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シェア姉  作者: 濱野乱
6/6

お姉ちゃんはほっとけない。


「真人君は、私の弟でいいんだよね? そうだよね?」


みのりは救いを求めるように、真人に懇願する。


真人には、事の軽重が理解できないまま、みのりに応じる。


「はい」


問題は食後だった。


テレビをつけるも、みのりの存在が気になりだしたのだ。みのりが決して邪魔だったわけではない。みのりは真人に不要な雑談を振ろうとしないし、目が合うと微笑んでくれる。これ以上ないほど至福な時間だったが、慣れが必要なようだ。


「そろそろ部屋に行くよ。学校の宿題があるから」


言い訳がましいのを悟ったのか、みのりは作り笑いを浮かべて送り出した。

 

「あ、うん。がんばって」


真人は階段を中程まで上って考え込む。みのりはどことなく寂しそうだった。足早に部屋に駆け込み、ノートを持ってリビングに戻った。


「勉強ここでしてもいい?」


訊ねられたみのりは、安堵したように頷いた。


みのりは大学生ということもあり、真人の勉強に嘴を入れてきた。それ自体はそう悪いこともなく、的確な指導に刺激を受けた。


切りのいい所で勉強をやめて、真人は風呂に入った。みのりも入ると言ってきかなかったが、この日は固辞することに成功した。まだ羞恥心が残っている。


とはいえ、一人きりの湯船を広く感じ、膝を抱えてじっとしていた。


真人がリビングに戻ると、みのりは携帯電話をテーブルに戻していた。それは真人の携帯だったが、真人は冷蔵庫に真っ直ぐ向かったので、その行為に気づくことはなかった。


「みのりさんも、風呂入ってきなよ」


「うん後で」


一緒に風呂に入らなかったので機嫌を損ねたらしい。頬杖をついてよそを向いている。


二階に上がろうとした真人は、おや、と足を止めた。壁に備え付けの棚に、金魚鉢が置かれている。中には二匹のグッピーがいる。


「買い物ついでに買っちゃった。駄目?」


真人は元より咎めるつもりもなかったので、鉢を大事そうに抱え、みのりの前に持っていき一緒に眺めた。


「きれいだね」


金魚鉢の中で光が尾を引くようにきらめいている。

 

「よかった。気に入ってくれた?」


「うん」


無言で小さなプラネタリウムに見入る。知らず知らず夜更けに足を踏み込んでいた。


 二


翌朝、目が覚めた時、深い懊悩から解き放たれたように頭が軽い。みのりの姿は既にベッドから消えている。体温とラヴェンダーのような残り香がわずかに漂う。


部屋のカーテンを開けると、雨がガラスを弱々しく叩いている。


残念がりながら下に降りた。


「おはよう」


真人の方から、みのりに声をかける。


卵黄の二つ入った卵をフライパンに落としながら、みのりは反射的に顔を向ける。


「おはよー、朝早いね!」


「みのり姉さんの方が早いだろ。たまには僕やろうか」


「ううん。座ってて。お弁当もすぐできるから」


真人の出る幕はないようだ。みのりの方が遙かに手際がいいのだ。

 

「あれ?」


真人は、金魚の片割れの動きが鈍っているのに気づいた。帯びれが水圧に負けたようにへたっている。


「元気ないな。餌やっとくか」


粉末状の餌をまいてから、食卓についた。


みのりは、タートルネックのセーターを着て、化粧っ気のない顔をしていたが、むきたての卵のような素肌がみずみずしい。本当にこの人が自分の姉なのか、真人に疑問を抱かずにいられなかったが、口に出すことの反動を考えている。


鮭に、豆腐と葱の味噌汁、目玉焼きを食べた。みのりは夕べから何かの肉を煮ていた。


朝食を終えると、制服を着せてもらい、弁当を持たせてもらう。


「あ、そうだ、リビングにノート出しっぱなしだったよ」


「ありがとう。行ってきます」

 

みのりは真人の姿が完全に視界から消えるまで、家のドアの前で見送りをしている。

 

それからゴミ捨て場に向かい、粗大ゴミを捨てた。 


その中には真人の父親の買った絵も混ざっていた。


お弁当を躊躇なく広げた真人を、クラスメートたちは羨ましがった。


今日も雨は止まない。傘を忘れていればみのりが持ってくれただろうか。


放課後、湿気でじっとりと黒ずんだアスファルトに、みのりが傘を差して立っている。


紅い唇が蠢く。


「お家に帰ろう、真人君」


真人はふらふらと人形のように、みのりに連れられ歩き出す。


家に帰った真人は、金魚鉢に餌をやった。元気のなかったグッピーが忽然と姿を消していた。


暖かい食事にありつくと、倦怠感が襲ってくる。一端自室に引っ込もうとする。リビングの壁に手をついた。何か殺風景だと思っていたが、父の絵がなくなっている。


「姉さん」


「ん?」


真人の背後にいたみのりに訊ねようとしたが、意識が暗幕のように重くなってきて、思考を阻害するのだった。


みのりは、セーターを脱ぎ、スカートをするりと落とした。蛇の抜け殻のような、生まれたままの姿。真人もそれ盲目的にそれに従う。  


二人が入ると湯船から並々とお湯が溢れ、排水口に吸い込まれていく。


みのりは真人に目を据え、じっと向かい合っている。


みのりが来るまで、真人の入浴時間は短かった。今では疲労が限界になるまで、浸からなくてはならない。


風呂を出るとみのりに体を拭いてもらい、床に入る。


真人がベッドに横になって、みのりもその脇に滑り込むようにして寝る。


「姉さん、絵のことなんだけど」


「調度に合わないから仕舞った。勝手してごめんね」 


そう言われると、追求できなくなってしまう。疲れもあってうとうとしていると、みのりの温もりがなくなっているのに気づく。


体を起こし、暗がりに目を凝らす。みのりはどこに行ったのだろう。 


廊下の途中で父の書斎の扉が開いている。部屋の中には何もない。父の机や、大学時代の剣道の優勝トロフィーなど全てが見あたらない。


真人は階下に降りる。リビングはかつてと様変わりしていた。観葉植物が、まるで密林のように部屋のスペースを占拠していくのだ。みのりの仕業だった。


ベランダに至る窓が開いており、そよそよと紫色のカーテンを揺らしていた。

 

物干し竿のある庭の中央で、みのりが屈んでいた。真人の気配に感づいたのか、振り返らずに


「起こしちゃった? ごめんね」


みのりは拳大の石を地面に打ちつけていた。すりつぶすように何度も。


「何してるんですか?」

 

「グッピーのお墓を作ってたの。一人じゃかわいそうだと思って」


そういえばリビングのグッピーが一匹いなくなっていた。


「榮太郎を突き飛ばしたのは、貴女ですか?」


真人が問うと、みのりはおもむろに振り返る。落ちくぼんだ目に光はない。


「榮太郎ってだれ?」 


「僕の家族はどうして帰ってこないのですか?」


真人の質問に答えず、みのりは石を持ったまま一歩近づいてくる。


真人は素足のまま庭を横切り、家の周りを半周すると、公道に出る。


アスファルトに足が削られるようだったが、後ろを振り返ってはいけない。


「ねー、靴履かないと危ないよ! 真人君!」


みのりが石を持たまま追いかけてくる。ゆらゆらと上体を揺らして腕を振るわけでもないのに、急速に距離を縮めてくる。

 

赤信号に構わず、真人は交差点に進入した。


左方向からの目くらむ光線に、体が硬直する。時間が間延びする。背後から何者かの腕が伸びて、真人を突き飛ばした。


  


真人が目を覚ましたのは、白い部屋のベッドの上だった。塩素のような臭いが立ちこめている。真人のベッドの他にもベッドは規則正しく並んでいる。病院らしい。


白い光があちこちに反射して、目が痛んだ。


「よかった、目が覚めた」


突然現れたみのりが上から覆い被さり、抱きすくめる。


「俺はどうなったんですか」


「トラックに引かれそうになったの。私がいなかったら危なかったんだよ」


すると、真人を突き飛ばしたのはみのりだったのか。彼女は命の恩人ということになる。

 

「みのりさん、本当のことを教えてくれませんか。父たちは……」 


「言ってなかった? お父様たちは新しいお家に引っ越したの。だからいらない荷物を私が捨てていたんだよ」


家族にまた会える。真人の心に希望が広がる。


逆にみのりの顔には失望の色が広がった。

 

「やっぱり真人君はお姉ちゃんの弟になってはくれないんだ」


みのりは両手で岩を抱え、真人の顔に叩きつけた。薄れゆく意識でみのりの声を聞いた。


「よかったね。真人君は一人じゃないから。また家族に会えるよ」

 

 


 

「うわっ……」


真人はベッドの上から転がり落ちて目が覚めた。ここは自室だ。カーテンから一条の日差しが伸びて、真人の鼻の頭に当たっている。


背中に溜まった汗が気持ち悪い。一連の不条理は夢の産物だったようだ。


扉が数センチ開いている。真人はおもむろに立ち上がり、勉強机にある携帯を取った。充電器に差していたおかげで電池切れの心配はない。


「あ、もしもし兄貴? 俺だけど」


真人は離れて暮らす兄に連絡を取った。兄は徹夜明けで疲れたような声だった。一刻も早く会話を打ち切ろうと雑な反応しかしてこない。


「兄貴に紹介したい人がいるんだ」


良いものはシェアするべきだ。真人も榮太郎と同じ結論に至ったようである。兄の声も

一転して期待を帯びる。ところが、真人の声がぷつんと途切れる。


「おい、真人、もしもし?」


真人の部屋には携帯だけが残されており、兄の呼びかけに答えることは二度となかった。


扉は小さな音を立てて閉ざされ、階下のグッピーだけが元気に泳ぎ続けていた。


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