第11話「『わらわは、魔王ノジャリアなのじゃ』〜居場所が欲しかった魔王〜」
商隊護衛の依頼書には、荷物の総量と馬車の台数と、道中の想定所要日数が書いてあった。
ルークスは「護衛」の二文字だけ読んで受けた。依頼書の裏面に書かれた注意事項——荷崩れ時の損害負担、休憩地点の指定義務、護衛範囲の定義——には目を通していない。わらわも読んでいなかった。ただ、ルークスよりは先に裏面があることに気づいた。
*
商隊は馬車三台。御者が三人、荷主が一人。荷物は木箱と麻袋で、中身は乾物と香辛料と金物類だと荷主が言った。
出発して最初の一刻で、ランバルトの歩き方が変わった。
盾を背負い、装備一式を身につけたまま馬車の横を歩くランバルトが、先頭の左側についた。道は緩い上り坂で轍が深く、馬車が揺れるたびに盾の位置を直している。直すたびに、右手が腰のあたりを掠めた。
二台目の荷台では、鋳鉄の鍋が木箱の上に載せただけで固定されていない。揺れるたびに鍋が滑り、木箱ごと荷台の左端へ寄っていく。傾きが増せば、左側を歩いているランバルトに荷重がかかる。
わらわは二台目に近づいて鍋を荷台の中央に戻し、木箱の間に麻袋を詰めて動かないようにする。御者が何か言いかけたが、こちらはもう三台目に移っていた。
三台目の荷台には毛の長い山羊の革が束ねてあり、メリノの視線が一瞬そちらへ流れた。わらわはメリノと荷台の間に入り、革の束が見えない位置に誘導した。
「システィナ、何してるの?」
「荷崩れの確認だ」
メリノが首を傾げている横を通り過ぎて、前を向いた。
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昼の休憩は、依頼書の指定地点を避けて手前の木陰で取った。指定地点は日当たりがよすぎて馬を休ませる水場もない。わらわが申し出ると、荷主は地図を開いて確かめ、頷いた。
ランバルトが木の幹に背をつけて座った。盾を地面に置くとき、右膝がわずかに折れる。両手を膝の上に置くまでに、少し間があった。
わらわは水筒をランバルトの足元に置いた。
「ここに置いておく」
「ああ。すまない」
ルークスは馬車の上に座って剣の柄を磨いていた。柄だけの剣だった。フリージアは木の根元で鞄を開け、中を探っていた。何も出さずに鞄を閉じた。詠唱メモの紙は、まだなかった。
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午後、道が森に入った。
木々の間から、獣の気配がした。小さかった。視線の端で枝が揺れたが、姿は見えない。わらわは足を止めなかった。この距離と大きさなら、こちらから仕掛けなければ来ない。
問題は先頭だった。ルークスが柄に手をかけている。手が柄にある限り、獣はこちらを脅威と見なす。
「ルークス」
「ん?」
「手を下ろしてくれ。刺激する」
ルークスは手を下ろした。枝の揺れが止まった。
森を抜ける間に、わらわは二度、ランバルトの位置を変えた。一度目は二台目の馬車の右側へ。左側は下り斜面で、足場が悪い。二度目は三台目の馬車の後方へ。荷主が先頭で交渉ごとを始めたため、後方の警戒が薄くなった。
森を出たところで、ランバルトの盾を馬車の荷台に載せた。
「盾は——」
「荷台に載せておけ。今は要らない」
ランバルトは何か言いかけて、やめた。盾がなくなった肩を、右手で一度さすった。
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夕方、三台目の馬車の車輪が轍にはまった。
御者が馬を叱咤している間に、荷台が傾き、革の束がずれた。メリノが荷台に手をかけて革の束を押さえようとしたとき、束の間からもふもふの山羊革が一枚はみ出した。メリノの手が止まった。
わらわはメリノの前に立ち、革の束を押し込んだ。
「メリノ、向こうの馬車を見てきてくれ」
「……う、うん」
メリノは走っていった。振り返らなかった。
車輪が轍から抜けて荷台が水平に戻ると、荷主がこちらを見て一つ頷いた。
*
野営地に着いたのは、日が山の端にかかる頃。
馬車を並べ、馬を繋ぎ、荷物を確認した。わらわは三台分の荷物の固定をやり直し、翌朝の出発順を御者と打ち合わせた。ランバルトの盾は荷台から下ろし、寝床の横に立てかけておいた。
焚き火の前で、ルークスが干し肉を齧っている。隣にフリージアが座り、火を見ている。メリノは馬の近くで、鬣に手を伸ばしかけては引っ込めている。
ランバルトが焚き火の向かいに座った。腰を下ろすとき、右手が腰骨を押さえなかった。
「システィナ」
荷主と明日の行程を確認している途中だった。断りを入れて振り返った。
「今日、助かった」
「何がだ」
「盾を荷台に載せてくれただろう。あれで、午後はだいぶ楽だった」
わらわは何も言わなかった。
「荷物の配置も、休憩の場所も、メリノが山羊革に近づかないようにしてたのも——全部、見てた」
ランバルトは焚き火を見ていた。炎の色が顔の片側を照らしている。
「前は、それをシスティナがやってた。俺は気づいてなかった。今日、お前がやってるのを見て、ああ、ずっとこうだったのかと思った」
わらわの手が止まった。
「ちゃんと見てくれてたんだな。ありがとう」
焚き火が爆ぜた。薪が崩れ、火の粉が上がった。
息を吸った。胸の底まで空気が入ったはずなのに、声にならない。
玉座の前で額を床に押しつける者なら、いくらでもいた。すれ違えば目を伏せ、呼べば震えながら来る。ランバルトの目は、そのどれとも違った。
その違いが、わらわの喉を塞いでいた。
「——わらわは」
声が出た。出た瞬間に、間違えたと分かった。
ランバルトの目がこちらを向いた。ルークスの手が干し肉の上で止まった。フリージアが火から顔を上げた。
「……今、なんて言った?」
フリージアの声だった。低く、静かだった。
わらわは口を閉じた。遅かった。
「『わらわ』って、言ったよね」
焚き火の音だけが続いた。薪が燃える音。馬が鼻を鳴らす音。それ以外は何も聞こえなかった。
フリージアが立ち上がった。鞄を持っていない。手に何も持っていない。詠唱メモの紙は切れたままだった。そのことに苛立ちもせず、紙の補充を誰かに頼みもしなかったこの人は、ずっと、別のことを見ていた。
「ずっと、おかしいと思ってた」
フリージアの声は揺れていなかった。
「覚醒してから、戦い方が変わった。強くなったんじゃなくて、別の人間の動き方になった。口調も、間の取り方も。詠唱メモの紙が切れたとき、前のシスティナなら気づいてた。気づいて、何も言わずに補充してた」
ルークスが立った。干し肉を地面に落とした。拾わなかった。
「システィナ。お前、本当にシスティナなのか?」
わらわはルークスの顔を見た。見てから、自分の手を見た。システィナの手だった。細く、白く、帳簿に向いた手だった。この手で今日、荷物を直し、盾を運び、山羊革を押し込んだ。わらわの手ではない。だが、わらわが動かした手だった。
「——違うのじゃ」
声は低かった。魔王の声ではない。システィナの喉から出る、魔王でない声だった。
「わらわは、魔王ノジャリアなのじゃ」
焚き火が、もう一度爆ぜた。
*
誰も動かなかった。
最初に動いたのはルークスだった。剣の柄に手をかけた。握った。握ったまま、手を下ろした。
「元に戻せ」
「できないのじゃ」
「なぜだ」
「システィナの——本物の身体が要る。わらわの身体だ。魔王城にあるのじゃ」
ルークスの手が柄から離れた。フリージアが腕を組んだ。
「憑依なの?」
「違う。魂の入れ替えなのじゃ」
「教会の浄化術で祓えるんじゃない?」
メリノが馬の横から声を出した。わらわは首を振った。
「浄化は憑依に対する術だ。入れ替わりに使えば、この身体ごと損なわれる。システィナの身体が壊れるのじゃ」
メリノの手が馬の鬣から離れた。
「解呪は?」
フリージアだった。
「魔術ギルドで、入れ替わりの解除を——」
「外部の術では解けないのじゃ」
「なぜ」
「魔王の秘術だからじゃ」
フリージアの腕が解けた。両手が体の横に下がった。
「じゃあ、あんたを王国に引き渡す。魔術の専門機関に身柄を預けて、解除させる」
わらわは黙った。
「答えて」
「……拘束されても、意味がない」
「なぜ」
焚き火が低くなっていた。薪を足す者がいなかった。
「解除には、二つ要る。システィナがわらわの視界にいること。そして——」
わらわは止まった。止まってから、続けた。
「——わらわが、解除すると決めること」
四人が黙った。
「意思が要るということ?」
フリージアの声が、一段低くなった。
「そうなのじゃ」
「脅しても、縛っても、お前が『解除する』と思わなければ戻らない」
「……そうだ」
ルークスの視線が腰の鞘に落ちた。しばらくそこに留まり、それからゆっくりと焚き火に戻った。
ランバルトが焚き火の前に立ったまま、わらわを見ていた。さっき感謝を伝えたときと同じ目。そこから、わらわは視線を外せなかった。
「なぜ、入れ替えた」
ランバルトだった。
答えは知っていた。あの日、光の中で、奪われる側の女に向かって言った言葉をそのまま繰り返せばいい。呼べば振り向いてくれる場所が欲しかった。あのときは簡単に言えた。勝った側の台詞だった。
今、同じ言葉が喉の手前で止まっていた。
「……あいつの場所が、欲しかった」
ルークスの眉が寄った。
「場所?」
「あいつは、お前たちに要られていた。呼べば振り向いてくれる者がいた」
焚き火が低く燃えている。薪を足す者は、まだいなかった。
「わらわの玉座では——声を出しても、返るのは石壁の反響だけだった。跪く者はおる。だが顔を上げる者は、一人もおらなんだ」
わらわは口を閉じた。あの日、あの言葉を吐いたとき、こんな味はしなかった。
四人が黙った。ルークスは自分の手を見ている。フリージアは地面に目を落とし、メリノは馬の首筋に手を置いたまま動かない。
ランバルトだけが、わらわを見ていた。
「それで、システィナの代わりに俺たちの荷物を直して、盾を運んで、腰の心配をしてたのか」
わらわは答えなかった。
「本物のシスティナは、今どうしてる」
ランバルトの声は、変わらなかった。
「魔王城にいるのじゃ。わらわの身体で」
「無事なのか」
「——分からない」
ランバルトは頷いた。それだけだった。
「魔王城に行く」
ルークスが言った。柄だけの剣を腰に差し直した。
「システィナを取り戻す。方法は道中で考える」
「王国には、まだ報告しない」
フリージアが付け加えた。その声は、詠唱のときと同じくらい正確だった。
メリノが馬の横から歩いてきた。服の裾に馬の毛がついている。目の前で立ち止まり、こちらの顔を覗き込んだ。
「ランバルトの腰、明日もちゃんと見てね」
頷けなかった。頷かないまま、焚き火の前に座った。鞄の底にシスティナの手帳がある。開いても読めない。だが今日やったことの大半は、あの手帳に書いてあったことだった。
読めなかったのに、同じことをしていた。
その意味が、まだ分からなかった。




