不吉な予兆
王都の喧騒から少し離れた、裏通りにある石造りのこぢんまりとした宿屋。その一室を貸し切った俺たちロドウェル一家のテーブルには、普段の領地での生活ではお目にかかれないような豪勢な肉料理や、琥珀色に輝く果実酒が並べられていた。
闘技場での興奮の余熱は、夜が更けてもまったく冷める気配がない。
「明日は、早くロドウェルに帰って領民に自慢しようぜ!」
大ぶりな骨付き肉を片手に立ち上がり、バンッとテーブルを叩いたのはライオネルだ。次兄の瞳は、まるで自分が優勝杯を手にしたかのようにキラキラと輝き、逸る気持ちをまったく抑えきれていない。
「……ライオ兄が勝った訳じゃないでしょ。」
俺は手元のスープを匙でゆっくりと掻き混ぜながら、やれやれとため息をついた。
相変わらずの脳筋っぷりだ。こいつの頭の中には、すでに領地の広場で領民たちを前に武勇伝(兄のだけど)を語って聞かせる自分の姿ができあがっているらしい。
俺の呆れたようなツッコミにも、ライオネルは「細かいことは気にすんな!」と豪快に笑い飛ばすだけだった。
だが、そんな和やかな空気を、主役である長兄の静かな声が引き止めた。
「ごめんね、ライオ。実は明日、一緒にロドウェルへ帰ることはできないんだ」
「え?」と、ライオネルが間抜けな声を漏らす。
俺もスープを掬う手を止めた。
「優勝者の義務、とでも言うべきかな。明日からすぐに、王属騎士団の特別訓練所での生活が始まるんだ。それを乗り越えて、王様に正式に認められて初めて『騎士』になれる。……みんなと一緒に帰れるのは、それからなんだよね」
エドワードは、心底申し訳なさそうに眉尻を下げてライオネルをなだめた。
その整った顔立ちには、家族と離れる寂しさと、これから始まる過酷な訓練への決意が入り混じっている。
王属騎士団。アルカディア王国において、最強にして最高の栄誉とされる武の頂点。
エドワードの実力なら、訓練などとうに超えているはずだが、地方の男爵家の長男が特例でいきなり騎士の称号を得ることはできないという、貴族社会特有の面倒な手続きの壁なのだろう。
(……残念だな)
俺も内心で少しだけ肩を落とした。
と、同時に――背筋を冷たい水が流れ落ちるような、特有の感覚が肌を粟立てた。
『勘』だ。
闘技場で見た、ヴァルガス伯爵親子の隠しきれない殺意。
そして今、エドワードが口にした「王様」や「王属騎士団」という、権力の中枢に身を置くということ。
純白の騎士の鑑である兄が、嫉妬と権力闘争が渦巻くドロドロの王都に一人残される。その事実が、俺の頭の中で最悪の因果関係を結びつけようとして警鐘を鳴らしていた。
「エド兄」
気がつけば、俺は口を開いていた。
俺にしては、ひどく硬く、低い声だった。
「気を付けて」
詳しい根拠なんてない。ただの勘だ。
だが、そのたった一言に込めた俺の重いトーンから、エドワードは何かを感じ取ったらしい。優しげだった兄の瞳に、ふっと真剣な騎士の光が宿る。
「……ジズの勘は、昔から無視できないからね。ありがとう、善処するよ」
エドワードは真顔で頷いた。
俺のちょっとした勘を、長兄は絶対に馬鹿にしない。それがわかっているからこそ、これ以上言うべきではないと判断した。
ただでさえ今日は、エドワードの人生最大の晴れ舞台なのだ。これ以上、俺の根拠のない嫌な予感で、せっかくの祝いの席に水を差したくはなかった。
「こらこらジズ、せっかくの祝いの席だ。陰気臭い話は止めよう」
パン、と手を叩いて空気を変えたのは、父・バルトロだった。
「それよりエドワード! 準決勝の相手、あの王属騎士団のホープはどうだったんだ?」
「俺も聞きたい! あの下段からの跳ね上げ、どうやって防いだんだ!? 教えてくれ!」
ライオネルも父に同調し、身を乗り出してエドワードに質問の嵐を浴びせ始める。エドワードも苦笑しながら、手元のナイフとフォークを剣に見立てて、身振り手振りで試合の攻防を解説し始めた。
(呑気なもんだな……)
熱を帯びる三人を見つめながら、俺は再びスープに口をつける。
父上もライオ兄も、エドワードの強さを盲信している。あの強さがあればどんな悪意も撥ね退けられると、疑いもしない実直な人たちだ。
だが、剣の届かない場所から飛んでくる刃もあるのだということに、あの人たちは気づいていない。
「ジズ」
ふいに、隣から静かな声がした。
見上げると、母・マリエルが俺の空になったグラスに果実水を注ぎ足してくれていた。
「エドなら大丈夫よ。あの子は、強い子だから」
言葉数は少ないが、その声には不思議な説得力があった。
母の穏やかな、けれど全てを見透かしているような深い色の瞳と視線が交差する。
「……そうだね、エド兄は誰よりも強い」
俺は短く同意し、グラスを受け取った。
この人は、本当に周りが見えている。俺が何を危惧して口を噤んだのか、その不安の正体すらも、おそらく察しているのだろう。
俺のこの、他人の感情や場の空気を読めてしまう「勘の良さ」は、間違いなくこの母譲りだ。商家で培われたその観察眼の鋭さに、俺は密かに舌を巻いた。
家族団らんの時間は、王都の夜が白み始める少し前まで、温かな笑い声と共に続いた。
* * *
翌朝。
王都の空は抜けるように青く、馬車の往来が慌ただしく通りを埋め尽くしていた。
宿屋の前に停められたロドウェル家の馬車の傍らで、俺たちはエドワードとの別れを惜しんでいた。
「エドワード。達者でな。次に会う時は、正式な騎士だな」
父・バルトロが、エドワードの両肩を力強く掴む。
実直な男爵家の当主としての、少しだけ厳かで、誇りに満ちた声だった。
「はい、父上。必ずや」
長兄は姿勢を正し、貴族としての完璧な礼を執った。
そこにいるのは、家族に笑顔を見せる優しい兄ではなく、アルカディア王国の未来を背負うであろう、一人の立派な若き騎士だった。
馬車に乗り込む前、エドワードはライオネルと力強い握手を交わし、母と抱擁し、最後に俺の頭をポンと撫でた。
「じゃあな、ジズ。家のこと、少しは手伝えよ」
「気が向いたらね。エド兄こそ、無茶しないでよ」
軽口を叩き合い、エドワードは踵を返して王都の中心、王城へと続く大通りを歩き出した。
そのプラチナブロンドの髪が人混みに紛れて見えなくなるまで、俺たちは誰も口を開かなかった。
胸の奥にこびりついた、薄暗い泥のような嫌な予感。
一晩経っても、それは消えるどころか、王都の巨大な城壁を見上げるたびに濃くなっている気がした。
(エド兄、必ず無事で……)
馬車の揺れに身を任せながら、俺は窓の外を流れる景色に向けて、誰に届くとも知れない祈りを小さくこぼした。




