが泣く顔なんて、見たくないのよ、ほんとに。)
ノブ子はコップを指でくるくると回す。
ガラスがネオンの光を受けて、淡い虹色を帯びた。
「……ダメよねぇ、親がこんなに心配しちゃ。」
思わず口に出すと、少し目が熱くなる。
でも次の瞬間、懐に仕込んだメイク道具を取り出し、崩れた化粧を整える。オカマスマイルで自分を誤魔化す。
ノブ子はぐっと息を吸い込み、コップを握りしめた。
──その時だった。
手に力が入った。
もし、進が世里奈を悲しませる場面を、一瞬でも頭に浮かべたのだ。
それだけで、全身の血が逆流する。
「進のヤロー……テメェが世里奈の幸せを曇らせるようなことがあったら——」
パンッ。
乾いた破裂音。握っていたガラスのコップが粉々に砕け、粉塵となって飛び散る。
カウンターの上には、わずかに残った水滴と光の粒だけ。
「……あら、やだ──てへぺろ☆」
ノブ子はにっこり笑い、掌は無傷。ガラスよりも強靭な、オカマの愛と鍛え抜かれた握力の賜物。
「さてと……お店、開ける準備しなきゃねぇ」
モップを再び握り、血の跡も粉々になったガラスのかけらも、ひとつ残らず消していく。
「んふふふ、これでキレイになったわねぇ♡」
独り言を呟き、スピーカーから懐かしいバラードを流す。照明をチェックし、ボトルを並べ、香水をひと吹き。
すべての準備が整い、窓の外を見る。夜風に煽られた広告の紙片がひらりと舞い、街の喧騒は遠く、ネオンは揺れる。
進道ちゃんとサルタナちゃんの姿はもうない。
でも、ノブ子の視線だけは、確かに彼らの進む道を追っていた──。
(誰かが娘を悲しませるようなことがあれば……そのときは──!)




